腐男子くんと、リア充くん。


 世の中には大きく分けて二種類のオタクがいる。

 おのれの趣味を隠し、容姿に気をつかってクラスや職場に溶け込むもの。

 オタクであることを隠さず、キモヲタとして蔑まれるもの。

 ぼくは明らかに……後者だ。

 クラスの最底辺グループの、そのなかでもいつも、ディスられながら暮らしてる。

 そしてぼくのクラスには、そのどちらにも当てはまらない、『ヲタ全開なのに学校中の人気者』という、とんでもない希少種がいる。

 高月 晴希(たかつき はるき)。

 中学時代から著名なボカロP兼うたい手さんとして名を馳せ、高校入学と同時にメジャーレーベルからデビュー。いまでは非ヲタアーティストと肩を並べてヒットチャートを賑わす、売れっ子アーティストだ。

「今から卒パのチケット配るよー」

 この冬、紅白への出場を果たし、お茶の間レベルでも知名度をあげた彼は、それなのにすこしも鼻にかけることなく、クラスのみんなと気さくに接する。

――ぼくらのような、学内ヒエラルキー最下層グループにまで、分け隔てなく笑顔を向けてくる。

「横浜だからちょっと遠いけど。よかったら遊びに来て」

 教室のすみっこに固まって負のオーラを炸裂するぼくらのところまでわざわざ寄ってきて、ひとりひとりにチケットを手渡そうとする。

「そんなのいらないし」

 ぼそり、とヲタ仲間の三井くんがつぶやいた。

「オレも、いらない」

 鈴木くんがそれに続く。

「片瀬(かたせ)は、来てくれるよね」

「ぇ、ぁ、ぁのっ……」

 高月くんにジッと見つめられ、かぁあっと頬が火照る。

 遠くから眺めるだけでも、もの凄くかっこいいのに。こんなふうに近くに来られると、どうしていいのかわからなくなる。

「どうせ無料だし、来れなくなったら捨てちゃってもいいからさ。都合ついたら、来て」

 やわらかそうな栗色の髪に、うっとり見惚れずにはいられない、甘く整ったリアル王子さまな顔立ち。にっこりほほ笑むその笑顔が、あまりにも眩しすぎて死にたくなる。

 自分との違いを見せつけられ、みじめな気持ちになってしまうのだ。

 ぽーっと見惚れているうちに、手にチケットを握らされていた。

「お前、なにそんなの受け取ってんの」

 三井くんに睨みつけられ、ぼくは苦笑いをこぼす。

「や、なんか……断りづらくて」

「ありえない。アレだろ、ああいうさ、うたい手とか、雄レイヤーとかってさ、『オレ、腐男子なんだよね〜』とかいって安心させて、女子中学生や人気レイヤー喰いまくってんだろ」

 やめればいいのに。三井くんはわざと聞こえるように、そんなことをいった。

 高月くんは、涼しい顔で別のグループのところにチケットを配りにゆく。

 彼はとても大人なのだ。多少いやみをいわれたくらいでは、反応したりしない。

 かっこいいなぁ、と思う。

 あんなふうに生きられたら、どんなにかいいと思う。

 けれども、実際には彼の百億分の一の勇気も持てなくて、ぶつぶつと雑言を吐く三井くんたちの隣で、ぼくはオロオロと困惑するばかりだ。

「最悪だよな。ヲタの風上にも置けない。あいつらのせいで、純粋な女の子たちが食い物にされてんだ」

「そういえば声優の鈴野かのんも、うたい手と付き合ってるとかなんとか、スレで叩かれたよな」

 ひがみ以外の、なんでもないんだと思う。ぼくらいわゆる主流派の、非モテ童貞萌えヲタは、いつだって女子に人気のリア充ヲタに怒りを向ける。

「こんなもの、破いて捨てちまえよ」

「ぁっ……」

 三井くんはぼくの手からチケットを奪うと、それをビリビリに破いてゴミ箱に捨ててしまった。

「そんなことよりさぁ、冬アニメ、なに観てる?」

「今期はあんまりいいのないよなー。声ヲタ的にはさ……」

 がんばって話を合わせてるけど、本当のことをいうと、ぼくは彼らが好きな美少女アニメには興味がない。

 そう。ぼくは彼らが蔑む、『腐男子』だ。

 しかも、自称でもノンケでもなく……リアルにゲイで重度の腐男子、さらに言えばコミュ障っていう、残念コンボが炸裂しているのだ。

 好きでもない萌えアニメを見て話を合わせるの、つらいけど。

 だけどこのグループから抜けたら、ぼくには行く場所がない。

 根暗眼鏡。小学生のころから、そうやって蔑まれてきた。

 ひとと会話するのが苦手で、相手の目を見ることさえできない。

 きっとぼくは……一生、こうしてビクビクしながら日陰で生きていくんだと思う。

 ごみ箱に捨てられてしまったチケット。

 残念な気持ちになりながら、ぼくはそれを黙って眺めていることしかできなかった。





 放課後、ぼくはこっそりと教室に戻り、ごみ箱からチケットの破片を拾い集めた。

 床のうえにジグソーパズルのように並べて、元通りにしようと苦戦する。

「あれ、まだすこし足りない」

 ごみ箱のなかを覗き込み、必死になって破片を探していると、誰かの足音が聞こえてきた。

(まずい、誰か来たっ……!)

 チケットの破片をかき集め、あわてて立ち上がる。そうしているうちに足音はどんどん近づいてきて、ぼくのクラスの前でぴたりと止まった。

(どうしよう、入ってきちゃうかな……)

 どこかに隠れなくちゃ。周囲を見渡すと、教室の片隅に置かれた掃除用具入れが目に飛び込んできた。ぼくはチケットの破片をポケットにしまって、そのなかに駆け込んだ。

 足音はふたりぶん。

 そのうちのひとりの、声が聞こえる。

 どうやら女子のようだ。

 彼女はかわいらしい声で、『高月くん、付き合ってる子、いないってほんと?』といった。

(わ、『高月くん』だって……!)

 どうしよう。これって……告白しようとしてるのかも。

 こんな場所に隠れているのがバレたら、大変なことになる。

 ぼくは口元を手のひらでふさぎ、じっと息を殺した。

「ホントだよ。オレ、二次専だもん」

「なに、ニジセンって」

「ん、二次元専門。つまり、アニメとか漫画のキャラしか愛せないってこと」

 あっけらかんとした口調で、高月くんはそんなことをいってのける。 

 もの凄い勇気だ。ぼくには絶対にできそうにない。

「うそ。冗談でしょ?」

「冗談じゃないよ。本気。ほら、オレの定期入れ、見る?」

 しばらく沈黙が続いたあと、女の子の素っ頓狂な声が響いた。

「なに、これ!」

「知らない? 超人気の漫画なんだけど」

「知らないよ〜」

「この眼鏡キャラがめっちゃよくてさ〜。デレ具合がたまんないんだって」

 どうやら定期入れのなかに、二次元キャラのブロマイドかなにかを入れているようだ。彼は熱心にそのキャラへの萌えを語っている。

「なんかダブルでショックなんだけどー。高月くんってマジでホモなの?」

「二次元専門のね。あー、でもリアル三次元にこのキャラがいたら、嫁にしたい!」

 クラスの女子の前で、全力で二次元♂キャラへの萌えを叫ぶ男子高校生。

 凄すぎる……と思う。ぼくや普通のヲタがやったら、次の日から学校に通えなくなるレベルだ。

「ヘンなのー。でも、じゃあ今後もカノジョは作らないってこと? 私、高月くんのこと、超狙ってたんだけど」

「んー、作んないねぇ。オレにとって女子って、萌えを語れる大事な仲間なんだよね。同志っていうかさ。絶対に失いたくない親友ばっかりだし、彼女たちと付き合うとか、そんなのありえないんだ」

 きっと彼には、話のあう腐女子の友達とかも、たくさんいるんだと思う。

 ひとりで孤独に腐っているぼくには、そのこともうらやましくてたまらない。

「わけわかんない」

「そかな。好きなものなんて、人それぞれじゃん? 異性が好きなひとも、同性が好きな人も、二次元が好きな人も、人間よりお金や食べ物が好きな人も、本人がそれで楽しかったら、一番だと思うけどね」

「でも、そんなのじゃ少子高齢化がますます進行して、大変なことになるよ!」

「だからって、生殖機能がない生き物は生きてたら意味がないってことじゃないよね。野性のライオンなんかは、むしろ子孫を残せるほうが稀だっていうし。人間もそれでいいんじゃん? 能力高い、異性にガンガンアプローチかけるオスだけが子孫を残せばいいよ。オレらは余分に税金払って、それを資金面からサポートする」

「うーん、なんかよくわかんないけど、高月くんが異次元のひとだってことだけはわかった」

「嫌いになった?」

「なれるといいけど、難しいよねー。だって私、一年のころからずっと高月くんのこと、好きだったんだもん」

 彼女はそういうと、すこし甘えた声で「あきらめるから、記念にキスして」といった。

(え、キス……っ?!)

 あまりにも驚きすぎて、足がずるっと滑ってしまった。その拍子にモップが倒れ、額を直撃する。

「いいよ」

(うそだ。高月くんがキス……女子と……?!)

 バクバクと心臓が暴れて、手のひらに汗がにじむ。

 扉一枚隔てた向こう側で、彼が女の子にキスをしている。

 想像しただけで、おかしくなってしまいそうだ。

 耳をそばだてたけれど、よくBLCDに収録されているような、えっちな水音とか吐息みたいなのは聞こえてこなかった。

 かわりに不機嫌そうな、女子の声が聞こえてくる。

「額じゃなくて、こっち!」

 どうやら高月くんは、彼女のおでこにキスをしたようだ。

 その事実に、ほっと胸をなでおろす。

「だーめ。オレのファーストキスは、愛する二次キャラにささげるの」

「わけわかんないし!」

 楽しそうに笑いあう、二人の声が聞こえてくる。

「じゃ、私、部活行くね。卒パ、がんばってね」

「ん、来てくれるの待ってるね。いっぱい頑張るから。楽しみに来てよ」

 扉の開く音が聞こえる。

よかった。教室を出て行ってくれた。

 安堵の溜息を洩らし、ぐったりと脱力した瞬間、突然用具入れの扉が開いた。

「うわっ……」

 慌てふためき、ちりとりにつまづいて転んでしまう。

「なにしてんの」

 ぼくの頭上に落ちてきたモップを直撃寸前で受け止め、高月くんは涼やかな声でいった。

「ぇ、ぁ、ぁのっ……な、なんにも、してないっ……」

 どうしよう。盗み聞きしていたの、バレちゃった。

 絶望的な気持ちになったぼくに、彼は手のひらを差し出す。

「これ、そこに落ちてたよ。わざわざ拾い集めに来てくれたんだね」

 彼の手のひらには、チケットの破片が二枚のっかっている。

 桜色のちいさなそれは、彼のすらりとした手のひらのうえにあると、儚い桜の花びらみたいに、きれいに見えた。

「ほかの破片もあるの?」

 ぼくのポケットにくっついた破片に目をやり、彼はいう。

「ぇ、ぁ、ぅ、う、ん……」

 真っ赤になってうつむいたぼくに、彼はやんわりと笑いかける。

「テープでくっつけよっか。貸してみて」

 彼は自分の机のうえにチケットの破片を並べると、テープで留めて元通りにしてくれた。

 つぎはぎだらけのそれに、窓から差し込むひかりがあたって、テープの部分がキラキラと反射している。

 とても、きれいだと思った。

 彼の手のなかにあるチケットも、彼の横顔も、とてもきれいだ。

 高月くんはそれをぼくに差し出し、にっこりとほほ笑む。

「片瀬が来てくれるの、待ってるから。ひとりで入りづらいようだったら電話して。オレ、駅まで迎えに行くよ」

 生徒手帳のメモ欄を破き、彼はスマホの番号を書き記してくれた。

(わ、高月くんの電話番号……)

 手渡された瞬間、かすかに指先が触れた。

 ドクン、と心臓が跳ね上がって、ぼくの指が、高月くんを汚してしまうんじゃないかって不安になった。

「じゃあね、片瀬」 

 そう言い残し、彼は教室を去ってゆく。

 背が高くて、いやになるくらい足が長くて、ぼくと同じブレザーを着ているとは思えないくらい、かっこいいうしろ姿。

 ぼくはチケットとそのメモを握りしめ、その場にへたりこんで、いつまでもその残像にひたりつづけた。

 

 どうしよう。

 すっごく行きたい。

 そもそもぼくは、彼の音楽の大ファンだったのだ。

 中学のころ、彼がまだメジャーデビュー前に、ボカロをつかって作曲していたころからのファンだ。

 まさか、ちかくに住んでいるなんて、思ってもみなかった。

 そのことに気づいたのは、彼がメジャーデビューしたときだ。

 学校中の噂になって、ぼくはようやく、彼が同じ学校に通う同級生だということを知ったのだ。

「うぅー……でも、クラブ、とか、絶対無理。無理無理っ」

 彼の主催する卒業パーティは、みなとみらいのクラブを貸し切って行われる。

 きっとみんな、リア充オーラを炸裂させた服を着て、遊びに来るんだと思う。

 ぼくにはそんな場所……どう考えたって無理だ。

 自室のベッドにごろんと横になり、洗面台から拝借してきた母の手鏡を覗きこむ。

「眼鏡を外したら実は『超美形』なんて……そんな、漫画みたいなことがあるはずもなく……」

 眼鏡を外すとぼんやりして見えないけれど、たぶん、それはないと思う。

 せめて普通だったらいいけれど、それも危うい。

 きっと残念な部類に入るんだろうなぁ、と思う。

 髪の毛も、いつも近所の床屋で切ってもらっている。小学生のころと同じ、真っ黒で、すごく野暮ったい頭だ。

 高月くんの、サラサラの栗色の髪を思い出す。

生まれつきなのか、染めているのかわからない。つやつやしていて、とてもきれいだ。

「ぁ――」

 ダメだ。こんな妄想しちゃいけない。 

 そう思うのに、止まらない。

 彼をつかって、ダメな腐妄想をしてしまう。

 相手は日替わり。若くて男前な先生だったり、人気のうたい手さんだったり、声優さんや、音楽プロデューサー。彼が抱かれる姿を想像して、股間に手を伸ばしてしまう。

「ぁっ……」

 いつの間にか、高月くんの姿が、自分に代わってしまう。おまけに相手は彼で……。

 いけないことをしている。

 そう思いながらも、ぼくは妄想を止めることができなかった。





 うまれてはじめて降りた、みなとみらいの駅。

 驚くほど高い吹き抜けを、エスカレーターは進んでゆく。

 開放的で近未来的なつくりをした建物だ。

 SFアニメのなかに紛れ込んだみたいで、なんだかすこし興奮する。

「どうしよう、来ちゃった……」

 結局、来てしまった。

 服を新調して、髪も美容院で切ってもらった。うまれて初めて、ワックスもつけた。

 スマホのナビでクラブの場所をさがし、その建物の前に立つと、ぼくは眼鏡を外してカバンのなかに入れた。

 まるで、魔法でめかしこみ、カボチャの馬車に乗ったシンデレラの気分だ。

 だけど残念ながら、髪と服を替えただけ。女の子のように化粧できるわけでもないし、眼鏡を外したくらいじゃ、劇的な変化はない。

 でも、ホームページで見た限りでは、クラブとか、なかは暗いみたいだし、『キモヲタの片瀬』だってことは、バレずに済むかもしれない。

「よし、行こう!」

 チキンな心にムチを打って、がんばって階段を下る。

 なかは思ったより明るくて、エントランスでチケットを出すと、手の甲にハンコのようなものを押された。

 分厚い扉の向こうに、フロアがあるようだ。

 おそるおそる扉を開けると、なかは薄暗くて、大音量で音楽が流れていた。

 身体に響くその低音が、なんだか心地いい。

 青みがかった紫色のひかりが、なんだか水底にいるみたいに感じられる。

 ビリビリと皮膚が震えて、四つ打ちのリズムが心臓にズシンとくる。

 おずおずと周囲を見渡すと、見覚えのある顔がいくつもあった。

 チケットの半券を持っていくと、ドリンクがもらえるらしい。

 すこしのどが渇いていたけれど、クラスの子に遭遇するのが怖くて、人の多いカウンター付近に近づくことができない。

(できるだけ、誰の目にも止まらないところに行こう……)

 ぼくはそう思い、できる限り光のあたらない、端っこのほうに逃げ込んだ。

 すると、暗がりに紛れて、抱き合ってキスをするカップルに遭遇してしまった。

「わわっ……」

 慌ててその場を離れ、反対側の角に逃げ込む。

 あわあわしているうちに、音楽がすぅっとちいさくなった。

 そして、その音にかぶさるように聞き覚えのあるメロディが流れはじめる。

「高月くんの曲だ!」

 ぼくも大好きな曲だ。去年の夏、劇場アニメの主題歌になった。

 このクラブでは、ライブが行われることも多いようだ。前方にしつらえられたステージが、まばゆい光に包まれる。

 そしてその光のなかに、高月くんの姿が浮かび上がった。

 女の子たちの歓声が、一気に炸裂する。

 ステージに駆け寄るひとの波、空間を丸ごと揺さぶるような音の渦。

 レーザービームの飛び交うなか、おもちゃばこをひっくり返したみたいにキラキラと明るい高月くんのサウンドが場内に響き渡る。

 きらびやかな電子音に、軽快なグルーヴ。しゃべるときよりもすこしだけ高い、澄んだ高月くんの歌声。

 明るくて、華やかな楽曲なのに、その声とメロディはすこし切なさを刺激して、キュンと胸が苦しくなる。

 そんな高月くんのうたに、誰もが夢中になって身体をゆすっている。 

「すごい……!」

 大好きな彼のサウンドが、空間いっぱいに満ち溢れている。

 そこにいる誰もがその音に酔いしれているみたいな一体感に、思わず胸が熱くなる。

 気づけば、身体が動いていた。

 踊ったことなんてないし、ましてやクラブなんて来るの、初めてだけれど、彼の音に包まれると、自然と気持ちがしあわせになって、身体が動き出すのだ。

(高月くん、すごいな……!)

 ぼくみたいな根暗なヲタでさえ、楽しい気持ちになるのだ。

 場内のみんなはもっと楽しそうで、思い思いに踊ったりうたったりして、はしゃいでいる。

 いっそのことワンマンでやればいいのに。

 高月くんはきょうのこのライブを、自分だけではなく、学内の軽音楽部やバンドをやっている子たちに声をかけて、たくさんのバンドやユニットが参加するフェス形式にした。

 みんなにも大きな舞台に、立たせてあげようとしたんだと思う。

 彼の新作のプロモーション映像の撮影を兼ねているから、会場の貸切り料金は、彼の事務所が負担するのだという。入場料は無料。観客も映像のなかにうつるから、エキストラ出演に対するギャラとして、ドリンクまで無料で振る舞ってくれる太っ腹な企画だ。

 高月くんの演奏を見終わったひとたちが、ほかの子の演奏を聴かずに帰ってしまうのを防ぐためだと思う。彼のステージは、オープニングとラストに分割して行われるようだ。

「なんか……ほんとにすごいや」

 あんなにも手の届かないところにいる、人気アーティストなのに。

 彼はいつだって学校のみんなのことを大切にしている。

 いつだって人目につかないように、ひっそり、すみっこで暮らしているぼくとは、彼はまるで違う生き物なのだ。

 心を揺さぶるうたをうたって、日常生活では誰よりもやさしくて。

 あまりにもまぶしすぎて、どうしていいのかわからなくなる。

 彼の曲は、どの曲も心のなかがあったかなもので満たされて、誰もが笑顔になる曲ばかりだ。

 こんなうたをつくれる彼を、心底凄いと思う。

「ぼくにも、あんな勇気があれば……」

『男のくせにピアノ習ってるなんて、キモい』

中学生のころ、クラスの子にそんなふうにいわれて、ぼくは大好きだったピアノをやめてしまった。

(ぼくにも、高月くんの百億分の一でも勇気があれば……)

 そんなふうに思うけれど、実際にそれを行動にうつすことはできそうにない。

 実際問題として、こんなふうに頑張っておしゃれして眼鏡を外してみたって、ぼくに注目してる女の子なんて、誰ひとりとしていない。

 誰もがステージ上の彼に夢中で、ぼくなんて空気みたいな存在だ。

 彼のステージが終わって、軽音楽部の女の子たちの演奏がはじまった。

 卒業したらバラバラになっちゃうんだって。最後のライブだって、いっている。

 バンドやダンスユニット、いろんなひとたちがステージにあがって、場内はとても盛り上がっている。熱気がすごいからかもしれない。

 頭がぼーっとして、ふらぁっと倒れそうになった。

 立ちくらみがして、しゃがみ込むそうになった僕を、誰かが支えてくれた。

「大丈夫?」

「ぇ……」

 振りかえると、そこには背の高いひとが立っていた。

 パーカーのフードをかぶって、大きなサングラスをかけているけれど、声でわかる。

――高月くんだ。

「た、たかつ……」

 高月くん、といおうとして、口をふさがれた。

「しー。ちょっとクールダウン行こうと思って。いっしょに行く?」

 返事をする前から、腕をつかんで引き寄せられた。

 ぼくの背中が高月くんの胸に当たって、Tシャツの布地越しに、彼の逞しい身体の熱がつたわってきた。

(ぁ……)

 ドクン、と心臓が暴れて、その場にしゃがみこんでしまいそうになる。

 脱力するぼくの腕をつかんだまま、高月くんは歩きはじめる。

 どこに行くんだろう。

 不安になったぼくを、彼はバックヤードへとつれていく。

 狭くて薄暗い通路を抜け、急な階段をのぼる。かざりっけのない黒塗りの階段を抜けた先には、見晴らしのよい屋上があった。

「すごい!」

「でしょ。ここの屋上、最高なんだ」

 すこし自慢げな顔で、高月くんは胸をそらす。

 周囲に高い建物がないからだろう。そこからはみなとみらいの夜景を一望することができた。

「観覧車!」

「ん。観覧車も、ランドマークタワーも見える」

 最高だよねって彼は微笑む。

 サングラスを外してあらわになったその顔は、パフォーマンスの後だからか、すこし紅潮している。白い肌がほんのり色づいたその顔がたまらなく魅力的で、ぼくは心臓が壊れてしまいそうになった。

「このハコ、大好きだったんだけどなぁ……なくなっちゃうんだよ」

「えっ……」

「オリンピック前の再開発。もうはじまってるんだけどさ、ここもその対象なんだ」

 オリンピックに合わせた外国人観光客誘致政策の一環で、このあたりは再開発がすすめられるのだという。

「目標だったんだ。子供のころ、はじめてライブ観たの、ここだったから。最初に演れたときはすっごくうれしかったし、なくなる前に、みんなにもここのステージ、体感してほしいなぁって思った」

 夜景を眺める彼のまなざしが、すこしさみしそうな色に染まる。

「えと――すっごく、よかった。ものすごく、よかったよ!」

 もっと、まともな言葉で感想をいいたいのに。

 そんな稚拙な言葉しか、出てこなかった。それなのに彼はやさしいまなざしを向けてくれる。

「オレの曲のなかで、どの曲が好き?」

 訊ねられ、ぼくは思わず中学生のころにはじめて聴いた、彼の曲を答えてしまった。

 今日やらなかった曲だし、怒られるだろうか。

 不安になったけれど、彼の笑顔が、さらに満面の笑顔にかわった。

「うそ。なんでそんなレアな曲、知ってんの。アルバムに入ってないよね。っていうか、音源としてリリースしてないよ、それ」

「ぇ、ぁ、ゃ、あのっ……」

 ずっとファンだったんだ、なんて、いえるはずがなかった。

 真っ赤になって口をぱくぱくさせるぼくを、彼は突然、むぎゅっと抱きしめた。

「すっごくうれしい!」

 シャンプーのかおりと、かすかな汗のにおい。

 高月くんのにおいに包まれて、胸が張り裂けそうになる。

 これ以上くっつかれていたら、壊れてしまうと思う。

 ドキドキ、ドキドキ、いまにも胸を突き破りそうなほど、心臓が暴れている。

 はやく、離してほしいのに。

 高月くんは、すこしもぼくを離そうとしてくれない。

「あのさ」

 ようやく解放された。そう思った瞬間、頬に彼の指がふれた。

 つめたい手のひら。ぞくっと背筋が震える。

「キス、してもいい?」

 空耳かと思った。そうじゃなければ、聞き間違いだ。

 だってそんな言葉、高月くんが、ぼくにいうはずがない。

「いやなら、いって。やめるから」

 どうしよう。

 彼の顔が、近づいてくる。

 拒まなくちゃ。そう思うのに……腰が抜けたみたいになって、身動きができなくなる。

「ぁ――」

 視界が陰った。

 その瞬間、唇にやわらかななにかが触れる。

 おどろくほどやわらかくて、つやつやしたもの。

(うそ……)

 キス、しちゃった……? 

 うまれてはじめてのキス。

 大好きな、高月くんのキス。

 その唇は、彼が直前まで飲んでいたコーラの甘みが、かすかにのこっていた。

 つめたくて、ふわふわで、なんか――おかしくなる。

「どうしよう。止まんない」

 いつもよりすこし低い声で囁くと、高月くんは、さらにぼくに唇を重ね合わせた。

「んっ……」

 キスしたまま、ぎゅっと抱きすくめられる。

 気づけばそのまま、物陰に連れ込まれていた。

 屋上の脇に置かれた物置。その壁に押し付けられるようにして、キスをされる。

 唇を重ね合わせるだけのキスが、段々と深さを増してゆく。

 つめたかった高月くんの唇が、とろけそうに熱く火照っている。

 熱い舌でなぞられ、自然と唇が開いた。

 薄く開いたそこに、高月くんはそっと舌を這わせる。

「ぁっ……!」

 暖かく濡れた舌が、ぼくの内唇をなぞってゆく。

 とろけそうな熱に包まれ、ぶわりとなにかがはじけた。

 その場にくずおれそうになったぼくを、高月くんはしっかりと抱き留める。 

 抱き支えられてもなお、膝の震えが止まらない。

 彼に抱かれたまま、ずるずるとその場に座り込んでしまう。

 高月くんは腰に巻いていたウィンドブレーカーをコンクリートの床に敷くと、そのうえに僕を寝かせた。

 そして覆いかぶさり、くちゅり、と水音が響くような熱いキスを繰り出してくる。

「ゃ、ぁ、んっ……!」

 だめ、これ以上されたら……おかしくなるっ。

 っていうか、こんなこと、いつもしているのだろうか。

 三井くんが蔑んでいたように、こうやってファンを食い物にしているのだろうか。

 だめだ。

 断らなくちゃ。

 そう思うのに――身体がいうことを訊いてくれない。

 はじめてのキス。

 あまりのも上手くて、泣けてしまいそうになる。

 いっぱい、してるんだ。

 あんなふうにいっていたのに。ほんとうはファーストキスなんかとっくに済ませてて、それどころか……。

 服のなかに、彼の手のひらが入ってくる。

 下腹に、彼の熱が当たっている。

 どうしよう。このまま拒まずにいたら、最後までされちゃうかもしれない。

 でも――。

 こんなことでもなければ、彼とはこんなふうに、接点なんか持てなかったんだ。

 きっと、今後も二度と、まともに話す機会さえなかったはずだ。

 たぶん、彼はぼくの正体に気づいていない。

 もし僕が『キモヲタ片瀬』だって気づいていたら、こんなこと、するはずがないのだ。

 一生に一度。最初で、最後の恋。

 絶対にかなわない、無謀な恋。

 だから、いい。このまま、抱かれてしまえばいい。

 遊びでも構わない。それを思い出に――ぼくはこれからも世界のすみっこで、残念なヲタとして、生きていけばいいんだ。

 そう思うのに、やっぱり恐怖心が止まなかった。

 心を伴わない行為。

 いやだけど……でも。

「ごめ、ん。やっぱり……っ」

 気づけば、頬を涙がつたっていた。

 ぽろぽろと大粒の涙が溢れて止まらない。

 みっともなさ過ぎると思う。せっかく大好きな高月くんが、抱きしめてくれたのに。

 求めてくれたのに。それなのに――。

「ごめん。ごめんな――」

 高月くんの手のひらが、ぼくの頬をなでる。やさしく涙をぬぐって、抱きしめてくれる。

「なんか、ほんとにごめん」

 彼の声が、身体に響く。

 さっきまでスーテージで、最高のパフォーマンスを繰り広げていた彼が、いまはぼくを抱きしめ、囁いてくれている。 

 こんな夢みたいなこと、宝くじが当たるよりすごいことなのに。

 それなのに、彼の望むとおりにできなかった自分に、情けなさ過ぎて泣けてきそうだ。

「謝るの、ぼくのほう。なんか、ごめん。こんなっ……」

「謝らないでよ。悪いのはオレだ。今日がラストチャンスかなって思ったら……なんかすごい焦っちゃって。マジでごめん」

 ぼくを抱きしめたまま、高月くんはやさしく背中をさすってくれた。

 そのつめたい手のひらの感触が、とても心地よい。

 抱きしめて、背中をさすって、彼はぼくが泣きやむまで、待ってくれていた。

 どれくらい、そうしていただろうか。

「そろそろ戻らないと」

 かすれた声で、ぼくはいった。

 最初と最後に、彼のパフォーマンスがある。準備だってしなくちゃいけないと思う。

 それに、ほかの生徒たちのライブも、彼は見たかったはずだ。

「ん。あのさ」

「−−なに」

 おそるおそる顔をあげると、すぐそばに高月くんの顔があった。

 じっと見つめられ、それだけで胸がざわめく。

「いい加減な気持ちで、したんじゃないから」

 彼の手のひらが、そっとぼくの頬を撫でる。

 それは彼なりの、気遣いなんだと思う。誰に対しても、こんなふうにやさしく接するのだろう。

「はやく、戻らないと」

 ぼくはぎこちなく笑顔をつくって、いった。

 キスの相手もできないくらい情けない自分が、なんだかとても憎らしかった。

「ああ。――片瀬も一緒に行こう。最後のステージ、片瀬に観てもらいたい」

「ぇ……っ!?」

 うそだ。正体、気づかれてたなんて。

 じゃあ、どうして。

ぼくがあの残念なキモヲタだってわかってて、どうして声なんかかけてくれたんだろう。

「ぁ、ぁのっ……」

 困惑するぼくに、彼は静かな声でいった。

「オレもさ、片瀬みたいだったんだよ。中学のころ、自分を偽って話の合わない連中のグループに紛れ込んでて。ヲタばれするのが怖くてさ、なんかわざとチャラいふりとかして」

「ぇ――」

 いつだってヲタクであることをオープンにして、堂々としている高月くん。

 彼にもそんなころが、あったのだろうか。

「そういう奴らとつるんでても、ずっと孤独を感じてて、自分はどこに属せばいいんだろう。どこに行けば楽に生きられるんだろうって、ぐるぐるしてた」

 高月くんの手のひらが、ぼくの頬に触れる。

 びくんと身体がこわばって、彼は「ごめんね」って手を離した。

 ほんとうは、触れていてほしい。

 でも、そんなこと――いえるはずがなかった。

「なんか片瀬見てると、昔の自分を見てるみたいで、目が離せなくなるんだ」

「昔の、自分?」

「そ。見てたら気になって、気づいたら、どうにもならなくなってた。ごめんね、オレ、いつも片瀬で、ダメな腐妄想してる」

 高月くんはぼくの髪に触れかけて、手を止めた。

 そしてぎこちなく両手を背中で組み、苦笑いをこぼす。

「正直いうとさ、今日、来ないだろうなーって思ってた。だけど実際には片瀬は、わざわざ髪まで切って、真新しい服着て、コンタクトまではめて、来てくれてさ」

「ぁ、いや、コンタクトは……こわくて、入れられなかった」

「え、じゃあ、見えてないの」

「うん……あんまり……よく見えない」

 もっと見えればいいのに。

 大好きな高月くんの顔も、すこしぼやんとしてしまっている。

「危ないよ」

「うん。でも――普段のままの自分じゃ、あのなかに入る勇気さえ、持てなかったから」

「駅まで迎えに行くっていったのに」

「――そんなこと、してもらう理由がないよ」

 答えると、ぐっと顔を近づけられた。

「オレが片瀬を好きだからってのは、理由になんない?」

 互いの鼻先がふれるほど近い場所で囁かれ、トクンと心臓が跳ね上がる。

 からかわれてるだけ。うん、きっとからかわれてるだけだ。

そう思うのに、ドキドキが止まらない。

「眼鏡、持ってんの?」

「−−うん」

「かけて」

「え」

 不思議に思い、見上げると、高月くんの手のひらが、ぼくの頬に触れた。

「ちゃんとオレの顔、見て」

促され、おずおずと眼鏡を取り出すと、それをかけられた。

 テンプルがこめかに触れて、ひやっとする。

「そのままの片瀬が好き。無理、しなくていいから。――でも、頑張って殻の外に出なよ。ちゃんと、したいこと、したいようにしたほうがいい」

 いつになく強い声音で、高月くんはいった。

 そしてやんわりと微笑み、こう付け加える。

「なんて……偉そうなこといってごめん。過去の自分に、いってみた」

 高月くんの顔が近づいてくる。ぎゅっと目を閉じると、額にそっとくちづけられた。

「眼鏡かけると……額にしかしてもらえなくなる……?」

思わずつぶやいたぼくに、彼は驚いたような顔をした。

「してもいいの? ヘンなことされて、オレのこと、軽蔑したんじゃないの」

「軽蔑なんて、してないよ。ただ、−−誰とでもこういうことするのかなって思うと、なんか、悲しかっただけ」

 涙が溢れてしまった理由。

 それは嫌だったからじゃない。――悲しかったからだ。

 正体もわからない、出会ったばかりの自分に、彼があんなことをするのが悲しかった。

「するわけない。このあいだだって、聞いてたんだろ。デコにしか、したことない。唇にちゅーすんの、片瀬が初めてだし」

「う、うそだっ。はじめてであんなにうまいわけ……っ」

「そこはほら、腐妄想パワーだって。ふだん、BL読みまくってイメトレしてるから」

「イメトレ……?」

 おそるおそる訊ねたぼくに、高月はぐっと顔を近づける。

 唇がふれてしまうくらい近い場所で囁かれた。

「ん。片瀬にイロンナコトするイメトレ」

 かあぁっと頬が火照る。どんな反応をしていいのかわからず、ぼくはわたわたと暴れてしまった。

「キス、していい?」

 やんわりと顔を上向かされ、びくんと身体が震える。

「だ、だめ、時間がっ」

「あとニ十分ある。もうしばらく、ここにいても大丈夫だよ」

 抱きすくめられ、こつん、とかるく鼻と鼻をぶつけられた。

「だめなら、しない」

 囁かれ、どうにもできなくなる。

「しないほうがいい?」

 さらに念を押され、ぼくは顔を真っ赤にして必死で首を振った。

「好きだよ、片瀬」

 ちゅ、と音をたてて、高月くんは、ぼくの鼻の頭にくちづける。

「ん――」

 くすぐったさに身をよじると、やんわりと抱きしめられ、今度は唇にキスされた。

 やわらかな唇に包み込まれ、はむようにして吸い上げられる。

 下唇を軽く甘噛みされ、自然と上下の唇が解けた。

「ぁ――」

 内唇をたどり、歯列を丹念になぞられる。

 はやく、触れてほしいのに。

 なかなかぼくの舌にはたどりついてくれない。じらすような甘いキスに、自然と唇を突き出してしまう。もっと欲しいと、気づけば自分からねだっていた。

「どうしよう。可愛すぎるっ――」

 抱きすくめられ、あっという間に押し倒される。

「わ、ちょっ……だ、めっ……」

 いつだって大人っぽくてやさしい高月くんは、こういうことをするときも、もっと、ずっと落ち着いているとばかり思ったのに。

 なぜだか急に謎のスイッチが入ってしまうみたいだ。

 高月くんのこと、大好きだけど――さすがに、いきなりそういうのは、ちょっと無理かなぁって思う。

 もちろん、いつかは――してみたい、気もするけど。

「ぁ、ごめっ……ダメだ、オレ、ブレーキきかな過ぎ」

 パン、と自分の頬を叩き、高月くんは、ぼくから手を離す。

 なんだかすこし名残惜しくて、でも、ホッとした気分になった。

「戻らなくちゃ」

「ん、ああ。最後に――もう一回、キス、しよ」

 そんなふうにねだられ、ぎゅっと目をつぶる。

 軽やかでやさしいキス。

 彼は何度もぼくの唇にくちづけ、それから、頬や鼻、なぜか眼鏡のテンプルにまでキスをした。

「眼鏡、好き……?」

 そういえば、あの日、女の子に語っていた彼の最萌キャラも、眼鏡男子だったはずだ。

「ん、好き」

 もしかして、キャラと重ね合わせていたりするのだろうか。

 いやいや。彼の好きなキャラとぼくでは、全然ちがいすぎる。

 彼の好きなそのキャラは、お約束のように眼鏡を外すと、うっとりするような美形なのだ。

「あぁ、どうしよう。しあわせすぎるっ。――片瀬がオレの中学の頃の曲、聴いてくれてたとか……うー、おかしくなるっ」

 なんだかやっぱり、ずいぶん想像していたのと違う。

 パーフェクトな王子さまキャラ。そんなふうに思っていたのに。

 だけど目の前で頭を抱える高月くんは、あまりにもかわいらしくて、ぼくは萌え死んでしまいそうになった。

「じゃあ、いこっか」

「ん。その前にもう一回だけ」

 高月くんの『もう一回』は止まらなくて、結局、ぼくらは時間ギリギリまで、そこでキスをしつづける羽目になった。

「やばっ、行かなくちゃっ」

 せっかくのイベント。ほかの子たちの演奏、あんまり見れなかったけれど、これでいいのだろうか。

 みんな想いの高月くんらしくないなぁって思うけど。

 だけど、それくらい、ぼくのことを好いてくれていたのかなぁ……なんて。

 そんなわけ、ないけど。

 それでも夢見るくらい、してもいい、よね……?

 ぼくの手を握りしめ、高月くんは建物のなかへと戻る。

「高校生活最後のステージ、ちゃんと眼鏡かけて、しっかり見てて」

 ぼくの眼鏡のテンプルに触れ、彼はいう。

「ん。そうする」

 真剣なその表情に、ドキドキと心臓が高鳴った。

「オレの萌えのためにも、頼むよ!」

 うん。微妙になにかイメージと違うけど……だけど、なんだかそんなとこも、かわいくていいなぁって思う。

 どうしよう。しあわせすぎて、おかしくなっちゃいそうだ。

 高月くんは、ぼくの手を握りしめたままフロアに戻る。

 周囲の視線が、一気にぼくらに注がれる。

 消えちゃいたいほど照れくさくて、だけどその手を、離すことができなかった。

「じゃ、行ってくるから!」

 ぱっと手を離されたあとも、ぼくは、怖くなかった。

 まわりのひとたちに向けられる視線が、まるで高月くんのつくってくれたバリアに包まれているみたいに、怖くない。

 フロア内を、大好きな彼の音楽が満たしてゆく。

 眼鏡をかけているおかげで、誰よりもまぶしいその姿を、しっかりと堪能することができた。





 おしまい


▲戻る


inserted by FC2 system