別れさせ屋と残念な王子
この仕事をしていてつくづく感じることは、世の中はとても不公平にできているということだ。
持たざる者は何ひとつ持たず、持てる者は金も地位も美貌も、馬鹿らしくなるくらいにすべてを兼ね備えている。
「T大医学部、同大学院卒の博士(ドクター)で専門医試験も最短突破、父親は病床数320床の中核病院の院長、か。――おまけに長身で男前ときたら……なんていうか羨ましいのを通り越して腹立たしくなってきますね、先輩」
北風にぶるりと身体を震わせながら、後輩の渡部が不満げに顔をしかめる。俺はポケットのなかの缶コーヒーを握りしめ、「だからってちっとも幸せそうには見えないがな」と寒さに震える声で答えた。
刑事ドラマなんかで車の中に籠って張り込みをし『ご苦労さん』なんて言葉を交わしあうシーンがあるが、車内で張れるだけマシだよな、といつも思う。
実際の警察がどうなのかわからないが、少なくとも俺たち民間業者は、所構わず車を停めて長時間張り込み続けるなんてことはできない。特に今張り込んでいる駅前の雑居ビルの周りなど、十分もしないうちに駐車監視員の餌食になるだろう。
「しっかしアレですね、金もある、地位もある、いくらだって遊べるだろうに。仕事帰りにペットショップで売り物のネコを眺めるのだけが趣味なんて……なんだか可哀想なひとだな」
この十日間、ターゲットを張り続けてわかったこと。それはこの男がいかに無趣味で交友関係が狭く、家と仕事場の往復に終始しているか、ということだ。
「飲み屋に行ってさ、病院の名刺なんてさっと出したら、美人なお姉ちゃんがわらわら群がってくるだろうにさ」
すでにこの場所に立ち続けて、二時間以上が経つ。小刻みに身体を震わせながら、渡部がぼやく。
ターゲットとの距離は約五十メートル。いくらこの場所がビル脇の薄暗い喫煙スペースだとはいえ、こうも連日張り続ければ、不審がられてもおかしくない。
「そろそろ仕掛けるか」
「ですね。――早いとこ終わらせて、ぱぁっと祝杯あげましょうや」
嬉しそうに顔を綻ばせる渡部の背中を軽く小突き、俺は灰皿にタバコを押し付けた。
持てる者と、持たざる者。
そんなふうにひとを分類したとき、俺は明らかに後者に入るだろう。
幼いころに両親が離婚し、育ててくれた母も俺が中学三年のときに再婚した。継父とうまくいかずに家を飛び出し、俺は典型的な下流人生を送ってきた。
金も、地位もなにもない。だけどひとつだけ持っているものがある。母は若いころ、歓楽街一の売れっ子ホステスだったようだ。その母から引き継いだこの顔だけが、俺の持つ唯一の財産だ。
閉店間際のペットショップ。足音を忍ばせ、ガラスケースのなかの子猫を眺めるあの男のすぐ後ろに立つ。
「可愛いですよねー、この子」
普段の声より幾分高い声で、俺はさりげなさを装い男に話しかけた。
「え、あ、ああ……そうですね」
驚いた顔で男が振り返る。きっちりと固めた前髪にメタルフレームの眼鏡。上質なコートに、いかにも仕立てのよさそうな背広。その中身は服装に負けず劣らず気品にあふれ、見る者の目を惹きつけてやまない。――それなのになんだろう。この残念なオーラは。つくり自体は完ぺきなその顔だちを情けなくゆがめ、男はぎこちなく笑みを浮かべる。
なに不自由なく育てられてきただろうに。自信に溢れていたっておかしくないはずのその顔は、まるで飼い主を見失った子犬のように気弱な色を滲ませている。
事前調査でこの男の性格はある程度把握しているから、そんな顔をされても動じずにいられる。けれどもなにも知らない状態でそんな顔を見せられたら、拍子抜けして表情に出してしまいそうだ。
にこやかな笑みをつくり、俺はさらに一歩彼に歩み寄る。
「僕もネコ、すっごく好きなんです。あ、そうだ。これ、駅前で配ってたんですけど……よかったらいっしょに行きませんか」
ポケットの中から一枚のチケットを取り出す。ネコカフェの割引券だ。二人以上で来店しないと割引されないシステムらしい。
「ネコカフェというのは……店内にネコがたくさんいるというアレですか」
「ええ。ガラス越しにネコが遊んでいるところを見れるんですよ。追加料金を払うとガラスの中に入ることができて、ネコに触れたり、餌をあげたりすることもできるんです」
警戒心をあらわにしていた男の顔が、へにゃんと緩む。どうやら相当ネコが好きらしい。
「い、行きます!」
ぎゅっと拳を握りしめて頷くさまに、俺は思わず吹き出してしまいそうになった。
「わー、本当にネコがいっぱいいるんですね」
ガラス張りの遊戯室。ネコたちが戯れるさまを眺め、男はうっとりとため息を漏らす。
ガラスに額をくっつけるような勢いで食い入るようにネコを眺める男に、店員のお姉さんが声をかける。
「中に入ってネコちゃんたちと一緒に遊びませんか」
「いえ、あの……私、ネコアレルギーなもので」
どうやらこんなにもネコが好きなくせに、ネコに触れることができないようだ。うっかり触れてしまうと、涙と鼻水が止まらなくなるのだという。
難儀な男だな、とつくづく思う。親しい友人もおらず、ただ、触れることもできないネコを眺めるだけの日々。こんな暮らしをしていて、いったいなんの楽しみがあるというのだろう。
男は結局、閉店時間の二十二時までネコを眺めつづけた。
「も、申し訳ありません。こんなに遅くなってしまって……」
我に返った男が必死で頭を下げる。
「いえ、構いませんよ。僕もとても楽しかったですから」
笑顔を向けると、男が照れくさそうに頬を染めるのがわかった。
依頼人からの報告で、この男がゲイであること、俺のような細身で整った顔立ちの男を好むことは把握している。そしておそらくこの手のタイプは、清純で大人しく、温和なタイプの男を好むのだろう。この男が好む子猫のように、可愛らしくふるまうのが吉だ。
耳まで真っ赤に染めながら、男が俺から目をそらす。俺ははにかんだような笑顔をつくって、男の視線を追った。
「こういうお店に来てみたいと思っていたのですが……ひとりで外食するのが苦手なもので……なかなか踏ん切りがつかずにいたのです。ありがとうございます。あなたのおかげで、ほんとうに楽しい時間を過ごすことができました」
ぎこちなく言葉を詰まらせながら、男がいう。にっこりと微笑み返すと、男の身体がびくんとこわばるのがわかった。
「こちらこそ、今日は本当に楽しかったです。周りにネコの話をできるひとがいなくて、いつもさみしい思いをしてるんですよ。――よかったらこれからもネコ好きどうし、一緒にこの店にネコを愛でに来ませんか」
「えっ……い、いいんですか?!」
「ええ、貴方がネコを眺めてるときの顔って、なんだかとても幸せそうで。そんな貴方を見ていると、僕まで和やかな気持ちになるんです」
むず痒くなるような甘ったるいセリフだが、おそらくこの手のタイプには有用だろう。
俺の読み通り、男の顔はますます赤く染まってゆく。
「LINE、してますか?」
彼がそんなものをしていないことは一目見ればわかる。けれどもここはあえて、世代のギャップを強調しておく。依頼人によれば年下好みらしいから、そういう演出も有効だろう。
「いえ、そういうのはしていなくて……あ、名刺が……」
わたわたとコートから財布を出し、彼はそこから一枚の名刺を取り出す。差し出されたそれは、高間 晴彦(たかま はるひこ)という彼の名にへたくそな花の絵と眼鏡の男のイラストが添えられた手作り感あふれる謎の名刺だった。
「あの、以前の勤務先で子供たちが作ってくれたものなんです」
見ず知らずの人間に勤務先や職業をさらすのは嫌なのだろう。彼は名前と携帯番号だけが入ったその名刺を手渡してくれた。
「可愛い名刺ですね。いいな、その子たち、『高間さん』のことが大好きなんでしょうね」
いまの勤務先である実家の病院に勤務する前、彼は公営のリハビリテーションセンターに勤務していた。おそらく併設されている知的障害児施設の子供たちにでも作ってもらったものだろう。ニコニコ顔のそのイラストから、子供たちの目に彼がどんなふうに映っていたのか、なんとなく伝わってくる。
「いやあ、そんなことは……」
照れくさそうにしながらも、彼がその名刺をとても大切にしていることが伺える。
「あのっ……家までお送りしますよ。近くに車を停めていますので」
ターゲットである彼に、自宅を明かすわけにはいかない。俺は事務所から徒歩五分ほどの場所にあるコンビニまで送ってもらうことにした。
「きょうは本当にありがとうございました」
笑顔を向けられ、俺は精一杯の作り笑いで彼を見送った。
しばらくその辺をぶらついた後、事務所に戻る。すでに二十三時近いというのに事務所には何人かの工作員が残っていた。後輩であり、今回の相棒である渡部の姿もある。
「あ、お帰りなさい。航(わたる)さん、どうでした?」
事務椅子をくるりと回転させ、行儀悪く『さきいか』を咥えた渡部がいう。まだ二十代前半だというのに、さきいかが大好物というオヤジくさいやつなのだ。
「楽勝だな。二週間もあれば落とせると思う」
マフラーを解きながら答えると、気を利かせた別の後輩が「おつかれさまでーす」とコーヒーを運んできてくれた。「サンキュ」と受け取り、自分の席に腰を下ろす。
「さすが航さん。男も女も、狙った獲物は百発百中ですね」
駅からほど近い場所にある雑居ビル。スペイン語で『幸せ』を意味する『ALEGRIA(アレグリア)』と名付けられたこの事務所がどんな生業をしているのか、おそらく道行く人たちは誰も気づいてはいないだろう。
二〇一一年に警察の取り締まり対象になり、インターネット上の広告表示にも規制がされるようになった通称『別れさせ屋』。
規制後も名称や宣伝方法を変え、多くの事業者が商いを続けている。
『ライフパートナー ALEGRIA』は、そんな別れさせ屋のなかでも老舗といわれる事業者のひとつだ。
多くの事業者が高額な報酬を受け取るだけ受け取り、詐欺まがいなことを行っているなか、ALEGRIAでは実際に別れさせ工作を行い、高い成功率を誇っている。
おかげで宣伝方法の限られる現在でも、口コミによる集客で繁盛しているのだ。
「さすがは元ナンバーワンホストですね」
「やめてくれよ。――昔の話だ」
この事務所の工作員の大半が、ホストやホステスなど水商売あがりだ。俺も今から十年近く前、歌舞伎町で働いているときにスカウトされ、この世界に入ったクチだ。
顔立ちのせいで若く見られることが多いが、実際には三月の誕生日で二十九歳になる。そろそろこの仕事をやめて普通の興信所にでも転職したいところだが、オーナーには義理があり、なかなか踏ん切りがつかずにいる。
「そんなことより、そっちはどうだ。今日も『第二』を張っていたんだろう?」
今回の別れさせ工作の対象となる『ターゲット』と親密な関係にあるとされる『第二ターゲット』。
あの不器用な男からは想像もつかないくらいに見目がよく、おまけにまだ二十歳と若い。ターゲットは三十二歳だから、ひと回りも離れている。
「かなり胡散臭い感じですよ。周囲には美大生だっていってるみたいですけど、実際には学校に通っている気配はない。一月の中旬から下旬っていえば、大抵の大学は後期試験の時期です。そんな大切な時期に二週間も登校しないなんてありえません」
「なるほどな……金目当ての交際か」
「間違いないですね。二丁目でも派手に遊びまわってますし、ターゲット以外にも定期的に会っている相手が複数いるようです」
「ターゲットとの出会いは勤め先の病院だったな」
「ええ。患者として現れた『第二』がターゲットに惚れこみ、口説き落としてデートに持ち込んだようです。診察室でかなり強引に食事に誘っている姿を、看護師が目撃しています」
「前回の逢瀬は先週の金曜か。今週も動くかな」
渡部のまとめた報告書を片手に、卓上カレンダーの日付を指で辿る。
「動くと思いますよ。金曜の晩は毎週のように逢っているみたいですから」
できれば第二とのデート前にもう一度ターゲットと接触し、自分を印象づけておきたい。
俺は二日後の夕方、例のペットショップに向かった。
オペのある日かどうかによって、彼の帰宅時間は大きく異なる。月に数回当直もあり、そんな日はどんなに待ち続けてもここには現れない。勤務先の前で張ってもよいのだが、できるかぎりターゲットの私的空間を荒らさずに任務をまっとうするのが俺のポリシーだ。
「きょうは空振りかな」
時計の針はすでに二十時五十分を指している。この店の閉店時間は二十一時。店内のスタッフたちも閉店作業に取り掛かり始めている。
諦めかけたそのとき、息を切らせて走ってくるあの男の姿が見えた。
閉店間際のペットショップの軒先に全力疾走でやってくるなんて、いったいどれだけネコが好きだというのだろう。
ずらりと並んだケージのうち、右から三列目の二段目、お気に入りらしいアメリカンショートヘアの子猫の前で彼は足を止める。
腕時計の針を眺め、きっちり三分が経過するのを待ったあと、俺は彼に歩み寄った。
「こんばんは」
不思議そうな顔で、彼が振り返る。そして俺の姿を目に留めると、微かに頬を赤らめた。
「ああ、水野さん。このあいだはどうもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ割引券が有効に使えて助かりました。実はですね、今夜も持ってるんです。よかったら行きませんか?」
割引券を差し出すと、彼は「いいですね」と顔を綻ばせる。
ペットショップの店員がシャッターを閉めたそうにしていることに気づき、彼はバツの悪そうな顔で頭を下げる。
「実はここでタダ見するのって、なんだか申し訳ない気がしていたんですよね」
情けない顔で彼は微笑んだ。
ネコは見たいけれど、ペットショップの店員に迷惑だと思われるのは嫌だ。――そんな葛藤を抱える彼にとって、堂々とネコを眺めることのできるネコカフェは、まさに天国なのだそうだ。相変わらずほんとうに幸せそうな顔で笑う。たくさんのネコたちを眺めながらニコニコと微笑む彼を見ていたら、なんだか自分までほのぼのした気持ちになった。
ネコカフェの営業時間は二十二時まで。あっというまに閉店時間になってしまった。
「高間(たかま)さん。夕飯、もうお食べになりました?」
名残惜しそうに店を出る彼に声をかける。
「いえ、まだですけど」
「実はですね……かわいいネコ動画がたくさん載ってるまとめサイトを発見したんです。よかったら一緒にネコ動画を見ながら、ネコ萌えを語り合いませんか」
スマートフォンにネコ動画のサムネイルを表示して差し出すと、彼の目が嬉しそうにきらきらと輝いた。
百八十センチ台後半はあると思しき長身に、きりりと整った精悍な顔立ち。そんな外見が台無しになってしまうほど、その顔はネコに対する萌えですっかりやにさがっている。
『残念なネコ王子』――渡部が勝手につけた彼のあだ名だ。
「いまどき王子はどうなんだ」と死語を指摘すると、彼は「『イケメン』も『王子』もまだそれにかわる代替語がないから、ギリセーフなんです」とよくわからない主張をした。
王子はさておき『残念な〜』という表現は確かにこのターゲットをうまく表している。だから俺も心のなかでこっそりこの男のことを『残念な王子』と呼んでいる。高学歴、高身長、高収入。このうえない優良物件なのに、中身はなんだか残念な男。彼にぴったりの称号だ。
この男の性格を考えれば、高級な店より、庶民的で温かな雰囲気の店に誘ったほうが得策だろう。
「近くに行きつけのやきとり屋さんがあるんですよ。大将がいいひとでね、鮮度がよくてなにを食べてもおいしいんです」
「やきとり屋ですか。実は僕、今まで一度も行ったことがないんですよ」
行ってみたいです、と興味深げな顔をする彼を連れ、やきとり屋へ向かう。
暖簾をくぐると、カウンターに立つ大将は「らっしゃい!」と威勢のいい声をあげ、さりげなく俺の隣に立つ男を観察した。
「おう、水野ちゃん、久しぶり」
偽の名で俺を呼ぶところを見ると、勤務中だということに気づいてくれたのだろう。
「こちらさんは?」
「僕の『ネコ友』です。行きつけのペットショップでね、よく顔を合わせるんですよ。彼もすっごくネコが好きみたいで」
「へえ、そりゃいいな。話のあう友と飲む酒ってのは旨いよなぁ、ほい、じゃあまずは生かい?」
うまい具合に話をあわせ、おしぼりをよこす。流石だ。あとですこし礼を包まなくてはならない。俺が彼を酔わせたがっていることにも気づいているのだと思う。「こいつぁ俺の驕りだよ」と、旨い日本酒を出したり、珍しい部位の肉を選んで彼の関心を惹いてみたりと、自然と酒がすすむよう誘導してくれた。
おかげで店を出るころには、彼はすっかり千鳥足になっていた。
「よいお店ですねー。大将もほんとうにいい人ですし」
すっかり陽気になった彼がにっこりと笑う。相変わらず子供のように邪気のない笑顔だ。
このままホテルに連れ込みたいところではあるが、とりあえずここは身持ちの堅さ、誠実さをアピールすべきだろう。
運転代行を呼び、彼を家に送り届ける。
彼の家は繁華街から車で十分ほど離れた閑静な住宅街の一角にある。病院経営というのは、そんなに儲かるのだろうか。呆れるくらいに豪勢な大邸宅だ。
彼からガレージのリモコンを借り、自動で開閉するシャッターを開ける。彼の車も高そうな外車だけれど、ガレージ内にずらりと並んだ彼の父親のものと思しき車は、どれも眩暈がするくらいに高価なものばかりだ。
「今夜はよい店を教えてくださってありがとうございます。あの、でもワリカンなんて、僕のほうがずっと年上なのに……」
年齢の話はしていないはずだが、かなり年の差があると思い込んでいるようだ。実際には学年で三つしか離れていないのだが、敢えて訂正しないでおく。
「いえ、こちらこそネコ萌えを語れる友人ができて、本当にうれしいんです。むしろ全額僕が払わせていただきたいくらいなんですよ」
「いやっ、そんな、ダメですよ。水野さんに奢っていただくなんて……」
慌てふためく姿が、なんだかとても愛らしい。思わず作り笑いではなく、くすりと自然と笑ってしまった自分に、俺はすこし驚いた。
「やっぱり高間さんと一緒にいると、すっごく癒されます。よかったら今度、いっしょに動物園に行きませんか」
「動物園?」
「ええ、ヤマネコや絶滅危惧種のネコ科動物、ウンピョウやアムールヒョウがいるんですよ」
「み、見てみたいです!」
どうやら動物園というものに一度も行ったことがないらしい。勉強に明け暮れる子供時代を過ごしたのだろうか。ヒョウやトラなどの大型動物は図鑑やドキュメンタリー番組のなかでしか見たことがないのだそうだ。
日曜日の朝、駅前で待ち合わせの約束をしてその日は別れた。
金曜の夜、日付が変わるころに第二とのデートを尾行していた渡部から連絡がきた。
「おつかれ。どうだ、第二とあの男の逢瀬は」
「高層ホテルのフレンチでディナー、食後は同じホテルの地下にあるバーで呑み直し、で……部屋にしけこむのかと思いきや、今回もそこでお開きです」
運転代行を呼び、第二を送り届けた後、残念王子はそのまま自宅に帰宅したのだという。
「これで三週連続、セックスなしです。もしかしたらあの二人、まだ身体の関係はないのかもしれません」
「考え難いな。相手は明らかに金目当てなんだろ」
「ええ、今夜も第二のほうは、相当やる気でしたよ。バーから出た後、ひと目もはばからずにしなだれかかって彼を誘ってました」
そんな第二を、彼はたしなめているふうだったという。
「そうか、ありがとう」
渡部に礼をいい、電話を切る。なぜだかすこしホッとしている自分に、俺はよくわからないモヤモヤした気持ちになった。
「うわー、凄いですっ。こうしてみると彼らもやっぱりネコなんですねぇー……」
アムールヒョウの檻の前でうっとりと両手を組む高間の姿に、思わず吹き出してしまいそうになる。
彼の目にはヒョウやトラ、ライオンさえも『かわいいにゃんこ』に見えてしまうようだ。ネコ科動物を見つけるたびに、檻の前で三十分ちかく留まり続ける。周囲の親子連れから怪訝な目で見られていることに、おそらくまったく気づいていないのだろう。
二月の初旬にしては暖かな日だ。風もなく、空は青く澄み渡っている。園内のベンチに腰掛け、俺はランチボックスを広げた。
「なにからなにまですみません。こんな素晴らしい場所に連れてきてくださっただけでも感激なのに……お弁当まで作ってきてくださるなんて……」
頬を紅潮させてそんなふうにいわれ、『仕事だからな』と腹のなかで呟く。
ウチの事務所の場合、案件にもよるが成功した場合の工作報酬は期間一か月の案件で、最低でも二百万。失敗した場合でも必要経費とは別に六十万円ほど請求させてもらっている。
成功すれば当然、自分たちにも手当が入る。――というか手当がなければ、雀の涙ほどの基本給しか手にすることができないのだ。
人並みの給与を得るには、ひとつひとつの仕事を確実にこなさなくてはならない。そのための努力ならどんなことだって惜しまない。弁当をこしらえるくらい、なんでもないのだ。
「お口にあうかどうかわかりませんけど」
いい年した野郎同士で動物園デートに繰り出し、奇異の目に晒されながら手作り弁当を囲む。どんな罰ゲームだよ、と嘲笑いながら、顔は常ににこやかな笑みを湛えつづける。
アコギな仕事ではあるが、やっていることはホスト時代と大差がない。相手が望む理想の恋人を演じきり、自分に惚れさせる。罪悪感がないといえば嘘になるが、つくづく自分に向いている仕事だと、俺は思っている。
動物園を出るころには、すっかり暗くなってしまっていた。
「やっぱり『にゃんこ』は別腹ですよね」
そう誘うと、彼はネコカフェについてきた。
ガラス越しにネコたちを眺めたあと、例のやきとり屋に向かう。先日手渡したお礼の効果もあって、大将はさらに協力的になっていた。
込み入った話をしたいと望んでいることに気づいてくれたのだろう。テーブル席にも空きはあるが、奥の座敷を使わせてくれた。
酒が入ったところで、さりげなく仕事の話を振る。
「そういえば高間さんってなんのお仕事をされているんですか? もしかして学校の先生とか?」
「先生? そんなふうに見えますか」
「ええ、この間、名刺を下さったときに『以前の職場の子供たちが』っておっしゃっていましたし。高間さんみたいな方が先生だったら、生徒さんは幸せだろうなーって思って」
「学校の先生ではないですよ」
「じゃあ、なんのお仕事を?」
彼はためらうような表情をしたあと、
「――医療関係です」
と答えた。
「医療関係っていうことは……お医者さんとか、理学療法士さんとかそういう?」
「ええ、そんな感じです」
「何科ですか」
「――整形です」
「整形外科のお医者さんなんですか?」
「ええ、まぁ……」
遠慮がちな声で、彼が頷く。どうやら医師であることを、あまり周囲に明かしたくないようだ。そういうタイプの場合、『すごいですね』なんて言葉は逆効果だろう。そんなふうにいわれて喜ぶ男なら、とっくに自分から職業を明かしているはずだ。
「大変なお仕事ですね。当直なんかもあるんですか?」
「ええ、今は月に三回だけですけど」
以前はもっとたくさんあったのだろうか。彼はほんのすこしだけ表情を和らげる。
「お医者さんになるのって、大変なんでしょう? どうしてなろうと思ったんですか」
「祖父や父が、医者なものですから」
「ご家族も、整形外科ですか」
これ以上、仕事の話をするのはマズいだろうか。彼の顔が微かにこわばっている。けれども彼の深い場所に触れるには、おそらくこの話題が一番手っ取り早いだろう。
「いえ、祖父や父は外科です。――自分も外科に進むよういわれたのですが、生死に深くかかわる科は向いていないような気がして」
どうやら、患者の死を看取ることや、生死に直結する手術をすることが苦手らしい。
「もちろん誰かがやらなくてはならない大切な仕事です。技術を極め、ひとりでも沢山の患者さんの命を救う。とても素晴らしいことだとは思いますが……自分にはそれを受け止めるだけの強さがない」
悲痛そうに眉を歪め、彼は目を伏せた。長くつややかな睫毛が微かに揺れている。
「それに、すべての病院や医師がそうだとはいいませんが……場合によっては病院や自身の地位や名声のため、手術の症例数を増やしたい、より高度な手術をたくさん行いたい――そんな理由で、患者さんと向き合う気持ちとは別の方向に向かってしまうこともあるわけで……」
あのような大きな病院を作り上げた自分の祖父や父に対し、なにか思うところでもあるのだろうか。彼の瞳に、いつもとは違う翳りのようなものが感じられる。
「整形外科でも手術はありますよね?」
「ゼロではありませんが、オペ中心、というわけではないですよ。命に関わるようなオペはほとんどありませんし……ウチの病院だと一番多いのは人工関節の類ですね。自分の場合はサポートがほとんどで、メインで執刀するのは褥瘡(じょくそう)の手術くらいです」
「じょくそう?」
「床ずれのことです。ウチは脊髄損傷の患者さんも多いので、寝たきりで床ずれしてしまった皮膚を治療するんですよ」
「寝たきり……」
「ええ、僕なんかより若い寝たきりの患者さんも沢山いて、なんだか正直いたたまれないです。人生これからってときに事故に遭われたり、発病したり。毎日そんな患者さんたちと直面していると……かわいそうなんて絶対に思っちゃいけないってわかってるんですけど、ああ、神様ってどうしてこんなにひどいことをするんだろうって思ってしまって……ああ、すみません。こんな話、退屈ですね」
瞳を潤ませた彼が、必死で表情を繕う。俺はちいさく首を振り、じっと彼を見つめた。
「いえ、退屈なんかじゃありませんよ。――
聞かせてください。俺、もっと高間さんのこと、知りたいです」
「え……?」
不思議そうに目を見開く彼に、照れくさそうな顔を作ってみせる。
「あ、いや、それに……ほら、そういうのって話しちゃったほうが楽になると思うんですよね。そうすることで高間さんのここに皺が寄らなくなったらいいのにって思います。せっかくの男前が勿体ないですから」
身を乗り出すようにして、テーブル越しに彼の眉間にそっと触れる。彼の顔が一瞬にして真っ赤に染まった。
――そろそろイケるかもしれない。
酒のせいもあると思う。彼の口調が、幾分砕けたものに変わりはじめている。ここらで一気に間合いを詰めたいところだ。
「もしよかったら、俺も打ち明け話をしてもいいですか」
酒に酔ったふりをしながら、足を崩して座る。すこし甘えたように彼を見上げながら、俺は自分がゲイであることを打ち明けた。
「――ごめんなさい。気持ち悪いですよね」
「い、いえ、気持ち悪いだなんてそんなこと……」
「中学生のころ、周囲にそのことがバレて、いじめに遭っていたんです。気持ち悪がられて、蔑まれて、助けてくれる人なんて誰もいなかった。不登校になって、高校にも行きませんでした」
彼の顔が悲痛そうに歪む。真っ赤な嘘だけれど、どうやらすっかり信じ込んでいるようだ。
「学歴のせいにしちゃいけないってわかってるんですけど、やっぱり中卒だとなかなか仕事もなくて。今の仕事も非正規だから、いつ首を切られるかわからないんです……」
この手のタイプは、同情心を擽られることに弱いはずだ。『この子を助けてあげなくちゃ』そう思わせることが出来れば、ゴールは近い。
「あ、あのっ……僕でよかったら力になりますよっ」
援助(サポ)でも持ちかけられるのかと思った。けれども瞳を潤ませた彼は、俺が想像していたのとはまったく違う言葉を発した。
「行きたくなったときが行きどきです。――水野さんはまだお若いですし、いくらでもやり直せます」
ぐっと身を乗り出し、彼は夜間定時制高校や高卒認定の話をしはじめる。
「勉強なら、僕にもお手伝いすることができるかもしれません」
彼はそういって、家庭教師を志願してくれた。なんだか嘘を吐いていることが申し訳なくなってしまうくらいに、ものすごく一生懸命だ。瞳をきらきらさせて、「大丈夫です。今からだって十分間に合いますよ」と力説する彼を前に、俺はなんだか無性に申し訳ない気持ちになった。
やきとり屋を出ると、彼は深夜営業の本屋に連れていってくれた。
「学生時代、家庭教師のアルバイトをしていたことがあるんです。すこし古い知識で申し訳ないのですが……この参考書とか、こっちの問題集とか、長く使われている定番ですし、初学者にもわかりやすくていいですよ」
プレゼントさせてください、と主張する彼を制し、とりあえずそれらのテキストを自腹で購入する。あまりの一生懸命さに、とてもではないが嘘だとはいえない雰囲気だ。
駅からの帰り道、途中の公園で、俺は彼のコートの袖を引っ張った。
「どうしました?」
不思議そうな顔で彼が振り返る。俺は彼に歩み寄り、すこし背伸びをするようにして、そっと口づけた。
彼が驚くのがわかる。あとずさるその身体を抱きとめ、ちいさな口づけを繰りかえす。つめたかった彼の唇が、すこしずつ熱を帯びてゆく。
「水野さん……」
戸惑うばかりだった彼の手のひらが、おずおずと俺を抱きしめる。瞳を閉じると、今度は彼のほうから口づけられた。
たまらなく下手くそで、不格好なキスだ。けれどもなぜか、このまま唇を離したくないと、強く思った。
翌日、俺は呼び出しを受け、めずらしく午前中の早い時間帯に事務所に向かった。生あくびを噛み殺す俺と渡部を出迎えたのは、今回の案件の依頼人だ。
向かいのソファに座るその男は、ターゲットである高間 晴彦の実の弟、高間 和彦(たかま かずひこ)だ。整った顔だち、その造形には兄との共通点も多いが、纏う雰囲気があまりにも違うため、そこまで似ているようには感じられない。イタリア製だろうか。上質であることはわかるが、すこし鼻につくスーツを纏っている。靴や時計も自己主張が強く、医師というより、やり手の青年実業家といった風体だ。
「以前もお話ししたとおり、工作にはすこし時間がかかるのです」
どうやら一刻も早く結果を出してほしいと急かしに来たようだ。俺はできるだけ彼を刺激しないよう言葉を選び、よい結果を得るには焦りは禁物であるということを伝えた。
「兄は今月末に見合いをする予定なんです。それまでになんとかあの青年と別れさせていただけませんか」
すこし苛立たしげな表情で彼はいう。眉間に皺が寄りやすいところは兄弟そろって一緒のようだが、とてもではないが彼の眉間は気軽に触れることのできる雰囲気ではない。
「お兄さまのことを心配するお気持ちはわかります」
大切な跡取り息子の兄が、よからぬ相手に唆されている。二人を別れさせ、兄を守って欲しい。――というのが今回の依頼の趣旨だ。
三十を超えた大の男を守って欲しいもなにもあったものではないが、あの男の性格を考えれば身内が不安になるのもわからなくもない。見るからにお人好しで騙されやすそうな兄。見ている弟のほうが不安でたまらないのだろう。
「もうすこしだけ待っていただけませんか」
当初の計画では、俺に惚れさせ、彼らの仲を自然と疎遠にするつもりだった。それには事前の調査期間に二週、工作期間に四週、最低でも六週間はかかると、契約時に説明してあったはずだ。
「これ以上は待てません。バレンタインのプレゼントに、あの男はどうやらマンションをねだっているらしいのです。そんなものを買われてしまっては、別れさせるのが難しくなります。お願いします。今週中に結果を出し、あの男の目論見を阻止してください」
「マンションをねだっている? 失礼ですが、その情報、どこから仕入れたんですか」
ここのところずっと第二の動向を追っている渡部が不思議そうに首を傾げる。
「兄がマンションを探しているようなのです。私たちは実家暮らしですし、職場も近く、家を出る理由がありません。そうなると……あの男に貢ぐ以外、考えられないでしょう」
「なぜ、バレンタインのプレゼントだと思うのです?」
「不気味なことに……兄はバレンタインにチョコレートを手作りしようとしているようなのです。兄の部屋でチョコレート作りの本を見つけました。大の男が手作りのチョコレートをプレゼントしようとしているんですよ。――嘆かわしい。兄は狂ってしまったんです。マンションを買われる前に、至急あの男と兄を別れさせてくださいっ」
「いや、不安になるお気持ちはわかりますが……今週中というのは……」
バレンタインデーまであと三日しかない。いくらなんでも三日で二人を別れさせるなんて不可能だ。
「別れさせ屋さんってのは『奥の手』を持っているんでしょう」
和彦はぐっと身を乗り出し、俺を見つめる。
「奥の手、といいますと?」
とぼける俺に、彼は口元だけの冷ややかな笑みを浮かべる。そんな顔をすると、ますます兄の晴彦とは似ても似つかない顔になる。
「兄と肉体関係を結び、その証拠写真をあの男に見せることによって、兄とあの男の仲を引き裂く。――そういうサービスもしてくださると伺いましたが」
「それはあくまで、最終手段です。そんなことをすれば、あなたのお兄さんも相手の方も深く傷つけることになる。私どもは出来れば穏便に事を運びたいのです」
「そんな悠長なことをいっている暇がどこにあるっていうんですか。考えてもみてください。マンションを購入してしまえば、どう考えたって見合い後も結婚後も、あのふたりはずるずると関係を続けることになる。私は姉になるひとが可哀そうでならないのです」
声を荒げ、男はいう。そして茶封筒を取り出し、机の上に置いた。
「オプション料金が必要なら、一括でお支払いします。お願いですから一刻も早く行動にうつしてください」
彼はそう言い残し、応接室を出てゆく。俺と渡部は机の上の茶封筒を眺め、ほぼ同時に深く大きなため息を吐いた。
「枕工作か……」
火のついていない煙草をくわえ、ぼんやりとペットショップの軒先を眺める。通りを挟んだ向かい側にあるこの場所からは、ガラスケースのなかの犬猫たちの姿までは見えない。同じビルの二階にはサラ金屋、三階には雀荘が入っている。猥雑な駅前の一角に愛くるしい小動物が鎮座する姿はすこし異様だ。こんな場所だからこそ、人々は彼らの姿に心惹かれるのかもしれない。
ビルの群れが夕闇に包まれ、ネオンが瞬くころになると、自然とケージの前で足を止める者が増える。どこかの小料理屋の女将だろうか、立ち姿の美しい初老の女。風俗店の客引きと思しき男に、会社帰りと思しきOLふうの女。派手に髪を盛ったキャバ嬢ふうの女に、塾帰りの小学生。ケージの前でひとときの癒しを得ているのだろう。
あの男は今夜もやってくるのだろうか。できれば会いたくないな、と思いかけたそのとき、見慣れた長身が視界に飛び込んできた。
一歩あとずさり、キャップを目深に被って張り込み用の黒いウィンドブレーカーの襟を立てると、俺は喫煙スペースの壁にもたれかかるようにして煙草に火をつけた。喫煙の習慣はないが、張り込みの小道具として常に持ち歩いている。時折口元に運び、半分燃え尽きるのを待ったあと、灰皿に押しつけて火を消す。素早く脱いだウィンドブレーカーとキャップをボディバッグに押し込み、タクシーだらけの駅前通りを渡る。
「ネコ、さわりたくなりませんか」
彼の指定席。アメリカンショートヘアのケージに近づき、俺はいった。いつもどおり驚いた顔で彼が振り向く。この男は『第二』の前でも、こんな無防備な顔を晒しているのだろうか。依頼人の言葉を鵜呑みにするわけではないけれど、この男の場合、騙されてマンションを買い与えるくらいのことは普通にしてしまいそうで怖い。
「さわれたらどんなにいいかって思いますけど……アレルギーですから」
しょんぼりした顔で彼は目を伏せる。なんだか胸が痛くなるような、本当にかなしそうな顔だ。
「だからって、さわったら死ぬわけじゃないですよね。さわってみたらいいのに」
不思議そうな顔で、彼は無言のまま目を瞬かせる。どうやら心底驚いているようだ。
「その発想は……なかったです。確かに、アレルギーといっても、涙やくしゃみ、鼻水がとまらなくなるだけで、命に関わるわけではないんですよね」
彼の瞳が嬉しそうに輝く。相変わらず子供みたいに愛くるしい笑顔だ。
「触りに行きませんか。僕、たくさんポケットティッシュ持ってるんです。ハンカチもあるし。どれだけ泣いてもオッケーですよ」
ポケットからティッシュやハンカチを取り出してみせると、彼は嬉しそうに頷いた。その姿に、何故だか無性に胸が苦しくなった。
いつものネコカフェ。オプション料金を支払い、ガラス張りの遊戯室に足を踏み入れた途端、彼はポロポロと大粒の涙を流し始めた。
「ああ、きっとネコちゃんの毛に対するアレルギーなんでしょうね」
そんな彼を見て、従業員の女性はいう。
「毎日掃除していますけど、やっぱりどうしてもこの中はネコちゃんの毛でいっぱいになってしまいますから」
彼女に貰ったマスクをかけているおかげで、鼻水やクシャミはなんとか軽減されているようだ。それにしても、眼鏡をかけているのに室内に入っただけで涙が出てくるなんて、いったいどれだけひどいアレルギーなんだろう。
「ネコちゃんに触るの、久し振りなんですよね」
「ええ、二十年以上振りで……くしゅんッ」
どうやらマスクをしていても、段々とくしゃみが増え始めるようだ。あまり長居はできないかもしれない。
「じゃあ、この子なんてどうでしょう。とっても人懐っこいんですよ」
彼女は微笑んで一匹のネコを抱きかかえる。ふわふわの白い毛に覆われた愛らしいネコだ。
「あ、いや、できればあの子を」
俺は窓際のハンモックで遊ぶアメリカンショートヘアを指さした。
「どうして僕があの子を気に入っていること、知っているんですか?」
涙目になった彼が不思議そうな顔をする。
「だって高間さん、いつもあの子のことを見ているでしょう?」
そう指摘すると、マスクからはみ出した彼の耳が、かぁっと赤くなる。
「わかりました。ちょっと待っててくださいね。あの子、可愛らしい見た目に反して、すこし気性が荒いんです」
店員さんはやさしく微笑むと、その子猫をハンモックから降ろしてくれた。
「そぉっとね。そぉっとやさしくだっこしてあげてください」
子猫を差し出され、彼が瞳を輝かせる。
おそるおそる手を差しだし、彼はその子に触れた。
「わ、やわらかあったかい!」
興奮のあまり日本語がおかしくなっているようだ。彼はそう叫ぶと、自分の腕のなかにすっぽりと収まったその子を愛しそうに見つめた。そして店員さんに教えられたとおり、おずおずと子猫の首の後ろをなでる。
「か、かわいいです。いま、みゃーって……」
「しー。大きな声を出すと、ネコちゃんが怖がってしまいます」
そう注意され、彼は無言のまま鼻水をすすり、ポロポロと涙を零しながら子猫を撫で続ける。そんな彼の姿を眺めながら、俺はなぜだか妙にほほえましい気持ちになった。
ネコカフェのあと、彼はやきとり屋に行きたいといった。食事に誘うのはいつも俺のほうで、彼から誘われるのは今夜がはじめてだ。
「焼き鳥もいいですけど、今夜は冷え込みますし、鍋にしませんか」
「鍋ですか、いいですね。どこかよいお店をご存じで?」
「店で食べるのもいいですけど、鍋っていえばやっぱりウチ鍋でしょう」
俺の言葉に、彼は不思議そうな顔で目を瞬かせた。そして数秒後、顔を真っ赤にして俯いてしまう。先刻まで大泣きしていたせいで目は腫れ上がり、鼻の下も赤く擦り剥けている。そんな彼の姿を、なぜだか無性に可愛らしく思った。
「あ、あの、あ、あっ、ありがたいんですけどっ……ぼっ、僕、親と同居していて……」
「僕、一人暮らしなんです。ウチに来ませんか」
彼の顔がさらに赤く染まる。わたわたと慌てふためくさまが、なんだか本当におかしい。
「あ、いや、もちろん焼き鳥のほうがお好きなら、それでもいいんですけど……」
「い、いえっ……な、鍋にしましょうっ」
部屋に誘われただけで、なにをそこまで慌てる必要があるのだろう。右手と右足を同時に前に出す謎の歩き方をする彼を連れて、俺はスーパーに鍋の材料を買いにいった。
肉や野菜、酒を購入して駅から徒歩十分ほどの場所にあるマンションに向かう。本当の自分の部屋ではない。事務所が工作用に確保しているウィークリーマンションのひとつだ。
生活感を出すため、渡部に頼んで俺の服や私物を適当に配置しておいてもらった。よく気が回り、そういった工作の得意な男だ。扉を開けると、それなりに男の一人暮らしらしい部屋に仕上がっていた。
「狭いところですけど、あがってください」
六畳一間のこの部屋は、決して雰囲気のよい部屋ではないけれど、学歴もなく、日々の暮らしを懸命に生きる勤労青年を演出するには適しているだろう。
「――おじゃまします」
緊張した面持ちで、彼は靴を脱ぐ。俺は彼のコートを脱がせ、ハンガーにかけてやった。
ネクタイを緩めてリラックスした姿の彼と鍋を囲む。いつも彼はつくねをおいしそうに食べているから、今夜の鍋は骨付きの地鶏でダシをとった鶏団子鍋にした。
〆のうどんを食べるころには、二人ともほろ酔い加減になっていた。どちらからともなく見つめ合い、キスを交わしあう。彼の唇は酒のせいか熱く火照っていた。
彼の眼鏡を外すと、はじめて見る素顔が露わになる。眼鏡をしているときにも十分整って感じられたけれど、繊細さと精悍さを併せ持つその顔だちは、ため息がでるほど美しかった。
「み、水野さんっ……僕、あなたのことが……っ」
頬を真っ赤に染めた彼が、震えながら俺の肩に触れる。じっと見つめられ、俺はちいさく微笑んだ。そしてその先の言葉を聞く前に、彼の唇を塞ぐ。
「はぁっ……ぁ……」
彼の呼吸が荒く乱れてゆく。ただキスを交わしているだけなのに、とても興奮しているのだと思う。必死でがっつくそのさまが、なんだかとても愛おしい。
どうせ寝るのなら、ベッドの上ではその相手のことを好きでいたい。――今だけは彼を、愛していようと思う。
やわらかな彼の髪に指を埋め、そっとその頭を抱き寄せる。
「水野さんっ……」
彼は偽の名を呼び、俺の身体をぎゅうぎゅうに抱きしめた。
抱きしめて、唇を重ねあわせて、その先に進むすべを知らないかのように、彼はひたすら唇だけのキスを繰りかえす。
「ベッドに……行きませんか」
耳元で囁くと、これ以上ないくらいに彼の顔が真っ赤に染まった。
もつれるようにベッドになだれ込み、互いの服を脱がせ合う。俺は敢えてへたくそなふりをして、ぎこちなく彼のシャツを脱がせた。
不器用な彼はいつまでたっても俺のズボンのベルトを外せず、俺はさりげなく彼を手伝ってやった。
三十を超えているというのに、彼の肌はとてもすべすべしている。体温の高いその胸に抱かれると、なんだかそれだけですこし意識が飛びそうになった。
相変わらず唇を重ねるだけしかできない彼を、舌を出してそっと口内に誘う。非喫煙者なのだろう。彼の舌はとても柔らかく、すこし甘い味がした。
抱き合って舌を絡め合わせるうちに、すっかり理性が蕩けてゆく。純粋な子猫を演じなくてはならないはずなのに、もっと深くと貪欲に彼の舌を求めてしまう。
「水野さんっ……あのっ……」
切羽詰った顔で、彼が俺を見つめる。まさかこの期に及んで、『やっぱりやめておきましょう』なんていうんじゃないだろうな。不安になった俺に、彼は今にも泣きそうな顔でいった。
「初めてお会いしたときから、あなたのことが好きでした。――僕と、お付き合いしていただけませんか」
真剣な声音で発された言葉。俺はにっこりと微笑み、「ありがとうございます」と答えた。
「僕も、高間さんのことが好きです」
耳元で囁くと、彼はまるで飼い主に飛びつく大型犬のように、がばりと覆いかぶさってきた。
口づけを交わしあいながら、さりげなく彼の下着を脱がす。手早く自分の下着も脱いで、真っ裸で抱き合った。彼の熱い昂ぶりが、俺の股間に触れる。その熱にあてられるように、ジリジリと身体が熱くなる。
愛撫の仕方がわからないのだろうか。彼はおそるおそる俺の肌に触れると、硬直したまま動かなくなった。
「手、握っていただけませんか」
俺は彼を見つめ、震えるその手に自分の指を絡ませる。ぎゅっと互いの手を握り合いながら、俺たちはキスを交わしあった。
ただキスを交わしあうだけで、彼の先端から蕩けそうに熱い蜜が溢れ出してくる。不思議なことに、いつものように意識的に勃たせようと努力しなくても、俺のモノもすっかり大きくなっていた。
俺にとってセックスは仕事でしかない。性欲がないわけではない。射精すれば気持ちいいし、触られれば感じる。けれども金勘定抜きで誰かを抱きたいとか、抱かれたいとか思ったことは今まで一度もない。
『愛してる』と、どんな美女や男前からいわれても、正直、あまりよくわからなかった。
仕事で接しているせいだろうか。どうしても相手のことを減点制で見てしまう。タバコくさいから減点1。話し方が高圧的だから減点1。愚痴ばかりいうから減点1。金に汚いから減点1。自分自身だって決して他人のことをとやかくいえるような人間ではないというのに、そんなふうに冷めた目でしか相手のことを見ることができないのだ。
誰のことも好きにならない。他人も、自分も。正直どうでもいいと思っていた。だからこそ、ホストや今の職業のような仕事に就けるのだ。誰にも惚れないからこそ、誰にでも同じように笑顔を向けることができる。
「水野さん……っ」
必死になってがっついてくる彼を観察してみる。冷めた視点で、まるで報告書を作るための資料集めをするかのように眺める。
タバコは吸わない。体臭もほぼ皆無。舌までやわらかくてクリーンで、肌も脂ぎっていない。他人の悪口をいわないし、そもそも周囲に悪意を抱くことがあるようには思えない。
――なあ、俺はお前の、いったいどこを減点すればいいんだ……?
ぎゅっと握り合った手のひら。汗ばんだその手のひらさえ、気持ち悪いとは思えない。
それどころか触れ合った肌の心地よさに、へたくそだけれど懸命なそのキスに、からだの奥のほうから得体の知れない熱が溢れ出してくる。
鼓動の高鳴りが、体温の上昇が止まらない。今までセックスの最中に汗ばんだことなんてなかった。なのになぜだ。腰も振っていない。それどころか挿入だってまだしていないのに、俺の身体はどうしてこんなに発熱しているんだ……?
握りあった手のひら。その汗が、彼の汗ではなく自分の汗だということに今更のように気づく。
「ごめん……きもち、わるくないか?」
不安になって手のひらを離そうとして、「気持ち悪くなんか、あるはずないよ」とぎゅっと握りしめられた。
おい、敬語はどうした。これは仕事なんだ。なにしてんだよ、俺。――そう指令を出すのに、なぜか身体はいうことを聞いてくれない。
深く口づけあい、彼の昂ぶりに自分のそれを擦りつける。その拍子に彼が吐息を漏らし、その吐息の熱さにさえ俺は欲情した。
「ゴメン、実は……したことがなくて。どうしていいのかわからないんだ」
情けなく眉を歪める彼の髪を、そっと撫でる。
「そんなの、いわれなくたってわかってる」
もういい、諦めよう。どうせ明日になればすべては終わる。このベッドの対面、テレビ台のなかにデジタルビデオカメラが仕込んである。今夜が最後。この部屋を出たあと、この男と会うことはもう二度とないのだ。
「俺が上になるよ」
ネコを被る必要はない。いっそ仕事なんか忘れて、楽しんでしまえばいいのだ。
「いや、できれば……僕が上がいい」
照れくさそうに頬を染めながら、彼はいう。はにかんだようなその笑顔さえも、愛しくてたまらない。
口づけながら手さぐりにローションのボトルを探し、もう片方の手で彼の髪に触れる。なめらかで、不安になるくらいに柔らかな髪。この髪にもう触れられないのだと思うと、すこし惜しい。潤滑剤で手を汚してしまう前に、もうしばらく触っていたい。
片手で髪を撫でながら、もう片方の手でボトルを開ける。名残惜しさを感じながら彼の髪から手を離すと、そこから先はあっという間だった。
彼のペニスに潤滑剤を塗り込め、自分のそこに導く。軽く解しながら、彼を受け容れてゆく。
すこしきついくらいがちょうどいい。ひと晩だけの付き合いだけど、『ユルい』なんて思われたくなかった。
「ふぁっ……ん……ぁっ……」
せつなげな声で、彼が啼く。清廉な顔立ちからは想像もつかないくらいに艶っぽい声だ。その声を味わうように、彼の舌を絡めとる。
熱くて十分な逞しさを持った彼のモノ。竿の部分は凶器じみて硬いのに、亀頭はすこしやわらかい。その弾力がなんだかとても心地いい。丸々としてエラの張ったそれが、俺の入り口をめくりあげるみたいに刺激する。その感触があまりにもよくて、俺は腰を浮かせるようにして何度も、何度もそれを味わった。
「んぅっ……そんなにしたら……」
うわずった声で、彼が啼く。
「そんなにしたら、なに?」
耳元で囁くと、彼の顔が燃えてしまいそうに真っ赤に染まった。
「イっちゃう」
消え入りそうに発された言葉。俺は彼に口づけながら、一気に最奥までそれを咥えこんだ。
「あぁっ……! 水野さ……っ」
彼は叫び、ぎゅっと俺の身体を抱きしめる。挿入の角度が変わって、一番感じる場所を強くこすりあげられた。その瞬間、感電しそうなくらいに強烈な快楽が脳天まで突き抜ける。
「――下の名前で呼んでよ」
囁くと、「――崇(たかし)さん」と偽の名を呼ばれた。水野 崇(みずの たかし)。それが、俺が仕事上使っている偽名だ。
「晴彦」
彼の名を呼び返すと、見ているこっちまで頬が緩んでしまいそうなくらいに幸せそうな笑顔を向けられる。
「キス、おろそかになってる」
彼の首に手を回し、唇を突き出すようにしてキスをねだる。ぐっと挿入が深くなって、ふたたびその場所に彼のモノが擦れた。
「イイ。そこ……もっとっ……」
身体を浮かせ、擦りつけるようにして自ら腰を遣う。
リードをとりたいと思っているのだろうか。ぎこちなく彼も腰を遣いはじめる。リズミカルとは程遠い、不器用な腰振り。その動きはあまりにも予測不能で、なんだか逆に快楽をやり過ごすのが難しい。
「たかしさ……っ」
何度も俺の偽名を呼び、彼は腰を遣う。やさしかったその動きが、次第に激しさを増してゆく。
「ぁっ……ぅ、はぁっ……っ」
不覚にも、キスの狭間に甘ったれた声が漏れた。長さも太さも、ちょうど良すぎるのがいけないんだと思う。熱く猛ったそれは、まるであつらえたようにぴったりと俺の身体に馴染む。痛みはなく、ただ快楽だけを与えてくれる。
「崇さんっ……」
ぐっと圧し掛かるようにして、彼が口づける。無理な体勢になって、その苦しささえ快感を増幅させている気がした。ぞわりと全身の毛が逆立ち、指一本触れられていないそこから、止め処なく透明な蜜が溢れ続ける。
「んっ……もっと、そばに」
欲しい。もっと深くまで。この男のすべてを呑み込んでしまいたい。貫いて何もかもメチャクチャにしてほしい。
潤滑剤で粘る手で、彼の背中をぐっと手繰り寄せる。汗ばんだ肌がぴったりと密着して、張り裂けそうなほど奥深くまで貫かれた。
「んぁっ……」
たかしさん、と泣きそうな声で名前を呼ばれ、あばらが折れるほど強く抱きしめられる。俺のなかで彼の熱が爆ぜ、その瞬間、俺も同時に絶頂を迎えた。
「ふぁっ……ぅ、んっ……」
唇が離れるのがもどかしい。彼の髪が汚れるのすら気遣うことができず、その髪に指を埋めて引き寄せる。もっと、深く。奥まで。互いの舌の境界線がなくなるまで絡ませあっていたい。
自分のなかで彼がビクビクと震えるのがわかる。腰を引こうとする彼を引き留め、繋がったままキスを交わしあう。ぽたり、ぽたりと降ってくるその汗にさえ、たまらなく欲情した。――これ以上、いったいどうしたら理性を保てるっていうんだ。
なにもかもが、もうどうでもよかった。繋がったまま彼を押し倒し、再び固さを取り戻した彼のそれを貪る。安いパイプベッドがギシギシと悲鳴をあげて、彼の呼吸も激しく乱れ始める。彼の身体に馬乗りになった俺は、それでも腰の動きを止めることができなかった。激しく腰を振りながらも、キスはやめたくない。無茶な姿勢で身体を倒しこんで口づけると、ぐっと背中を抱きしめるようにして動きを封じられた。
「僕が……上になります」
焼けただれそうなほどに熱いその声が、たまらなく扇情的に聞こえる。
「ああ……いいよ」
熱に浮かされたように俺は頷き、されるがままになった。
先刻までのぎこちなさから一転、要領を得た彼の突き上げは、強烈な快楽を生じた。ひと突きされるたびに脳天を揺さぶられ、足の指の先までビリビリと痺れる。
「ぁっ……ぁっ……もっとっ……!」
本当は彼の望むとおり、はじらいのある従順な男を演じてやりたかった。だけどそんなこと一ミリも考える余裕がなくなってしまうくらいに、全身が完全に劣情に支配されてしまう。
「はるひこっ……イクっ……イキそうっ……」
「いいよ。たかし、くん。先に……イッて」
やさしい声音で彼がいう。頬を包みこまれ、温かなその手のひらに涙が溢れそうになった。
「いや、だ。晴彦と一緒に……晴彦と一緒にイきたい」
唇を突き出し、キスをねだる。きっと主導権を握られているから、こんなにも早く達してしまいそうになるのだ。それならばもう一度自分が上になれば、もっとコントロールできる筈だ。そう思い、彼の背に縋りつくようにして繋がったまま身体を起こす。対面座位の体勢になって、口づけながらがむしゃらに腰を振ると、彼の呼吸が甘く乱れはじめた。
「ふぁっ……くぅっ……!」
唾液が熱く粘って、俺はそれを味わうように彼の口内をめちゃくちゃに掻き混ぜる。
「たかしくん……イキ……そ、あぁっ……」
彼の腰の動きが一気に荒々しくなった。吹っ飛ばされそうなくらいに激しく突き上げられ、俺は彼の背に指先を食いこませる。
「ぁ、ぁ、イク、いっちゃっ……あぁ―――ッ」
視界が完全に消失した。中空に放り投げられるような感覚に、意識が途絶えかける。
「はぁっ……ぁ、ぅ、んっ……」
達してしまったのだ、ということはわかる。だけどそれだけじゃなくて、これは明らかに……男が感じてはいけない、別の絶頂だ。
全身が激しく震え続ける。心臓が壊れてしまいそうなくらいに激しく脈打っている。手足がなくなって、身体の中心にぽっかりと穴が開いてしまったみたいな不思議な感覚だ。首から上も、もう、ない。どこかに吹き飛んで消えてしまった。彼に抱きしめられるその背中だけが、そこに存在しているみたいだ。
「崇くん……?」
彼の手のひらが俺の頬を拭う。自分が泣いているのだということに、俺はそのとき初めて気づいた。
「大丈夫? 痛かったのかな。ゴメン、すぐに抜くからね……」
腰を引かれそうになって、あわてて引き留める。
「いや、だ。もうすこし、このまま……」
繋がっていたい。くっついていたい。このまま、あと少しだけでいいから。
彼の瞳がじっと俺を見つめている。
「痛くして、ごめんね」
心底申し訳なさそうな顔で彼は囁く。
「いたく、ない。いたく、ないから……」
キスがしたい。続きを口にすることすらできなくて、俺は無言のまま唇を突き出した。
キスが降ってくる。やさしいキスだ。まるで壊れものを扱うかのようにやさしくて、俺のような外道には、もったいないキス。
――いや、これは俺、溝口 航(みぞぐち わたる)に与えられたキスじゃない。架空の人物、水野 崇へのキスだ。彼のほほえみも、やさしい愛撫も、すべて。すべてはこの世には存在しない水野 崇に向けられたものだ。
何度口づけあっても、足りなかった。口づけを交わしあううちに再び昂ぶり、俺たちはその夜、空が白むまで互いの熱を求め合い続けた。
翌朝目覚めると、温かな腕の中だった。スマートフォンのアラーム音だろうか、爽やかな電子音が鳴り響いている。
「ごめん、起こしてしまったね」
柔らかな声音が、身体に響く。
「ん、仕事……?」
「そう。もうすこしこうしていたいけど、いかなくちゃいけないんだ」
「わかった……俺も起きる」
身体を起こそうとして、ギリリと全身に鈍い痛みが走った。
「いや、いいよ。きみはゆっくりしていて」
やんわりとベッドに押し戻されそうになって、俺は目を擦りながら起き上がる。
「朝飯つくるよ。アンタ、きょうも昼過ぎまで外来なんだろう」
「どうしてそんなこと……」
「病院ってのは、患者が途切れるまで診察し続けなくちゃなんねぇんだろ。午前中の受付時間に来院した分は、何時になっても診なくちゃいけない」
「よく知っているね」
要領が悪いせいだと思う。この男がひとりひとりの患者にかける診療時間は、とても長いらしい。渡部の話によると、そのせいで予約患者がちっともさばけないと看護師たちがぼやいているという。それでもこの男の診察を希望する患者は後を絶たないようだ。
親身になって診てくれるやさしい先生。ほかにも整形の医師はいるのに、一度彼に診てもらった患者は、どんなに待たされることになっても彼の診察を希望するのだそうだ。
そのせいでこの男の午前の診療が終わるのは、いつも三時近いという。三時からは午後の診療があり、大抵、昼飯を抜く羽目になるようだ。
彼がシャワーを浴びている間に米を炊き、卵焼きと味噌汁の簡素な朝食をこしらえる。休み時間がなくても手早く腹を満たせるように、昼飯用の握り飯も作ってやった。
「ありがとう。すごく美味しい!」
すっかり身支度を整えた彼は、嬉しそうに顔を綻ばせる。
もうこの笑顔を見ることもないのだと思うと、すこし胸が苦しい。
騙されていたことに気づいたとき、この男はいったいどんな顔をするだろうか。晴彦と連絡を取るために使っているスマートフォンは、今日中に解約することになっている。苦情の言葉すら、俺の耳に届くことはないのだ。
「あの――十四日の夜って忙しいですか」
照れくさそうに頬を染め、彼は俺を見つめる。
「十四日? どうして」
「あ、いや。その……このあいだのお弁当や、昨晩の鍋、朝ごはんのお礼に……なにか甘いものでも、と思いまして……」
耳まで真っ赤に染め、震える声で彼はいう。
断らなくちゃいけない。いま断ってしまったほうが、きっと後で約束を反故にされるより傷は浅くて済むだろう。頭ではわかっているのに、俺にはそうすることができなかった。
――この男の悲しむ顔を、見るのが耐えられなかった。
「なに、俺にチョコでもくれんの?」
すっかり敬語をやめ、ぶっきらぼうな言葉を投げる俺に、彼はそれでも嬉しそうに笑顔を向けてくれる。尻尾を振ってじゃれついてくる大型犬みたいな愛らしさだ。
「はい。あ、あの……料理なんてしたことがないので、うまくできるかどうかわからないんですけど……金曜日の夜、駅前の料理教室で、バレンタインチョコを手作りするスペシャルレッスンというのをやるそうで……それに参加してこようと思うんです」
女性たちに混じって、レッスンを受けるつもりなのだろうか。
「ずっと、羨ましいなぁと思っていたんです。料理上手な男性のことを」
料理教室に通ってみたいと思っていたけれど、勇気が持てずに最初の一歩を踏み出すことができなかったのだそうだ。
「あなたのおかげで勇気が持てました」
深々と頭を下げられ、俺は面食らった。
「いや、それは勇気っていうか……」
完全にメーターが振り切れている。彼の弟が不気味がるのも無理はない。けれども、そのとんでもない振り切れ具合が自分に対する愛情によるものだと思うと、なんだか無性に息苦しい気持ちになる。
「チョコレート、お好きですか?」
「ん、ああ……まあ」
ぎこちなく返すと、ぎゅっと抱きしめられた。その温かな腕の温もりに、不覚にも涙腺が緩んでしまいそうになった。
キスを交わしあい、玄関で男を見送る。
「行ってきます!」
満面の笑顔で手を振る彼の姿が、脳裏に焼きついて離れなくなった。
「――信じられない。あんたが晴彦さんとつきあっているっていう証拠は?」
駅前のコーヒーショップ。向かいの席に座る青年は不快そうな顔で眉をしかめる。すらりと長い手足、黙っていればそれなりに愛らしい顔だちをしているが、初対面の相手に対しそんな口の利き方をするあたり、中身はあまり可愛げがあるとは言い難い。
「証拠ですか? お見せしてもよいのですが、傷つくことになるのはそちらですよ」
異性関係のもつれの場合、二人で映ったプリクラや腕を組んでいる写真などを見せることで、相手に自分たちの関係を誇示することができる。
けれども同性同士の場合、二人で一緒にうつっている写真やラブホにしけこむ姿を見せる程度では、その関係を確かなものとして認めさせるのは難しい。
「これをご覧になっても、信じられませんか」
スマートフォンの画面にキスを交わしあう場面をうつしだし、第二ターゲットである彼の目の前に突きつける。昨晩隠し撮りした動画のなかから切り出したものだ。
「は……キスくらい、ふざけてしたっておかしくない。飲み会の席の罰ゲームかもしれないし」
「そうですか。では、これは?」
自分のベッド写真など、本音をいえば誰にも見せたくない。出来るかぎり自分の顔が分かりづらく、晴彦の顔がしっかり映った場面を選び、俺は彼に見せてやった。
「そんなの……信じられない。ちょっと彼に似ているだけじゃないか。相手の方は顔が写っていないし」
「そうですか。では、これは」
さらに顔がはっきりわかる写真を見せてやる。全裸でまぐわう、あからさまに露骨な画像だ。
「ちがう。彼じゃない」
「よく見てください、ほら」
画像を拡大し、晴彦の顔を大写しにする。男の顔にそれを近づけると、彼は突然、俺からスマートフォンを奪いとった。そして座席から立ち上がり、店の外に走り出そうとする。
「おい、ちょっと待てっ!」
慌てて追いかけたけれど、レジ前の混雑に阻まれ、あと一息のところで彼を逃してしまう。
昨晩散々貫かれたせいで、身体が思うように動かない。痛む身体に鞭を打って店の外に飛び出すと、そこには渡部と揉みあう男の姿があった。頼りになる後輩は、非常時に備え店の前で待機してくれていたのだ。
「ナイスフォロー!」
彼らに駆け寄り、男を取り押さえる。すると男は突然、スマートフォンを道の向かい側に向かって放り投げた。
「しまった、渡部。こいつは俺が確保しておく。あっちを追ってくれっ」
道の向こう側には、目深に帽子を被り、眼鏡をかけた男が立っていた。スマートフォンをキャッチすると全速力で駆け出し、雑踏のなかに消えてゆく。
「待てッ!」
追いすがる渡部の背中も、あっという間に人ごみに紛れて見えなくなる。俺は地べたに這いつくばる『第二』の首根っこを掴み、「いまのはどういうことだ」と問い質した。
「申し訳ありません。見失いました」
十分後、しょんぼりと肩を落とした渡部が戻ってきた。どうやら男を取り逃してしまったようだ。
「いや、お前が悪いんじゃない。すべては俺のミスだ」
ターゲットの行為写真を流出させてしまうなんて、この仕事を始めて以来の大失態だ。
近くにある公園のトイレの個室に『第二』を連れ込み、搾り上げた結果、彼は高間晴彦を誘惑するために金で雇われた人間であるということがわかった。
「雇主は。どこの事務所の所属だ」
「事務所ってなんだよ。ヤクザじゃあるまいし。俺はフツーのフリーターだっつーの」
「じゃあ誰に頼まれたんだ」
「さっきの、眼鏡の男」
不貞腐れた顔で男はいう。彼曰く、二丁目のバーで声をかけられ、割のいいアルバイトだと思って引き受けたのだという。
「高間晴彦って医者とセックスして、証拠を写真に収めたら百万くれるっていわれたんだ」
「あの眼鏡の男の名前は?」
「知らねぇよ。名乗られたことねぇし。百万やるから仕事をしろ、それしかいわれてない」
「事務所のような場所に、連れて行かれなかったか」
「連れていかれてない。会うのはいつもマックとかドトールだったし」
「連絡先は。携帯の番号くらい教えられているんだろ」
「ケータイなんか知らねぇよ。LINEのIDならわかるけど」
「なぜ俺のスマホを盗んだ」
「――あの男に頼まれたから」
『高間晴彦の交際相手って奴に呼び出された』
あの男にそう報告すると、嫉妬しているふりをして証拠画像を引っ張り出せ、と命じられたのだという。もしその相手と晴彦がイチャついている写真を入手できたら、五十万やる、といわれたようだ。
「ていうかさぁ、アンタらなんなの。勝手にこんなところに連れ込んで。ケーサツ呼ぶぜ、ケーサツ」
男は不快気に顔をしかめ、わめきたてる。渡部と目配せを交わしあい、俺は拘束していた男の腕を離してやった。
ここは泳がせて様子をみたほうがいい。――それが、俺たちの出した結論だった。
「サツ呼ばれて困るのはどっちだ。え? 俺からスマホを奪って、どこの誰ともわからないやつに手渡した。俺が被害届を出せば、お前は立派な犯罪者だぞ」
「そ、それは……っ」
口籠る男を睨みつけたまま凄む。確かに俺は実年齢よりも若く見られがちではあるが、中身は三十路手前。二十歳そこそこのガキに大人しく舐められてやる謂れはない。
「こっちは盗難届を出すつもりでいる。あの男を捕まえるためにな。今日のところは見逃してやる。前科持ちになりたくなかったら、二度と高間晴彦のまわりをうろつくな」
「――別にあんなやつのまわり、ウロつかねぇよ。五十万貰ったら、もう用はねぇから」
馬鹿な奴だ。相手の身元も知らない、連絡先もLINEのみ。もしこの男のいっていることが本当なら、今回の件でこの男に報酬が支払われることはまずないだろう。
「なにが『二度と高間晴彦のまわりをうろつくな』、だ。あんな男のどこがいいんだ。シュミ悪ぃ」
捨て台詞を吐き、男は去っていった。
渡部に男の尾行を任せ、いったん事務所に戻る。早急に依頼人である高間和彦に連絡を取り、現状を説明しなくてはならない。彼の携帯に電話をかけたけれど繋がらなかった。院内では電源をオフにしているのかもしれない。病院にもかけてみたが、取り次いでもらうことは出来なかった。直接出向く以外、方法はないのだろうか。和彦の勤務先は、晴彦同様、父親の経営する総合病院だ。彼はそこで外科医をしている。
「とりあえず夜になるまで待つか」
盗難時に備え、スマホには遠隔操作でロックをかけられるようにしてある。事務所に帰ってきて真っ先にロック作業とクラウド上からファイルの全消去を行ったから、もしかしたら流出を免れたかもしれない。
「ちくしょう……それにしても、なんだってこんなことに……」
渡部の追尾能力は、社内でも一、二を争う。その渡部を撒いたとなると、明らかにあの眼鏡の男は素人ではない。
「眼鏡や帽子で顔を隠していたところを見ると……どこかの事務所の工作員か」
あるいは調査事務所の調査員だろうか。誰がなんのために、そんな画像を入手したがっているのだろう。
「――あ」
『兄とのベッド写真を撮影し、それを使って第二との仲を引き裂いてください』
切羽詰まった顔でそう主張した和彦の姿を思い出す。
「もしかして……ッ」
ある疑念が頭を過り、俺は上着を引っ掴んで事務所を飛び出した。
――和彦を探さなくてはならない。一刻も早く、彼から話を聞かなくては。
原付バイクで病院に乗りつけ、和彦の姿を探す。携帯は相変わらず繋がる気配はない。外科の診療窓口の前まで行ったけれど、今日は彼の診察の日ではないようだ。外来担当者を示すネームボードには彼の名前は表示されていない。
「外来のない日ってのは、医者はなにをしているんだ」
病棟の回診だろうか。それとも手術だろうか。スーツを着てきてくればよかった。偽名刺を使うにしても、ダウンジャケットにワークパンツという軽装では製薬会社の営業マンには見えないだろう。
「あの、すみません」
一か八か、なんらかの嘘をでっちあげるしかない。一刻を争う可能性があるのだ。近くにいる看護師に声をかけ、高間和彦医師の居所を聞く。するとあっさりと「本日はオペの日ですよ」と教えてもらうことが出来た。
「何時に終わるんですか」
「終了時間はわかりません。今日は朝から三件ほど入っていて、かなり押していますから」
「先生には亡くなった祖父が大変お世話になりまして……仕事で田舎からこちらに出てきましたもので、ぜひ一度ご挨拶をと思い立ち寄らせていただいたのですが……」
「まあ、そうでしたか。ご伝言でよろしければ、なにかお伝えしますよ」
とっさに作ったデタラメを信じてくれたのだろうか。やさしい声音でそういってくれた。
「いえ、できれば直接お会いして……あの、お礼をお渡ししたいと思っているのですが」
上着のポケットから、ちらりと封筒を見せる。中身は全然関係のない書類だが、心づけかなにかだと思ってくれたのかもしれない。
「そういうことでしたら、先生のオペが終わり次第、ご連絡するように致しましょうか?」
連絡先を尋ねられ、俺は事務所から借りてきたプリペイド携帯の番号を伝え、診療窓口を後にした。
どんなに待っても携帯電話は鳴らなかった。二十一時を廻ったころ、病院まで様子を見に行ったが、和彦はすでに帰宅したあとだといわれた。
彼の携帯に電話をかけたけれど、繋がらない。事務の女の子に看護師を装って自宅に電話をかけてもらったが、自宅にもいないようだった。
「どうなってるんだっ……」
例の眼鏡の男に『ベッド写真』を依頼したのは、和彦なのではないだろうか。――そんな疑惑が頭から離れない。
あの男は最初からそれが狙いで、ウチにやってきたのではないだろうか。業者に依頼したものの、なかなかよい成果が得られない。そんなとき、痺れを切らして同業他社に駆け込むクライアントは少なくないのだ。
もしそうだとしたら……完全にハメられた。まんまとあの男の思惑通りに動いてしまった。
兄である晴彦のベッド写真を手に入れ、あの男はいったいどうしようというのだろう。弱みを握って強請るつもりでいるのだろうか。――実の兄を……?
晴彦に電話してみたけれど、彼のスマホも電源が切られていて繋がらなかった。
翌朝、俺は外来受付開始時間十分前に彼の病院に向かった。
受付開始前だというのに、すでに窓口は沢山の患者で賑わっており、白衣を纏った医師や看護師たちが足早に院内を行き交っている。
外科診療窓口に向かう途中、俺は晴彦と鉢合わせしてしまった。
「崇さん……」
俺の姿に気づくと、白衣姿の彼が哀しそうに顔を歪める。どんな顔をしていいのかわからず戸惑う俺に、彼は震える声でいった。
「どうしてあんなこと、したんですか」
いまにも泣き出してしまいそうな声だ。すでに和彦から何らかの接触があったのだろうか。
「なんのこと……だ」
惚けたふりをしてぎこちなく笑みをつくると、彼は悲痛そうな瞳で俺を見つめた。
例のベッド写真を理事長や院長、事務局長、院内のさまざまな場所に送りつけられてしまったようだ。理事長から呼び出しを受けているため、今夜は約束の場所にいくことができません、と彼は静かな声音でいった。
「冷静に考えてみれば、あなたのように素敵なひとが僕のような面白味のない人間を好きになってくれるはずがない。あなたに話しかけられ、優しくしていただけて……僕はすっかり舞いあがってしまいました。――最後にひとつだけ、教えていただけませんか。いったいなんのために、あなたはあんなことをしたんですか」
彼の瞳から、ほろりと大粒の涙が溢れだす。子猫を抱いたときに流した涙とはまったく違う、悲痛な涙だ。
「ちがう、俺は……」
見ていられなかった。彼の涙を拭ってやらなくちゃいけない。そう思い、一歩彼に歩み寄りかけたそのとき、冷ややかな声が響いた。
「おやおや、お揃いで。仲の良いこと」
「貴様っ……!」
振り返り、男の胸ぐらを掴み上げる。そのまま床に引き摺り倒そうとして、制服姿の警備員に阻止された。
「にいさんも馬鹿なひとですね。こんなどこの馬の骨ともわからぬ男にうつつをぬかし、次期院長の座を失うなんて。恥ずかしくてこの病院にいることさえつらいでしょう。いいんですよ。いつやめていただいても構いません。――次期院長の私が許可します」
さぁっと血の気が引いてゆく。視界がぐらりと揺らいだ。
いまの言葉で、すべてが理解できた。この男が企んでいたのは別れさせ工作でもなんでもなく、兄のスキャンダルをでっち上げることだったのだ。そしてその醜聞をつかい、彼を後継ぎ候補の座から引きずり落とす。実の兄を蹴落とし、自分がこの病院を継ぐ気でいるのだろう。
「貴様っ……そんなことをして恥ずかしくないのか。兄弟なんだろ。そんな方法で兄貴を嵌めるなんてサイテーじゃねぇかっ」
警備員に取り押さえられながら、俺は和彦を怒鳴りつけた。羽交い絞めにされたまま奴の身体に突進しようとして、さらに別の警備員が駆けつけてくる。
「成功報酬はもう振り込ませていただきました。これ以上、貴方にお話しすることはありません」
彼はそう言い放つと、警備員たちに俺を病院の外につまみ出すよう命じた。屈強な男たちに二人がかりで押さえつけられ、どんなに暴れても逃れることができなかった。
「航さん、ほんとに辞めちゃうんですか」
情けなく顔を歪め、渡部が俺を見つめる。
「――ああ、あの男の思惑を見抜けなかったうえに、ターゲットのベッド写真を流出させちまった。これだけ大きな失態を犯したんだ。これ以上この仕事を続けるわけにはいかない」
辞めないでくださいよ、と騒ぎたてる渡部を尻目に、机のなかの荷物を整理してゆく。ICレコーダーにGPS発信機、特殊カメラに盗聴器。どれもカタギな生活には不要な代物ばかりだ。しいて使えそうなものといえば、ノートパソコンと充電式カイロくらいだろうか。
二月の下旬。すでに日差しは穏やかなものへと変わっている。窓辺から差し込む光は、うららかな春の予感さえ漂わせている。
「やっぱりこれもいらねぇな」
充電式カイロとノートパソコンも、渡部の机の上に置く。
「うわああ、いいんすか、これ」
「おう、大事に使えよ。冬場の張り込み時の救世主だ」
「いや、てか、こっちですよ。あああ、最新型じゃないですか」
どうやら嬉しいのはカイロではなくノートパソコンらしい。はしゃぎまわる渡部を放置して、俺はノートパソコンのリカバリ作業をはじめた。
「長いことお世話になりました」
深々と頭を下げる俺を、所員たちは思い思いの言葉で見送ってくれた。
「どうせすぐ戻ってくるんだろ」
ひげ面のオーナーだけは別れの言葉を口にせず、いつもと変わらない飄々とした顔で立っている。
――いつでも帰ってこいよ。
そういって貰えているみたいでありがたかった。
金も学歴もなにもない、女を騙すことだけしか取り柄のない自分に、世の中のなんたるかを教えてくれた恩人だ。
「ありがとうございます。――できれば帰ってこずにすむよう、頑張ります」
今回の任務失敗で、俺はひとりの男の人生をメチャクチャにしてしまった。誰よりも幸せになって欲しかったあの男の、未来を完全に打ち壊してしまったのだ。
「ここを辞めたあと、どうするんですか、航さん」
事務所の外に出ても、渡部は俺のあとをついてきた。ビルの出口まで見送ってくれるのだろう。なかなか可愛らしい後輩を持ったものだ、と俺はすこし頬を緩めた。
「そうだな。――しばらくは色々放浪して……やりたいことを見つけてみる」
「高卒認定、受けるんでしたっけ」
「ああ。『中卒だからクサレ仕事しかできねぇ』って逃げ口上、そろそろやめにしようと思ってさ」
「ベンキョ困ったら、俺に声かけてくださいよ。これでも一応、大学は出てんです。理系科目はあんま得意じゃないですけど、地歴公民や英語なんかだったらバッチリお教えできますよ」
「おお、サンキュ」
独学でやるならNHKで放送されている高校講座がいいですよ、と渡部は具体的なアドバイスまでしてくれた。
「この仕事、お前はしばらく続けんのか」
「ええ、まだまだ勉強すべきことは山のようにありますからね」
渡部はそういって屈託なく笑った。
彼の両親は長年にわたって泥沼の離婚劇を繰り広げ、彼が十七歳のとき、ようやく離婚裁判に終止符を打ったのだという。浮気をする人間の心理、離縁や復縁を望む人間の心理を知るためにこの仕事を選んだのだそうだ。
「航さん、最後に教えてもらっていいですか」
「なんだ」
「どうしたら航さんのように、百発百中でターゲットを落とせるようになれるんですか」
真面目な顔で尋ねられ、俺はざっと今までの自分の仕事を振り返ってみた。そして口元を歪め、こう答える。
「――簡単だ。絶対に相手に惚れないこと。それに尽きる」
軽く手を挙げ、渡部に背を向けて歩き始める。
「どうか、お元気で!」
彼の声に見送られ、俺はその町をあとにした。
仕事を辞めたあと、俺は宣言どおり放浪の旅に出た。スマホと充電器、クレジットカードだけをポケットに詰め込んだ身軽な旅だ。
青春十八きっぷを購入して、一日で移動できるだけ移動し、終点で宿を探す。ときには無人駅の駅舎で野宿したり、知らない人に泊めて貰ったりもした。
日本全国、上は青森から下は長崎まで、いろいろな町に行った。頭の中から離れないあの男のことを、ただ忘れてしまいたかった。
けれどもどんなに忘れようとしても、日本中、どの町にもネコはいる。ネコを見かけるたびに、俺はあの男の哀しそうな顔を思い出さずにはいられなかった。
十八きっぷの春季使用期限は、三月の頭から四月の十日まで。一か月間の旅から戻ったあと、俺は生まれてはじめて職安に仕事を探しに行った。
中卒で応募できる求人は、思っていた以上に少なかった。俺は庫内整理を専門にしている人材派遣会社に登録し、日雇いの仕事をするようになった。
日々指示された場所で仕事をし、帰宅後は録画した高校講座を見ながら勉強をする。あの男に選んでもらった参考書や問題集も、ようやくなにが書かれているのか理解できるようになってきた。
一度の試験ですべてに合格するのは難しそうだが、何年かかっても構わない。いつか全科目合格できるよう勉強を続けようと思う。
八月の上旬。はじめての高卒認定試験を受けた翌週、ひさしぶりに渡部から電話がかかってきた。
「おう、渡部か。珍しいな、どうした」
「あのひとから航さんに小包が届きました」
「あのひと?」
「高間晴彦さんですよ」
久し振りに晴彦の名を聞き、俺は心臓が止まってしまいそうになった。ちいさく深呼吸して、できるだけ平静を装う。
「――捨てておいてくれ」
声がすこし震えた。エアコンのない狭い六畳間。蒸し暑い夏日なのに、スマホを持つ指先が冷たくなってゆく。
「いえ。そういうわけにはいきません」
「どうして」
「ごめんなさい。俺、危険物とかだとマズいと思って、なかを開けてしまったんです」
「中身、なんだった」
「いいから、いますぐ取りに来てください。事務所に顔出すのが嫌なら、俺がそっちに行きます」
いらねぇよ、といったけれど、電話を切った三十分後、渡部のデカスクのマフラー音が俺のボロアパートの前に響き渡った。
「なんのつもりだよ、オイ」
呼び鈴を連打され、仕方なく扉を開ける。
「俺には、こういうものを捨てることはできません。――捨てるなら航さんが、ご自分で捨ててください」
渡部は俺にちいさな包みを押しつけると、そういって去っていった。
「なんだってんだよ……」
乱暴に扉を閉め、畳の上に胡坐を掻いてその包みを開ける。するとそこからは、手作りチョコレートの残骸と思しき、溶けてヘンテコなかたちをした茶色い物体が顔を覗かせた。
「晴彦……」
真夏にチョコレートを通常の宅配便で送れば、どう考えったって溶けるに決まっている。医学の博士号まで持っているくせに、そんなことにすら気づけない彼を、なんだか無性に愛しく思った。
「なんなんだよ、お前……」
なかには手紙が添えられていた。封を開けると、あの男の性格をそのまま表しているみたいな几帳面な文字がびっしりと並んでいる。
『拝啓 溝口航さま
あなたの後輩だという方から、高卒認定を受けられたということをお聞きしました。
手ごたえのほうはいかがだったでしょうか。一度に全ての科目に受からずとも、勉強を続ければ必ずいつかは合格することができます。
多忙な中、勉強を続けることは大変かと思いますが、どうか無事に合格されることをお祈りしております』
そんな口上のあと、『全科目一発で合格していた場合、不要になりますが』と書き添え、各科目、どんな勉強法が有益かということが便箋数枚に渡ってつらつらと書き連ねてある。
「なんだよ、これ。どうせなら受ける前に送ってくれよ」
悪態を吐いた直後、その先に続く文章に呼吸が止まってしまいそうになる。
『どんな形であれ、あなたと過ごせた日々を、とてもありがたく思っています。
どうか、この先のあなたの人生が幸多きものでありますように。
高間晴彦』
涙が溢れてきた。涙が溢れて止まらなくなった。
「ばかやろう。――なんなんだよ、お前はっ……」
憎めよ、俺を。お前を騙し、お前の人生をメチャクチャにした人間なんだぞ。なぜ、こんなことを書ける。なぜ、こんなものを贈って寄越せる。なんなんだよ、お前は。いったいどこまでお人好しなんだッ……。
手紙と小包を手に、部屋を飛び出す。するとアパートの前の路地に渡部のスクーターが停まっていた。
「あの人に会いに行くんですよね。――空港まで送ります」
メットを差し出し、渡部はいう。
「――頼む」
俺はそれを受け取り、彼の後ろに跨った。
羽田空港から飛行機で二時間、港から高速船に揺られること三十分で、宅配便の伝票に記された場所にたどり着くことができた。
漁業の盛んな島らしく、港には幾隻もの漁船がとまっている。夕闇に染まる町。通りを歩くひとの姿は少ないが、島の至るところをネコが我が物顔で闊歩している。野良猫なのだろうか。どのネコも丸々と太っている。
診療所の脇にもぼってりとした太り気味のネコがいた。そしてそのネコの隣に、しゃがみ込む白衣姿の男。
「オイ、野良猫ってのは、むやみに餌やりしたらダメなんじゃないのか」
そう声をかけると、男はビクンと身体を強張らせ、振り返った。
「たか……いや、航くん……?」
まるで幽霊でも目撃したかのような表情で、彼はふらりと立ち上がる。相変わらず腹立たしいくらいに背が高い。
「『くん』って年でもねぇけど」
素っ気ない口調を作ってそう答えると、彼はぼろぼろと涙を零した。
「そんなに泣かなくても」
「――猫アレルギーだからっ……」
鼻をすすりながら、彼はそんなことをいう。嘘を吐け。今の今まで泣いていなかったじゃないか。そういってやりたくて、だけどうまく言葉が出てこない。
「渡部さんから伺いました。あの写真を流出させたのは、あなたではなかったのですね。疑うようなことをしてすみませんでした」
申し訳なさそうな顔で、彼は頭を下げる。この期に及んで自分を騙していた人間に頭を下げるなんて……まったく、この男はいったいどこまでお人好しなのだろう。
「お前が謝ることじゃないだろ。直接的にはしてないけど、アンタを騙していたことに変わりはないんだ。――悪いのは、全部こっちのほうだ」
そう答えると、彼は潤んだ瞳でにっこりと微笑んだ。相変わらず胸が苦しくなるくらいに邪気のない愛くるしい笑顔だ。
「『ダマシ』でも、うれしかったです。あんなに楽しい時間を過ごしたのは、生まれてはじめてでしたから」
ありがとうございます、と深々と頭を下げられ、俺は堪え切れずに落涙してしまった。上を向き、唇を噛みしめて、けれどもどんなに頑張っても涙が止まってくれそうにない。
「あれ、航くんもネコアレルギーですか?」
晴彦はそんな俺を見て、すっとぼけたことを抜かす。本気でいっているのだからタチが悪い。
「ちがう。アンタの人生をメチャクチャにしちまった。そのことが哀しいんだ」
震える声で、俺は答えた。上を向いていないと、次から次へと涙が溢れてきてしまいそうだ。
「ムチャクチャになんて、されていませんよ。――むしろ感謝しています。あなたのおかげで、こうしてネコと触れ合えるようになった。今でも時折、涙が出てきちゃいますけどね」
彼はそういって、にへらと笑う。見ているこっちまで幸せになりそうな温かな笑顔だ。
「それにこの診療所での生活は、自分にあっています。整形以外はひよっこ同然ですから、院長先生や看護師さんに叱られてばかりですが、毎日、皆さんの役に立てていると実感することができる。あなたに出会えて本当によかったです」
最後まで聞く前に、俺はその馬鹿でかい身体に抱きついていた。あまりにも勢いよく飛びつきすぎて、体勢を崩して二人そろって地面に転がってしまう。
「晴彦……っ」
口づけようとして、「ダメです」と拒まれた。もう他に好きな人でもできてしまったのだろうか。不安になった俺の耳元で、彼は囁く。
「島のひとたちは温かくて優しいひとたちばかりなんですが、噂話が大好きなんです。キスシーンなんか見られたら、それこそ大変な騒ぎになってしまいます」
この診療所の上で暮らしているんですよ、と彼は建物の二階を指さした。
「ここ、お前ひとりでやってるのか?」
「まさか。日中は島の外から内科医の院長先生が外来をしにきます。僕は彼のもとで研修をしながら、夜や週末のお留守番をしている程度ですよ」
院長先生は七十を超えており、いずれは一人で任されることになるのだという。
「どうしてまた、こんな遠いところに?」
「『島流し』ですかね? 母方の伯父がこっちの医師会の人間なので」
僻地に飛ばせば『まっとう』に戻る。息子が同性と肉体関係を持ったことにショックを受けた彼の母親は、そんなふうに思ったようだ。
階段をあがり、診療所併設の宿舎に入る。靴を脱ぐ前から抱きしめあい、キスを交わしあった。
もつれるようにベッドになだれ込み、互いの服を脱がしあう。真っ裸で抱き合うと、それだけで意識が遠退きそうになった。
「お前の肌、やっぱりメチャクチャ気持ちいい」
囁くと、照れくさそうに彼は頬を染める。肌も髪も全部、ずっと触れていたい心地よさだ。眼鏡を外し、首筋に鼻を擦りつけると、なつかしい彼の匂いがした。
たった一晩抱き合っただけなのに、すこし甘いようなその匂いは、俺の鼻腔にこびりついてちっとも薄れてくれなかった。
愛撫もそこそこに彼を受け容れる。先端を挿れられただけで達してしまいそうなくらいに気持ちがよかった。
「晴彦」
名前を呼びたかった。この五か月間、ひとときも忘れることの出来なかった名前を。
声がかすれて、それでも名前を呼び続けた。彼は名前を呼ばれるたびに、くすぐったそうな幸せそうな顔をする。その笑顔が堪らなく愛しくて、俺は手を伸ばして彼の髪に指を埋め、その顔を引き寄せるようにして彼の唇に口づけた。
ほんのすこし腰を揺すっただけで、晴彦の呼吸が乱れはじめる。この男のソレは相変わらずすこし先端がやわらかくて、そのせいか痛みを生じない。快楽だけを与えてくれる。
「ずるい」
彼の首にしがみつくようにして、俺はいった。
「なにが、ですか?」
心配そうな声で彼が尋ねてくれる。
「ほかのやつのは、もっと痛かったし、苦しかった。お前のよりちいさくても……痛かった。なんで、お前のは痛くな……んっ……」
ぐっと深い場所まで貫かれ、思わず身体が仰け反る。それでもなぜか痛くなくて、全身に甘く痺れるみたいな感覚が走った。
「希望的観測でいうと」
彼はまじめな顔で、じっと俺を見つめる。
「カンソクでいうと?」
中途半端なところで言葉を切られ、焦れた俺は彼の言葉を反芻する。声がすこしうわずって恥ずかしかった。
「――航くんのココロが、僕を受け容れてくれているからじゃないですかね」
まるで学術的な見解を説くかのように真面目腐った声で彼はいう。いわれたこっちのほうが照れくさくなって、頬がかぁっと熱くなった。
「なっ……な、にいってんだよ、お前っ……」
「僕がその宅配便を出したのは、二日前のことです。おそらく昨日の夜か今日の朝、届いたばかりでしょう」
「ん、ああ。今朝、渡部から電話がかかってきたんだ」
「それに、あなたは見たところ、なんの荷物も持ってきていない。その小包を受け取った直後、着の身着のままでこんなに遠い場所まで駆けつけてきてくれるなんて……すこしは好いて貰えてるってことですよね?」
はにかんだように微笑むその笑顔に、無性に胸が苦しくなった。
ただ、謝りたいだけだと思いたかった。ひどいことをしたから謝らなくちゃいけない。その一心でここまで駆けつけたのだと思いたかった。
けれども彼の笑顔を目にし、その肌に触れ、口づけあってしまうと……そんなのはいいわけでしかないってことを、嫌になるくらい思い知らされる。
「――会いたかった」
声が震えて、うまく言葉にならない。けれども溢れ出す思いを、口にせずにはいられなかった。
「僕も、会いたかったです」
彼はにっこりと微笑み、くしゃくしゃと俺の髪を撫でてくれた。大きな手のひら。長い指で触れられるのはとても気持ちがいい。
あの日、震えて愛撫すらロクに出来なかった晴彦は、今夜はたくさん俺の髪を、頬を、身体を撫でた。
「オイ、なんでうまくなってんだよ」
よそでしたのかよ、と凄むと、「ネコちゃんでたくさん練習しましたから」と邪気のない笑顔がかえってくる。
「俺はネコと一緒かっ」
「ええ、とびきりかわいいネコちゃんです。こうして手を伸ばし、愛しいひとに触れる勇気をくれた。――あなたに出会わなかったら、僕は一生、自分が同性に惹かれるという事実を認めることができなかったでしょう。触れるどころか……誰かを好きになることだって、絶対にできなかったと思います」
ちゅ、と俺の額にキスをしながら、彼は喉仏のあたりをさわさわと撫でてくる。
「ちょっ……ま、俺はネコじゃないからっ」
そんなさわり方をするな、と怒ってもちっともやめてくれない。頬ずりをされ、背筋を撫でたり脇腹を撫でたりされるうちに、すっかり息があがり、全身がかぁっと火照りはじめてしまった。
「もう触るのはいいから、さっさと腰を振れよっ」
繋がったまま愛撫ばかりを繰り返され、じれったさに身を捩る。自分から腰を遣おうとして、ぐっと腰骨のあたりを押さえ込まれた。
「動かないで。もっと味わっていたいんです。あなたと、もう一度再会することができた。ずっと繋がっていたい。朝までこのままでいたい。終わらせたくなんかないんですよ」
悲痛そうな顔で、彼がいう。まるで達してしまったら終わりみたいなその顔に、俺はちいさくため息を吐いた。
「別に、お前がイッても終わらない。二度目をすればいいし、三度目だってしてもいい。それでも足りなけりゃ、明日もシてもいい。――お前が望むなら、いつまでだってお前のそばにいてやる」
自分で口にしておいて、照れくさかった。彼から顔を背けるようにそっぽを向くと、ボタボタと大粒の涙が降ってきた。彼は泣きながら俺を抱きしめ、何度も何度も、「逢いたかった」と叫び続ける。
「わかったから、はやくつづきしようぜ」
よしよし、とその髪を撫で、濡れた頬に舌を這わせる。彼はこくこくと頷くと、ゆっくりと腰を遣いはじめた。
相変わらずその腰遣いは決して上手ではないけれど、貫かれるたびにいいようのない温かな感情がじわりと湧き起こってくる。そばにいたい。もっと触れたい。もっと近くで、彼の全部を感じたい。
恋愛なんて、くだらないと思っていた。俺の父親は呆れかえるくらいの女好きで、何度も浮気を繰り返し、職場の部下を孕ませた挙句、母を捨てた。捨てられた母も男を作り、再婚相手となったその男を、息子の俺以上に大切に扱った。家を飛び出した後も、ホストクラブや別れさせ屋で、いやになるくらいにドロドロした情愛のもつれを見続けてきた。
絶対に恋愛なんてしない。男も女も、俺は誰も好きにならない。ずっとそう思い続けて生きてきたのに……。
ぎこちなく腰を遣いながら、彼は何度も俺に口づける。大きな身体をかがめこむようにして唇を重ね合わせ、唇が離れるたびに、「愛してます」と囁いて俺の名を呼び続ける。
「航くん」と、ほんとうの名を呼んでくれる。
名前を呼ばれることがこんなにも幸せなことだなんて、俺は今まですこしも考えたことがなかった。触れられることが、キスされることが、抱きしめられることが、こうしてひとつになることが、こんなにも心を満たしてくれるものだなんて、考えたこともなかった。
気づけば涙が溢れてきて、晴彦が心配そうな顔で俺を見つめる。
「そんな顔、すんな。――気持ちよすぎて、泣いてるだけだから」
てれくさくなって、俺はそっぽを向いた。
ほんとうは、ちがう。――しあわせすぎて、泣いているんだけれど。そこまではいいよな。いわなくても……ゆるせよ。
気持ちいいって答えも、晴彦には嬉しかったみたいだ。相変わらず邪気のない顔でわらって、なんだかセックスの最中とは思えないくらいにほのぼのした気持ちになってしまう。
だけどたぶん、だから気持ちいいのだ。この男のセックスは俺の身体だけじゃなく、心まで全部、やさしさで満たしてくれるから。痛いのも苦しいのもすこしも感じることなく、快楽だけを与え続けてくれる。
「そろそろ……イッてもいいぞ」
耳元で囁き、一気に腰をグラインドさせる。晴彦は「ぁっ!」と啼いて、慌てて腰を引いた。
「逃げんな。ほら……もっとそばに来いよ」
ぐっとその身体を抱き寄せると、挿入が一気に深くなる。貫かれるその衝撃が脳天まで突き抜け、思わず甘ったれた声が零れた。
「はぁっ……ぅ、はるひこっ……」
駄目だ。完全に理性が吹っ飛ぶ。長く楽しもうなんて考え、もう微塵もない。
劣情に突き動かされるまま、荒々しく腰を遣う。晴彦は俺の身体を抱きかかえるようにして、さらに深い場所まで埋め、激しく貫いてくれた。
「ぁ、ぁ、イク、イっちゃ……んーーーッ!」
腰から下、全部が吹っ飛ぶくらいに強烈な絶頂だった。
びゅるりと飛び散った精液が、晴彦の身体を汚す。彼はそれでも動くのをやめず、俺を貫き続ける。
達したばかりの身体を激しく揺さぶられ、俺は泣きじゃくりながら晴彦の身体に爪を立てた。爪を立てて掻き毟って、それでも彼の腰の動きは止まらない。
ベッドが壊れそうに軋んで、俺は堪え切れずに悲鳴のような叫び声をあげる。
「死ぬ、死んじゃっ……んぁっ!」
達したばかりのそこから、ドクン、ドクンと熱いものが溢れ出す。まだ完全に勃ちきってもいないのに、溢れ続ける。
「ぁ―――――」
意識が飛んだ。一瞬どころの騒ぎじゃない。五秒くらいたぶん、気を失ったはずだ。
最初に戻ってきたのは、視覚でも聴覚でもなく、熱の感覚だった。身体のなかが温かなもので満たされてゆく。――晴彦の熱を注ぎ込まれる感覚。
「わたる、くん……?」
次に戻ったのは聴覚で、それから頬に触れられる感触。最後にようやく視覚が戻ってきて、すぐ近くにあの男の顔があるのだということがわかった。
手を伸ばして、その頬に触れる。つるんと滑らかな触り心地のよい頬。何度も撫でて、つねって、叩いて、夢ではないのだと、ほんとうにこの男が目の前にいるのだと確かめる。
こみあげてくる愛しさを、言葉なんかで表現できるはずもなく、俺は唇を突き出してキスを求める。口づけあううちに俺のなかの晴彦はふたたび形を取り戻し、そのまま次のラウンドに突入した。
貫かれるそこから、精液や潤滑剤が溢れ出して、互いの身体もシーツもぐちゃぐちゃになった。それでも途中でやめることなんて出来なくて、俺たちは汗や体液や色々なものに塗れながら、ただひたすら互いの熱を求め合いつづけた。
晴彦は続けざまに四回、俺は六回達して、さすがに精も根も尽き果て、二人そろってベッドに転がった。
「夢じゃないんだね」
晴彦は何度もそういって、俺の頬をつついたり口づけたりした。
開け放った窓から、我が物顔をした尻尾の短い三毛猫が入ってくる。
どうやら個体によって、平気なネコとダメなネコがあるらしい。晴彦は涙ぐみ、くしゃみを連発しながらそのネコを抱き寄せ、もう片方の手で俺を抱きしめた。
真っ赤に目を腫らし、ずるずると鼻をすする晴彦を、なぜだか無性に愛しく思った。
重症だ。ここまでくると、どんな無様な姿さえ、男前に見えるに違いない。
低く唸る扇風機の音が、耳に心地いい。首ふり式のそれが運ぶそよ風が、そよそよと晴彦の髪を揺らしている。
『あいしてる』といったら、この男はいったいどんな顔をするだろうか。
愛を否定し続けた俺には、今はまだ、その言葉を口にするのは難しいと思う。
けれど近いうちに、うっかり口にしてしまうんじゃないかって予感はある。
そのとき向けられるお前の笑顔を想像するだけで、胸の奥がじんわりと温かなもので満たされ、涙腺が緩んでしまいそうだ。
「あれ、また航くんもネコアレルギー?」
真っ赤な目をした晴彦が、俺の顔をのぞき込む。
「ちがう。さかまつげを直そうとしてこすりすぎただけだ」
ダメだ。この男の前だと、俺はどんどん嘘が下手になっていく。嘘のプロフェッショナルだったはずなのに、今では幼稚園児レベルの下手くそさだ。
「両目とも? そっかぁ……まつ毛が長いと大変なんだねぇ」
真面目腐った顔で彼がいう。そんな低レベルな嘘でも信じてしまうあたり、相当な男だと思う。
彼の隣で丸くなったネコが、「みゃぁ」とやる気のない声で啼いた。首の裏を撫でられ目を細めるネコと同じように、俺も彼に頬を撫でられ、思わず目を細めてしまう。
「お前さ、明日も朝から仕事なんだろ。そろそろ寝ろよ」
「航くんが消えちゃうんじゃないかって思うと……もったいなくて眠れない」
真顔で小学生のようなことをいう彼の髪を、そっと撫でる。
「明日になっても、明後日になっても消えねぇし。――ずっと、そばにいるから。いいから今日は寝ろ」
俺の言葉に、晴彦は嬉しそうに笑って、
「じゃあ、逃げられないように抱っこして寝ます」
と、よくわからないことをいって、両手でギュッと俺を抱きしめた。
かまってもらえなくなったのが寂しいのか、ネコはフイと俺たちに背を向け、窓の外に出ていく。屋根伝いにどこかの家からやってきたのだろうか。なんにしてもこの家に入ることに慣れきっている雰囲気だ。
扇風機をタイマーにして、寝支度をととのえる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
就寝の挨拶を交わしあい、ベッドに横たわる。
そういえば夕飯を食べ損ねたうえに、折角もらったチョコレートもまだ食べていない。
都内から遠く離れた南方の島。風が抜けるおかげで寝苦しくはないが、室温はかなり高い。明日の朝になってもチョコレートはやわやわのままなのだろう。
不格好なそれを目の前で食べて、この男に感想をいってやろうと思う。
うまくても、まずくても『嬉しかった』といってやるつもりだ。
『ずっと、お前の作ったチョコを食べたかったんだ』と、頑張って素直にいえるようにしたいと思う。
そのとき向けられるお前の笑顔を想像するだけで、俺は幸せ過ぎておかしくなってしまいそうだ。
「わたる……くん……」
くぅくぅと寝息をたてながら、晴彦が俺の名前を呼ぶ。夢のなかでまで俺を求めてくれる愛しいその男に、俺はその安らかな眠りを邪魔してしまわないよう、そっと口づけた。
=完=