駅長室のハニィ


 窓から差し込む光がオレンジ色に染まり、遠く『夕焼け小焼け』のメロディが流れはじめる。甘酸っぱいリンゴと蜂蜜の香りが駅務室いっぱいに広がってゆく。

「そろそろいい頃合だな」

 鍋のなか、ほんのりとキャラメル色になったリンゴのコンポートをひと混ぜして火を落とすと、駅舎の外からガシャリと耳障りな音が響いた。

「なんだ……?」

 人里離れた山間の駅。駅舎の周辺に民家はなく、夕暮れ時にこの駅を訪れる者はほとんどいない。

 こんなおんぼろな駅舎に泥棒が入るとも思えないが、一昨年、同じ路線の駅構内で駅看板や時刻表、料金表が鉄道マニアに盗まれるという事件が起こったばかりだ。貴重品などなにもないこの駅舎にも、彼らにとっては価値のあるものが眠っているかもしれない。

 とっさに麺棒を握りしめ、足音を殺して戸口に歩み寄る。指先の震えを必死で抑え込み、駅舎の扉をそっと開いた。

「あれは……」

 そこには泥棒らしき人間も鉄道マニアの姿もなかった。視界に飛び込んできたのは、目の覚めるようなスカイブルー。ぴったりと身体を覆うそれは、サイクルロードレースの選手が着るユニフォームだ。どこかのチームのレプリカなのだろうか。背中に大きくチーム名と思しきものが書かれている。思わずその文字を目で追いそうになり、それどころではないということに気づく。

 地面にうつぶせになって倒れている大男。その隣にはレース用と思しきフレームの細い自転車が転がっている。

「大丈夫ですかっ」

 慌てて駆け寄り、男の様子を窺う。どうやら意識を失っているようだ。

 パニック状態に陥りそうになるのを堪え、男の手首に触れる。硬い筋肉に覆われた手首。久し振りに感じる『ひとの体温』に、ドクンと心音が高鳴る。

 ――大丈夫。呼吸はしているし、脈もある。

 こんなとき、どうしたらよいのだろう。むやみやたらに動かしてはいけないはずだ。

 ズボンのポケットからスマートフォンを引っ張り出し、おれは震える指で医師に電話をかけた。



「脈拍も呼吸も正常。――おそらくハンガーノックでしょうね」

 聴診器を外しながら、高梨医師は柔らかな声音でいう。ポイントフレームの眼鏡に、ゆるくウェーブのかかった栗色の髪。すこし甘みのある上品で整った顔だちは、いかにも女性受けしそうな雰囲気だ。看護師さんたちからさぞかし人気があるだろうな、と彼を見るたびに思う。

「ハンガーノック?」

「ええ、一種のガス欠のようなものですよ。自転車乗りには多いんです」

 ド派手なユニフォームを着て自転車に乗った男が倒れている、と電話で伝えたときから症状の予測がついていたのだという。

「点滴を打ってしばらく安静にしていれば回復すると思いますよ」

 手際よく点滴針を刺す高梨を眺めながら、ホッと胸をなでおろす。見ず知らずの人間だけれど、やはりひとの不幸に直面するのは気が重い。病に冒された祖母のそばで暮らす今、ひとの命の重さを、より敏感に感じるようになった。

「彼が目を覚ますまで、私もここにいますよ」

「ありがとうございます。先生には本当になにからなにまで……どんなに感謝しても、感謝しきれないです」

「感謝なんてとんでもない。あなたのお役に立てるのなら私はどんなことだって……おっと失礼」

 着信音が鳴り響き、彼は慌ただしく白衣のポケットから携帯電話を取り出す。どうやら担当している患者さんの容体が悪化したようだ。急いで病院に戻らなくてはならないのだという。

「大変ですね。お医者さんのお仕事も」

 心臓を患い、山の中腹にある総合病院に長期入院している祖母。高梨は彼女の主治医だ。

「いえ、駅長さんの仕事だって大変でしょう。ましてやこの駅はカフェを兼ねているんですからね」

 やんわりとした笑みを向けられ、照れくさくなる。

「いえ、自分は駅長といっても……ボランティアのようなものですから」

 紙袋に余り物のマフィンやマドレーヌを詰めて手渡すと、高梨は「いつもすみません」と嬉しそうに微笑んだ。

「大丈夫だとは思いますが、もし彼の容体が急変するようなら、私の携帯か病院のほうに連絡をください」

 大男の腕から点滴針を外すと、そう言い残し、高梨は去っていった。



 駅務室兼カフェの電気を消し、六畳一間の駅長室に戻ると、大男が大の字になって眠っていた。いったい何センチあるのだろう。おれも決して小柄なほうではないが、この男は桁外れにデカい。布団から思いきり手足がはみ出している。もしかしたら百九十センチ近くあるのかもしれない。

 がっちりとした体躯。日に焼けた肌にツンツンとした短い髪の毛。見るからに体育会系で漢くさい感じがするけれど、なぜだかその寝顔は妙に愛らしい。

「まだ若いのかな」

 二十代前半といったところだろうか。二十九歳のおれより年下なのは間違いない。日焼けのせいだろうか。頬がすこし赤い。目の辺りには微かにサングラスの跡。まわりよりすこし白いその部分にそっと触れると、男がビクンと身体を強張らせた。

「ふぁ……ぅ、ここは……うぉおお、しまったっ!」

 駅長室の窓ガラスが震えるほどの雄たけびをあげ、男が飛び起きる。その勢いに気圧され、おれは思わず尻もちをついてしまった。

「バイク、俺のバイクはっ?!」

 男はおれに目を留めると早口に捲し立てる。

「バイク……? いや、自転車なら隣の駅務室にあるけど。あの青い色のやつだろ?」

「よかったぁ……。アレ失くしたら俺、確実にオヤジにぶっ殺される……あぁ、そうだ、無事なのか。どこも壊れてねぇのかっ」

 きょろきょろと周囲を見渡す男に、おれは駅務室へと続く扉を指さしてやる。

 慌ただしく扉に駆け寄り、男はふらりと体勢を崩す。

「オイ、大丈夫か?!」

 よほど大切なものなのだろうか。フラフラしながら自転車に駆け寄ってゆく。

「はぁー……よかった。フレーム自体は……無事に見えるな。ハンドルもホイールも、ディレイラーもとりあえずは大丈夫そうだ」

 男は軽々と片手で自転車を持ちあげ、ホイールを転がしたりブレーキをかけたり、変速機を操作したりして安堵の溜息を洩らした。

「アンタが助けてくれたのか?」

 唐突に自分のほうを向かれ、思わずドクンと心臓が高鳴る。

 ――なんだ、こいつ……。

 十九歳で引退するまで、おれは芸能事務所に所属していた。アイドルなんて稼業をしていたせいで、目だけは十分肥えているつもりだ。けれどこの男の眩しさは、そういう類のものとは違う。造形の優劣、そんなものを凌駕した場所にある得体の知れない眩さだ。

「いや、助けるっていうか……店の前で倒れられていても迷惑だから、中に運んだだけだ」

 そう答えると、男はくしゃりと子供のような顔でわらった。

 直視するのが躊躇われるくらいに無垢な笑顔だ。凛々しい眉に切れ長の目。黙っていれば強面に感じられるその顔をくしゃくしゃにして笑うさまは、なぜだかおれの心の奥のほうをズンと刺激した。

 笑顔なんて、ひとに見せるためのものだと思っていた。カメラの前でつくる笑顔。ファンに向ける笑顔。あの仕事を辞めてからも、それは変わらない。祖母を安心させるための笑顔。医師や看護師さん、他の入院患者や、そのご家族や、駅を訪れるひとたちに向ける笑顔。全部、相手の目を意識して作り上げたものだ。

 せっかくの整った顔を、まるでその価値に気づいていないかのように無為に崩して笑う。そんな笑い方の出来る目の前の男に、おれは嫉妬心を抱かずにはいられなかった。

「アンタがここまで運んでくれたのか?」

 重かっただろう、といわれ、「そうでもない」と嘯く。うそだ。ほんとうは高梨と二人がかりでも大変だった。けれども同じ男として、それではなんだかすこし恰好がつかない。

「凄ぇな。俺、九十キロもあんのに」

「九十……」

 どうりで重いはずだ。自分より三十キロも重い男を持ち上げられるはずがない。無駄な肉などひとつもついていないように感じられる彼の体躯。贅肉より筋肉のほうが重いというが、それにしたって九十キロは未知の世界だ。

 改めてその身体をまじまじと観察してみる。ぴったりとしたウェアに包まれたその胸板は途方もなく厚く、腕や太腿は今にも布地がはち切れそうに野太い。それなのに全体的にバランスがよく感じられるのは、頭がちいさく、手足がとても長いせいだろう。肩幅の広さは明らかに日本人離れしている。

 ぎゅるぐぐーと、とんでもなく大きな腹の音が響く。

「腹、減ってるのか?」

 照れくさそうに頭を掻く男に、飯を作ってやる。高梨から消化の良いものを作ってやるようにいわれたから、ミックスビーンズをたっぷり入れたミネストローネに蒸し鶏と温野菜のサラダ、柔らかめのキノコのリゾットだ。

「すげぇな、プロの作った料理みたいだ」

 拙い言葉で褒められ、吹き出しそうになる。

「――一応、プロだからな」

 駅務室兼カフェの室内をぐるりと指さすと、男はおれの指の動きにつられるように室内を見回した。

「ここ、飯屋か?」

「ああ、狭いけどカフェだ」

「確か、駅を目指して走ってたんだけど……」

 バイク――この男は自転車のことをバイクという――で走行中、ドリンクが尽きてしまい、自販機を探して線路沿いの道を走っていたらここにたどり着いたのだという。

「駅だよ。駅舎の一部を貸してもらってカフェをしているんだ」

「駅の中でカフェ? 珍しいな」

「そうでもないよ。この辺は、わりと多い」

 赤字経営の第三セクターによる地方ローカル線。地域復興と経営立て直しのため、無人駅の駅舎を民間人に無償で貸し出し、代わりに駅長業務を委託する『ふるさと駅長制度』を行っている。

 課された業務は駅構内、トイレの清掃と駅周辺の環境美化、月例報告書の提出。改札業務や券売の必要はなく、駅舎はどんな使い方をしても構わない。おれはその制度を利用し、一年前からこの駅でボランティア駅長として駅ナカカフェを営んでいるのだ。

「お前こそ、いったいどこから来たんだ。自転車旅でもしているのか」

 近頃は日本でもこの手の自転車が流行っていると訊く。険しい山に囲まれたこの辺りはサイクリングに適しているとは思い難いが、麓の町からわざわざ登ってきたのだろうか。

「旅っていうか……自主練で走ってて。今度のレース、割と高低差がキツい山岳コースだから。アップダウンのある場所を選んで走っていたら、ここにたどり着いたんだ」

 日が暮れる限界まで漕ぎ続け、帰宅するつもりだったのだという。男が口にした自宅の場所は二つほど離れた県の都市の名だった。

「冗談だろう?」

「なにが?」

 うまそうにミネストローネを飲みながら、男が首を傾げる。

「三百キロ以上離れているじゃないか」

「そうでもないよ。サイコンのメーター見たら、二百七十九キロって出てた。まあ、日帰りで移動するにはギリギリな距離だな」

「日帰り……?」

 ありえない。三百キロなんて車で移動するのだって大変だというのに。

「途中でバスか何かに乗ったのか」

 近頃は自転車を運搬してくれるバスがあると聞いたことがある。

「そんなに驚くようなことじゃねぇよ。一日に三百キロくらいなら、今までにも何度も走ってる。ロードバイクってのは、そういう用途に作られてんだ」

 なんでもないことのように男はいうと、ごちそーさん、と器をテーブルに置いた。先刻までぶっ倒れていた人間とは思えない恐ろしく旺盛な食欲だ。米粒一つ残さずきれいに食べつくしている。

「デザート食うか?」

「なにかあんの? さっきから甘いにおいがしてるけど」

「ああ、これはリンゴのコンポート。リンゴをハチミツで煮たやつだ。アップルパイをつくるのに使うんだ」

「アップルパイ。くぅー……食いてぇ」

 いかつい外見に似合わず甘いもの好きなのだろうか。彼は頬を紅潮させ拳を握りしめる。

「あっためてやろうか。売れ残りでよかったらまだあるぞ」

「めちゃくちゃ食いたいけど……これ以上体重増やしたらオヤジに殺されるから自重する」

「オヤジさんに?」

「ああ、おっかねぇんだ。『何十万もつぎ込んで一グラムでも軽いパーツ工面してやってんのに、てめぇ自身が体重増やし続けたら意味ねぇだろ!』ってさ」

「その自転車、そんなに高いのか」

「こいつは決戦用のホイール履いてるから、ちょっと笑えねぇ金額だ。車が買えちまう」

 父親があまりにも自転車競技に金をつぎ込みすぎるため、母親は愛想を尽かして家を出て行ってしまったのだという。あっけらかんとした顔でそんなことをいわれ、おれはどう反応していいのかわからなくなった。

「どこの業界にもそういうのがいるんだな」

 かくいうおれの母親もその手のタイプだった。いわゆるステージママというやつだ。おれの仕事に干渉しては事務所とトラブルを起こし、挙句の果てに事務所の幹部と不倫関係に陥り、家庭は崩壊した。

 両親にはもう十年以上会っていない。どちらもすでに再婚して新しい家庭があるらしいから、こちらから連絡を取るつもりもない。そもそも向こうだって、あんなスキャンダルを起こして業界を干されたおれに会いたいとは思わないだろう。

「アップルパイか。旨いんだろうな。こう、皮がサクサクでリンゴがとろっとろなんだろ」

 いまにも涎を垂らしそうな顔で男はカウンターキッチンの中をのぞき込む。三口のガス台とシンク、祖母から譲り受けた古いオーブンが一台あるきりのちいさな仕事場だ。

「甘いもの、一切食べちゃダメなのか」

「大切なレースが近いからな。一グラムでも落とせってうるさいんだ」

 残念そうな顔で、男は肩を落とす。

「リンゴジュースがある。果汁百パーセント、砂糖を加えていないからカロリーはそう高くないはずだ」

 すりおろしたリンゴを濾しただけのシンプルなジュース。お客に出す時と同じように、ハチミツに漬け込んだレモンスライスとミントの葉を添えて手渡してやる。

「うまっ……いままでに飲んだことのあるリンゴジュースと全然違う!」

 嬉しそうにはしゃぐさまが、なんだか妙に可愛らしく見えた。

 ジュースを飲み終えると、男は家に帰るといい出した。

「馬鹿をいうなよ。お前、ぶっ倒れたんだぞ。そんな体で三百キロも走れるわけがないだろ」

 ハンガーノックというのは、決して侮ることのできない危険なものなのだそうだ。無理をしてまたどこかで行き倒れられたら、さすがにすこし夢見が悪い。そうでなくとも窓の外はすっかり夕闇に包まれている。こんな時間帯に山道を走れば転落や遭難のリスクだって大きいだろう。

「うーん、でもどこかで泊まったり、電車で帰れるほどの金銭的な余裕はねぇんだ」

「ひと晩くらいなら泊めてやる。ゆっくり休んで明日の朝、帰ればいいだろう」

 どちらにしても意識が戻らなければ泊めてやらなくてはならないと思っていたところだ。見たところ悪い奴ではなさそうだし、ひと晩泊めてやるくらいなんの問題もないだろう。

 幸いなことに、祖母が退院できるようになったら使おうと思って購入した新品の布団がある。おれは駅長室にその布団を敷き、男に風呂を貸してやった。



 風呂あがり、あろうことか男は素っ裸で部屋に戻ってきた。

「おい、ま、前くらい隠せっ!」

 いけないものを見てしまった。クッキリと割れた腹部。マッチョな肉体になど興味がないはずなのに、鍛え抜かれたその男の身体は生身の人間の肉体というよりも芸術的な彫像かと錯覚してしまうくらいに美しく……とても扇情的だった。

「ああ、すまん。ええと……さすがにこれを着るのはイヤだな」

 床に脱ぎ散らしたままの汗だくのスカイブルーのユニフォーム――彼曰く『サイクルジャージ』というらしい――を見下ろし、彼は困惑気な顔をする。

「着替えを貸してやる。ちいさいかもしれないけど」

 恐ろしいことに男は百八十九センチもあるのだそうだ。肩幅も明らかにおれの1・5倍近くある。Tシャツやズボンを貸したところで入るはずもないから、祖母からもらった祖父の形見の浴衣を貸してやることにした。

 和服なら何とかなるかもしれない。そんなおれの期待はあっさりと外れた。

 とりあえず肩は入ったものの、袖も丈も極端に短く、前を合わせきれずに大きく胸元が肌蹴けている。おまけにそんな恰好で胡坐を掻くものだから、逞しい太腿が露わになり、股間の茂みまで見えてしまいそうだ。

「ふ、風呂に行ってくる」

 これ以上こんなものを見続けたら目に毒だ。風呂場に逃げ込み、熱い湯に打たれる。この駅舎の浴室は電話ボックス型の簡易シャワーだ。窮屈なうえにバスタブはない。快適とはいい難いけれど、おれはここでの生活をわりと気に入っている。

 芸能界を引退して、すでに十年の月日が経つ。けれども都内や賑やかな場所では、変装をしていないと未だに元ファンだというひとから声をかけられることも少なくない。

 いかにもアイドルの前髪や襟足の長いニュアンスヘアーをバッサリと短く刈り、ごつめのセルフレームの眼鏡で顔を隠して生活する日々。いまのところこの町でおれの過去に気づいた者は、祖母の主治医の高梨先生くらいしかいない。

『地味な服装をした駅カフェで働くボランティア駅長さん』

 地域の人たちからは、そんなふうに思われているはずだ。

 シャワーを浴び終わった後、シャツとハーフパンツに身を包み、駅長室に戻る。すると男は布団の上で、一生懸命腹筋をしていた。熱心なのはいいが、浴衣が肌蹴けて前が丸見えだ。

「なんてかっこうしてんだ」

 呆れつつ指摘すると、男が不思議そうな顔でおれを見つめた。

 しまった。うっかり眼鏡をかけずに出てきてしまった。慌ててポケットから伊達眼鏡を取り出し、かけようとする。けれども布団から飛び上がった男にそれを阻まれてしまった。

「な、なんだよっ……」

 その手を振りほどこうとして、けれどもどんなに抗ってもびくりともしない。いったいどれだけ馬鹿力だというのだろう。仕方なく眼鏡をかけるのを諦めて目を伏せると、ぐっと顔を近づけられた。

 ――もしかして、バレてしまっただろうか。

 不安になったおれに、男は素っ頓狂な声をあげた。

「なに、このキレーな顔」

 穴が開いてしまいそうなほどじーっと見つめられ、かぁっと頬が火照る。

「ば、ばか。なにいってんだ。男にきれいなんて言葉、普通つかわないだろっ」

「いや、普通は男でこんなキレーとかねぇから、使わないだけだろ」

 至近距離時でまじまじと観察され、照れくさくて堪らなくなる。

「あんまり見んな。――ひとに顔見られるの、好きじゃないんだ」

「なんで。勿体ねぇ、こんなにキレーなのに」

 真面目腐った口調でいわれ、さらに顔の火照りがひどくなった。

「うるさい。明日も早いんだ。病人はさっさと寝ろっ」

 腕を封じられているから、肩で体当たりするようにしておれはそういってやった。全力でぶつかったおれを、男は軽々と受け止める。浴衣の布地越しに感じるその身体が熱く火照っていて、身体の奥の方がジンと痺れた。

「朝の改札業務とかあんの?」

「ないけど、駅構内の掃除とか開店準備とかいろいろあるんだ」

「大変だな。明日起きたら、泊めてくれたお礼に手伝うよ」

 男はそういうと、思い出したように「アンタ、名前は?」とおれの顔をのぞき込んだ。

「高橋」

「下は?」

「直哉(なおや)。ついでにいえば、お前に『アンタ』呼ばわりされるほど若くない。年上には敬語を使えと、教わらなかったのか」

「敬語、使って欲しいのか?」

「いや、別に」

 そう答えると、男はヘンなのといって笑った。そして聞いてもいないのに「小橋 岳人(こばし がくと)」と自分の名前を名乗る。

「ガクト?」

「山岳部のガクに人(ひと)。山岳コースに強くなるようにってつけた名前らしいけど、俺、登りに超弱ぇんだ」

 自転車の話だろうか。きっとよほど自転車好きな父親のもとに生まれたのだろう。

「明日おれは六時に起きるけど、お前は病み上がりなんだから好きなだけ寝ていていいぞ」

 明かりを落とし、寝床に潜り込む。部屋が狭いうえに駅で使う備品の類も少なくない。床面積が少ないから、どうしたって互いの布団の位置が近くなる。「おやすみ」といいながら岳人が寝転がった時点で、すでにおれのふとんに手足が侵入していた。

「ああ、さっさと寝ろ」

 背を向けて、そっけなく返す。ほどなく岳人のいびきがきこえてきて、おれはホッと胸をなでおろした。

 安堵したのも束の間、男の寝相は恐ろしく悪く、おまけに寝ぼけ癖があるようだ。

「ポチー!」

 飼い犬と間違えているのだろうか。野太い腕に絡めとられ、抱き寄せられてしまう。

「離せよ、オイ!」

 どんなに払いのけようとしても、大柄なその身体を押しのけることはできなかった。



 翌朝、岳人は律儀に駅舎のまわりを清掃して帰っていった。あんなにふざけた口調をしているけれど、一応体育会系のノリのなかで育ったのだろう。トレイの便器までピカピカに磨きこまれていた。 

 どうやらほんとうに三百キロ近い距離を自転車で走ってきたようだ。嘘つきと思われるのが嫌なのか、時折、途中の景色の写真がLINEに送られてくる。

『無事帰還!』というメッセージと共に、彼の愛犬だという犬の写真が送られてきた。『ポチ』と名付けられたその犬は大きなゴールデンレトリバーで、どう見てもポチっぽくない犬だった。



 それ以来、毎週のように岳人はやってくるようになった。

 例のリンゴジュースが気に入ったのだそうだ。三百キロ離れた街から自転車でやってきては、一杯五百円のそのジュースをちゃんと金を払って飲む。

「そんなにうまいか? それ」

「ん、めちゃめちゃうまい。てか……ほんとうはそっちが食いたいんだけどな」

 土曜日の夕刻、いつものようにカウンター席に陣取った岳人は身を乗り出すようにしてガス台の上の鍋をのぞき込む。鍋の中ではアップルパイに使うリンゴのコンポートが湯気を立てている。

「そんなに欲しいのなら、ひと切れやるよ」

 パイは駄目でもコンポートのひと切れくらい食べてもバチはあたらないだろう。高梨から聞いた話によると、三百キロを走破するのに消費するカロリーは成人男性の一日の平均摂取カロリーの六倍ちかいのだという。

「欲しがんねぇぞ、勝つまでは!」

 戦時中のスローガンみたいなことをいって、岳人はそれを拒絶し続ける。よっぽど甘いものが好きなのだろう。ひと口食べてしまうと、止まらなくなるのだそうだ。

「八月末に行われる『全日本選手権』。今年はJCFの特別強化選手の選考会を兼ねてんだ」

 優勝者はサイクルロードレースの本場フランスに連盟の支援で留学できるのだという。

「フランスか。へえ、お前、フランス語喋れるのか?」

「いちお、英語とフランス語はガキのころから勉強してる」

 試しにフランス語で話しかけてみると、発音にすこし癖があるものの、ふつうに会話が成立した。

「直哉さんこそ、なんでフランス語喋れんの」

 不思議そうな顔で見つめられ、おれは鍋のなかのリンゴを掻き混ぜながら答える。

「すこし住んでいたことがあるから」

「どこに?」

「ノルマンディ」

「へえ、それでリンゴか」

 ノルマンディといえばリンゴ。フランスに関するその程度の知識はあるようだ。

「だからアップルパイなの?」

「ああ。この町がリンゴの産地っていうのもあるけどな」

 リンゴもハチミツもこの町の特産品だ。第三セクターの鉄道会社。地域との結びつきが強く、地場産の農作物はそのツテで安く仕入れることができる。農園によってはローカル線存続の活力を後押しできるなら、と無償で寄付してくれる農園もあるくらいだ。

「直哉さんのアップルパイは本場仕込みってわけか」

「本場仕込みっていっても……語学学校に半年、向こうの製菓学校に三年通って、実際にパティスリーで修業したのはたったの三年だから、修業したうちには入らないよ」

 芸能界引退後、引きこもりのような生活を送っていたおれに祖母が焼いてくれたアップルパイ。ノルマンディ風だというそのパイの味に惹かれ、作り方を教わったのが最初のきっかけだった。

 祖母のつくるパイは、とてもシンプルだ。ごく薄いパイ生地(フィユタージュ)のうえにアーモンドクリーム(クレームダマンド)を塗り、そのうえにスライスしたリンゴを乗せて焼く。まるでリンゴのピザのようにサクサクに焼き上がったパイにハチミツシロップを塗り、シナモンを振れば完成だ。

 素材の味を最大限に生かしたそのレシピは、実際に自分で作ってみるととても難しかった。祖母のようにうまく焼けるようになりたいと試行錯誤を重ねているあいだは、心の痛みをすこしだけ忘れることができた。

『そんなに好きならフランスにパイ作りを習いにいったらいいじゃない』

 祖母に勧められ、フランス行きを決めたのだ。あのとき祖母に背中を押してもらえなければ、今でも自分は抜け殻のような日々を送り続けていたかもしれない。

「くぅー、食ってみてぇな、直哉さんのパイ」

 いまにもよだれを垂らしそうな顔でそんなふうにいわれ、おれは思わず吹き出してしまいそうになった。

 年下の男を可愛いなんて思うシュミはなかったはずなのだが、自分も年をとったということなのだろうか。

「そのレースで優勝したら、スペシャルなやつを焼いてやるよ」

「マジで? やった! ありがと直哉さん!」

 大げさに飛び上がり、岳人はカウンター越しにおれに飛びついてくる。相変わらず体温がすこし高い。温かな腕に抱かれながら、おれはピレネーの満開のひまわり畑の前をこの男が自転車で駆け抜ける姿を思い浮かべた。



 岳人は今夜も駅長室に泊まるつもりのようだ。彼がこの町に来るようになって、すでに二か月が経つ。今にも肌蹴けそうな浴衣では目に毒だから、この男が着られそうなサイズのTシャツやハーフパンツを用意してやった。

「これ、新品じゃねえの?」

 もしかしたら俺のために買ってくれたのか、と心配そうな顔をされ、

「自分用に買ったけど、大きすぎたんだ」

 と嘘を吐く。

「なにからなにまで悪ぃな」

 彼はそういって銭湯の入浴料をおれの分まで支払ってくれた。

 年下に金を出してもらうなんてなんだかくすぐったいけれど、「頼むから出させてくれ!」と土下座する勢いで頭を下げられると断るわけにもいかない。

「やあ、駅長さん。おや、きょうもお客人と一緒かい」

「ええ、また自転車で来たらしいですよ。三百キロも離れた隣の隣の県から」

 番台で店主と挨拶を交わし、男湯ののれんをくぐる。この男は銭湯がとても好きらしく、「でかい風呂に浸かるとHPが全回復する!」

 といつも嬉しそうにはしゃいでいる。

 駅カフェにジュースを飲みに来るただのお客さん。――そんなふうにいいきかせてみても、すこしずつ自分のなかで岳人の存在が大きくなってゆくのがわかる。

 湯船の中、彼の鼻歌がスポーツニュースのテーマ曲からフランス語のシャンソンに変わる。どこで覚えてきたのだろう。すっかり頭のなかはフランスに飛んでしまっているようだ。

 留学が決まれば二年間は連盟の支援のもと武者修行を積むことになる。そしてその後現地のプロコンチネンタルチームのトライアウトを受け、合格したあかつきには世界的なビッグレースでの活躍も夢ではないのだという。

「今のうちにサインを貰っておかないとな」

 しんみりしてしまいそうになる気持ちを奮い立たせ、ぎこちなく笑顔をつくる。

 岳人は照れくさそうに笑って、

「絶対に夢、叶えてみせるから」

 といった。

 夢。そんな言葉を真顔で口にできるこの男を、なんだかとても眩しく感じた。



 湯上がりのこの男はいつにも増して目に毒だ。湯船の中では気が張っているから、逆になんとか平静を保つことができる。けれども風呂上りの無防備なときに見せるふとした表情に、バクバクと心臓が暴れてしまうのだ。

「直哉さんもコーヒー牛乳、飲むよな」

「ん」

 銭湯での支払いは、自分の役目だと思っているようだ。おれは岳人の買ってくれたコーヒー牛乳をありがたく受け取った。

 この男は細かい作業が苦手で、牛乳瓶の蓋が取れずに苦戦する。

「ほら、取ってやるよ。貸しな」

 岳人の蓋を先に取ってやってから、いつもおれは自分のぶんの蓋をあける。

 コーヒー牛乳なんて砂糖の塊のように感じられるが、減量中に飲んで大丈夫なのだろうか。すこし気になるけれど、これだけ節制して自分を追い込んでいるのだ。湯上がりの一杯くらい許してやりたいと思う。

 ただでさえ岳人は酒を飲まない。三百キロ近く走った後にコーヒー牛乳を一本呑むくらい、きっと体重にはさほど影響がないはずだ。

「くぅー、うめぇ!」

 いつものことながら、いちいちリアクションの大きな男だ。腰に手を当て「ぷはぁ」と大げさに嘆息する岳人に、思わず吹き出してしまいそうになる。

 一緒に夕飯を食べ、銭湯に行って眠るだけ。ただそれだけのことが、この男と一緒だとなぜだか楽しくて仕方がなかった。

 銭湯から駅までは歩いて十五分ほどかかる。

「すげぇ、星がたくさん見える」

 夜空を見上げ、岳人が歓声をあげる。濡れ髪のせいかいつもより幼く見えるその笑顔に、ギュッと胸が痛くなった。

 好きになっても意味のない相手。わかっているけれど、惹かれることをやめられそうにない。

 駅長室に戻ると、岳人は入念なストレッチをして、突然、電池が切れたように眠ってしまう。腹を丸出しにしたまま大の字になって眠る岳人にタオルケットをかけてやると、またもやポチと間違えられて捕獲された。

「ポチー!」

 愛しそうに呼ばれ、頬ずりされる。

 汗と、ひなたに干した洗濯物のようなにおい。瞼を閉じると、どこまでも続くピレネーのひまわり畑とスカイブルーのサイクルジャージが再び脳裏をよぎった。



 梅雨が明けたある日、彼は撮影スタッフと共に駅カフェにやってきた。スポーツニュースの企画の一つで、未来を担うアスリートの勝負メシを紹介するコーナーに出演するのだという。

「ちょっと待て、岳人。そんなの聞いてないぞ」

「俺の勝負メシは直哉さんのリンゴジュース以外ありえねぇんだ。この店で撮影させてよ」

 真顔で懇願され、拒みきれなくなる。

「あの、僕の姿は映さず、店の内装とジュースだけを映すようにしていただけませんか」

 撮影スタッフにそう頼むと「本当はお店の方のコメントも欲しかったんですけどねぇ」と残念そうな顔をされた。

「直哉さん撮られるの苦手なの? せっかくめくちゃ男前なのに。カメラさん、見てくださいよー。このひと、こんなにキレーな顔してんですよ」

 眼鏡を外されそうになり、慌てて半歩下がる。撮影スタッフのひとりが、ちいさなこえで囁いた。

「もしかして……元LUXIA(ラクシア)の早野 潤(はやの じゅん)さんですか?」

「ち、違います!」

 出来るかぎり平静を装い、眼鏡をかけ直す。不思議そうな顔で自分を見つめる岳人から目を反らし、おれはちいさくため息を吐いた。

 頑なに出演を拒み続ければ、逆に怪しまれ、元アイドルであることがバレてしまうかもしれない。一時は自分の醜聞のせいで他のメンバーにまで被害が及んでしまうのではないかと心配した時期もあったが、LUXIAは現在も活躍をつづけており、紅白でトリを務めるほどの国民的アイドルの地位を築き上げた。

 脱退した自分の存在は、黒歴史として完全に葬り去られている。できることなら今後も、彼らに迷惑をかけるようなことだけはしたくはないのだ。

 ――大丈夫。あれから十年もの月日が経過している。幸いなことにアイドル時代は本名とは全く関係のない芸名を使用していたし、他人の空似で押し通せばきっとなんとでもなるだろう。

 バクバクと暴れまわる心臓。押さえ込みながら、

「ほんの少しなら画面に映ってもいいですよ」

 と彼らの依頼に応じることにした。



「それにしても、お前、テレビの取材なんてすごいじゃないか」

 撮影スタッフが帰ったあと、岳人と二人でいつものようにカウンターを囲む。

「ん。まあこれでも一応……去年は全日本選手権で優勝してるからな」

「優勝?! 日本で一番速いってことか?」

「あ、いや、もちろん自分の年齢のカテゴリでってことだぜ。エリートレースなんか出たら絶対歯が立たねぇけど……いまのカテのなかでは、一応、国体でも全日本でも俺がてっぺん取ってんだ」

 岳人いわく、全日本選手権では三年連続優勝しているのだという。

「お前、実は凄い選手なんだな」

「――そうでもねぇよ」

 岳人の頬が照れくさそうに染まる。

「そんなに速いなら、今年も安泰なんじゃないのか」

「だったらいいけど、そうもいかねぇんだ」

 自転車競技のロードレースというのは、幼少期にはじめる人間がとても少ないのだそうだ。大半が中学や高校入学後にはじめ、そこからトップ選手になりあがってゆく。日本人で初めてツールドフランスの表彰台にあがったトップ選手も、高校卒業後に本格的に自転車競技をはじめたのだという。

「ほかのスポーツで活躍していた凄いやつらが後から合流してくることも多いから、優劣が引っくり返りやすいんだ」

 競技をはじめたばかりの選手は、当然伸びしろが大きい。幼少期から競技を続けている自分はそういう面で不利なのだ、と珍しく真面目くさった顔つきで岳人はいった。

「トップにいるってことは、前を走っている人間が誰もいないってことだ。追い抜かれる恐怖と戦いながら、誰もいない道をたった一人でひたすら走り続けなくちゃいけない」

 豪胆な感じのするこの男でも、ナーバスになることがあるのだろうか。おれは気の利いた言葉をかけることもできず、ただ無言で彼のために作った新作デザートを差し出した。

「ありがたいけど、甘いもんは我慢しねぇと」

 残念そうに岳人は目を伏せる。思いのほか長い睫が揺れて、切れ長の美しい眦に見惚れてしまいそうになった。

「安心しろ。砂糖は使っていない」

「合成甘味料か? そういうのもマズいんだ。薬物検査もあるし、食い物にはできる限り気をつけないと」

「合成甘味料じゃない。希少糖って聞いたことあるか?」

「きしょーとー?」

「ああ。自然由来の単糖で砂糖にちかい甘さがありながら、カロリーはほぼゼロっていうありがたい物質だ」

「マジで? そんな夢のようなものがあるなら、どうしてみんな使わないんだよっ」

 世の中のお菓子も料理もなにもかも、それを使えばみんな幸せになれるじゃないか、と岳人は興奮気味に捲したてる。よっぽど甘いものに飢えているのだろう。

「いや、菓子製造メーカーや一般の飲食店が使うにはちょっと高価過ぎるんだ。とてもじゃないけど量産には向かない」

 ハチミツのかわりに希少糖をつかってコンポートしたリンゴ。高カロリーなパイではなく無糖ヨーグルトに添えて出してやると、岳人の顔が幸せそうに変わる。

「うわー、めちゃくちゃ旨そう! だけどもしかして俺のために、そんな高価なものを取り寄せてくれたのか?」

 不安げな顔で岳人がおれを見つめる。おれは彼から目を反らし、「ばあさんに頼まれたんだよ」と嘘を吐いた。

「ばあちゃん、近くに住んでるのか?」

「坂を上ってくる途中に、大きな病院があるだろ。――あそこに入院してる」

「どこか悪いのか?」

「心臓だ」

 岳人の顔が心配そうに歪む。なにかいいたげにしている彼の言葉をさえぎるように、おれはスプーンを差し出した。

「いいからさっさと食え。お前が食べ終わらなくちゃ、いつまで経っても片付かないだろ」 

「ん、ああ。ごめん……」

 頷きながらも、岳人はまだ心配そうな顔をしている。心根の優しい男なのだと思う。このあいだ、駅の掃除をしていてホームで鳥が死んでいるのを見つけたときも、目を真っ赤にしながら駅舎の裏手の空き地に穴を掘り、丁寧に埋葬してやっていた。

「ありがと、すっげぇうまい」

 嬉しそうな笑顔を向けられ、おれは岳人に背を向ける。

「別にお前のために作ったんじゃない。お前は、ばあさんに食わせる前の毒味係だ」

 照れくさ紛れにそう嘯くと、

「それでもめちゃくちゃ嬉しい」

 と岳人は無邪気な顔で笑った。

 長く続いていた雨がようやくあがったようだ。勝手口の小窓を開けると、夏のはじまりを報せるみたいな生ぬるく湿った風が吹き込んでくる。

 この男と過ごせるのは、あと何度くらいなのだろうか。そんなふうに思いながら、おれは鍋のなかのコンポートを木べらで掻き混ぜた。



 翌週の土曜日、おれは岳人と一緒に例のスポーツ番組の特集コーナーを見た。

 濡れ髪をバスタオルで拭いながらテレビの画面に目を遣ると、スカイブルーのサイクルジャージを身にまとった岳人が画面いっぱいに映し出された。そしてその映像に被されたナレーションに、おれは言葉を失った。

『明日をつくる未来のアスリート。彼らを勝利に導く勝負メシを紹介する『アスメシ!』今回のアスリートの卵は、現役高校生でありながら大人たちに交じって強豪チームに所属し、U17二連覇に続き、全日本選手権男子ジュニアの部、二連覇を狙う小橋 岳人くんです!』

 いま、ジュニアの部っていったか……? 現役高校生だって……?! 空耳だろうか。瞬きを繰り返し、画面を凝視する。すると高校の制服と思しき開襟シャツを纏った岳人の姿が映し出された。

「ちょっと待て岳人、お前、高校生なのかッ?」

 頭の上のバスタオルを投げ捨て、岳人を問い質す。岳人は不思議そうに首を傾げた。

「あれ、いってなかったっけ?」

「き、聞いてねぇよッ。てか、なに考えてんだ、お前。高校生の分際で毎週毎週、他県に泊りがけで練習に来るって……親はこのこと知ってんのか」

「親には行先はいってねぇけど……外泊くらい高校生ともなりゃ、みんなしてんだろ」

 ふあぁ、とあくびをしながら面倒くさそうに岳人はいう。

 風呂に入るとすぐに眠くなってしまうようだ。ごろんと布団の上に寝転がり、ぼけーっとした顔でテレビ画面を眺めている。

「あ、直哉さん映ってる。やっぱキレーな顔してんなぁ。眼鏡かけててこれだけ男前って、尋常じゃねぇよ」

 岳人の言葉に釣られ、画面に目を向ける。するとそこにはちいさくだけれど、はっきりと自分の姿が写ってしまっていた。

「できるだけ顔は映さないでくれっていったのに……」

「無理無理。だって直哉さん、めちゃめちゃ男前だもん。明日の朝になったら『イケメン駅長』とかいって話題になってたりして」

 無邪気な声でそんなことをいうと、岳人は手足を伸ばして大の字になった。その瞬間、彼のスマートフォンが震えはじめる。

「おい、電話鳴ってるぞ」

「ん。面倒くさい……」

 岳人はそういうと、ふあぁとやる気なく特大の欠伸をした。

「おい、鳴り続けてる。大事な用件じゃないのか」

「大丈夫だって……ん」

 面倒くさそうにスマホを手にすると、岳人は「もしもし」と不機嫌そうな声で答える。誰かの怒声が微かに漏れ聞こえてきた。

「うるせぇなぁ、俺がどこに泊まろうがオヤジには関係ねぇだろ」

 どうやら外泊を咎められているようだ。そりゃそうだろう。大きなレースを控えた大切な時期なのだ。こんな場所で油を売っている場合ではない。

「もういい、わかったよ。明日の夜には帰るからっ」

 一方的に彼が電話を切ると、今度は店の電話が鳴った。奇しくもテレビ画面にはこの店の電話番号が表示されている。アスリートの卵、小橋岳人を支える『リンゴジュース』が呑める店として紹介されてしまっているのだ。

 無視し続けるわけにもいかない。おれは意を決し駅務室の電話に出た。耳を近づけると、劈くような怒声が響き渡る。

『ウチの倅がそこにいるんだろう。今すぐ代われッ』

「――岳人、お前の親父さんからだ」

 受話器を差し出すと、駅長室からこちらの様子をうかがっている岳人はぶんぶんと首を振って拒絶した。

「あの、いま手が離せないようで……」

 岳人の代わりにそう答えると、再び怒声が響き渡る。

『貴様、テレビに出ていたあの店の店長か。今すぐ代われといっているだろう。なぜ、息子に代わらない』

「なぜ、といわれましても本人が……」

 聞き取り不能な怒声が耳を劈く。

「岳人、物凄く怒ってるぞ。ほら、いいから電話代われ」

「――いやだ」

「いやだ、じゃねぇよ。ガキじゃないんだから。ほら、出ろ」

 岳人の腕を掴み、電話のそばまで引っ張ってきて無理やり受話器を押し付けると、漏れ聞こえる怒声がさらに大きくなった。ひとしきり怒鳴られ続けたあと、彼は静かな声で反論し始める。

「ガキのころからずっと、アンタのいうとおりにしてきた。ふつうに漫画見たいときだってあんのに、毎日毎日、ロードレースの動画ばっかり見せられて。友達とは遊べねぇ、部活もさせてもらえねぇ、朝は毎日五時に叩き起こされて、授業が終わったら拉致されるみたいに山に連れて行かれて、暗くなるまでひたすらバイク漕がされて……。ロードレース好きだし、アンタのおかげで今の自分があるのもわかってる。だけど俺だってアンタの命令だけハイハイ聞き続けるロボットじゃねぇんだ。俺にだってやりたいことはあるし、行きたい場所だってある。――練習は絶対におろそかにしない。むしろ、したいようにしたほうが頑張れんだ。フランス行ったら、もう、そんなことすらできなくなんだろ。俺なんかよりもすげぇ奴らがゴロゴロしてんだ。死ぬ気でやんなきゃ埋没しちまうだろ。――わかってるから。今だけだから、絶対に勝つから、今だけは俺の好きなようにさせてくれッ」

 岳人の声がかすかに歪む。大きな肩がふるふると震えている。俯き加減になったその顔が、赤く染まっている。

 静かな駅長室に、彼の嗚咽が響く。涙なんか流しそうもない豪気な彼が、声を押し殺し、大粒の涙を流している。

 彼の嗚咽に、彼の父親の怒声が重なる。

「これだけいってもわかんねぇのかよ。そんなだから母ちゃん出て行っちまうんだよッ!」

 岳人はそう怒鳴ると、受話器を叩きつけるようにして電話を切った。

 その瞬間、ふたたび着信音が鳴り響く。

「出なくていい。――あんなクソオヤジ、なにいってもわかんねぇから」

 岳人は鼻を啜りながら、そういった。

「そういうわけにはいかない。お前の親父さんじゃないかもしれないし」

 ここの電話はいまどき珍しい古い黒電話だ。ナンバーディスプレイなんてものはついていないから、電話に出ない限り誰からの着信なのかわからない。

「お電話ありがとうございます、XX鉄道〜〜駅、駅長の……」

『岳人に代われッ』

 最後までいい終わる前に、怒声が響き渡る。岳人に受話器を差し出すと、ふるふると首を振って拒まれた。

「――もうしわけありません、岳人くんはいま、お手洗いに行っておりまして……」

『適当なことをぬかすな。岳人は未成年者なんだ。未成年者を親の断りもなく家に泊めるなんざ犯罪だ。警察に突き出されたいのかッ』

「私がうかつでした。彼が未成年者であることに気づけず、ここに泊めてしまいました。今後は二度とこのようなことがないようお約束いたします。ええ、明日の朝、明るくなり次第、帰宅させますので……申し訳ございません」

 謝罪の言葉を告げる間も、彼の父親からの罵声は止まらなかった。終わりそうもない罵声を最後まで聞き続けた後、受話器を置く。

「直哉さんはなにも悪いことなんかしてないだろ。あんなヤツに謝る必要ない」

「お前が未成年だということに気づけなかったのはおれの落ち度だ。――高校生だと知っていたら、ここには泊めなかった。いいな、二度とここには来るな」

「未成年、未成年って、みんな揃ってなんだよッ。ほかの奴らだって遊んでんじゃねぇか。俺は全部、犠牲にしてきた。なにもかも犠牲にしてレースに打ち込んできたんだ。全部我慢してきた。ひとつくらい、わがままいったっていいだろ。――はじめてなんだよッ、こんなふうになんのは。我慢できないのなんて、はじめてなんだッ……!」

 一瞬、なにが起こったのかわからなかった。気づいた時には熱く火照った彼の胸に頬を押し付けられるようにして抱きしめられていた。

「好きなんだ、アンタのことが。――リンゴジュースが呑みたいなんて、嘘だ。逢いたかった。アンタに逢って、触れたかった。こうして……抱きしめたかったんだ」

「馬鹿をいうな。異性愛者のくせに。大体、お前はおれがいくつか知ってんのか」

 すでに二十九歳。年が明ければ三十になる。そのことを伝えると、おれを抱く岳人の腕にギュッと力が籠った。

「関係ねぇよ、年なんか。年も性別も関係ねぇ」

 抱きすくめられるようにして、布団の上に押し倒される。先刻まで岳人が寝転がっていた布団だ。かすかに彼の熱が残っている。

「関係なくない。大人がガキと寝たら、淫行になんだよ。おれを犯罪者にする気か」

「十八歳未満と寝れば、だろ。先週の金曜日が十八の誕生日だったんだ。アンタが俺と寝たって、淫行にはならない」

 岳人の手がおれのTシャツをたくし上げる。露わになった肌に口づけられそうになって、おれは慌ててその顔を押しのけた。

「ふざけんな。合意もなしにこんなことしたら犯罪だってことくらいわからねぇのか、クソガキが」

「死ぬほど好きなんだ。なんだってする。アンタに好いて貰えるならどんなことだってするから、直哉さんも俺を好きになってよッ」

 かたちのよい岳人の切れ長の瞳から、ほろりと大粒の涙が溢れる。温かな涙がおれの頬に落ちて、自分自身が泣いているみたいな錯覚に陥りそうになった。

「馬鹿にすんな。好きだからやらせろ、だ? そんなもんに応えられるわけねぇだろッ」

 指先が震えた。声まで震えてしまいそうになって、俺は必至で暴れまわる心臓を拳で押さえこむ。

「――俺のこと、嫌いなのか?」

 岳人の瞳が、いまにも落涙しそうに潤んでいる。見ているのがつらくなって、おれは彼から目をそらした。

 背けた顔を、大きな手のひらで包み込まれる。節ばった手のひら。温かなその手のひらに、自分まで涙腺が緩んでしまいそうになった。

「アンタの笑ってる顔が見たい。怒ってる顔も、呆れたような顔も、全部が好きで。口では全然やさしくしてくれねぇのに、いろいろ俺のためにしてくれるとことか、そういうの全部。アンタの全部が好きなんだ」

 どんな顔をしてそんな言葉を吐いているんだろう。顔を背け続けるおれを、岳人はやんわりと、けれども強い力で向き直らせた。

 まだかすかに濡れた髪、真っ黒に日に焼けた肌、意志の強そうな瞳。潤んだその瞳でじっとおれを見つめ、ぐっと近づいてくる。突然すぎて避けることができなかった。カサカサした彼の唇がおれの唇に押し当てられる。

 あの事件から十年。誰も信じない。誰も好きにならない。そう思い、ずっとひとりで生きてきた。苦い思い出になってしまったあの男とのキス。手慣れた感じのそのキスとはまったくちがう、ぎこちないキスが降ってくる。

 震えているのだと思う。おずおずと押し当てられた唇。おれの身体を抱くその腕も小刻みに震えつづけている。へたくそでムードのへったくれもなくて、だけど……心臓が壊れてしまいそうなくらいに胸がせつなくなる。

「馬鹿、いうな」

 唇を離し、吐き捨てるようにつぶやく。できるだけ冷淡に。そう、二度とおれの顔など、見たくないと思ってもらえるように。

「え……?」

 不安げな顔で岳人はおれを見つめる。おれは岳人の喉仏に親指を突き立て、窪みを押さえこむようにしてその身体を引きはがした。

「くっ……ぅ」

 ゲホゲホと咽こむ岳人を睨みつける。

「勝ってフランスに行くんだろうが。――人を見くびるのも大概にしろ。ガキの想い出づくりなんかに付きあってやる気はない」

「ちが、直哉さん、俺はそんなんでいってるんじゃないっ。――違うんだよ、直哉さんッ」

「うるさい。出ていけ。いますぐ出て行けよ」 

 窓の桟に干したサイクルジャージを引っ掴み、岳人に向かって投げつける。岳人は真っ青になって必死で弁明しようとした。

「違う、俺の話を聞いてくれよっ」

「さっさと出ていけ。十秒以内に出て行かなければ、警察を呼ぶ」

 そう凄んでも岳人は出て行こうとしなかった。だからおれは受話器を取って、110番通報するふりで、117に電話をかけた。

「もしもし、こちらXX鉄道〜〜駅、駅長の高橋です。ええ、駅舎に不審な人物が……」

 慌てて電話を切ろうとする岳人を睨みつけ、冷ややかな声音でいう。

「馬鹿なことをするな。通報電話が途中で切れれば、なにかあったと思って警察が飛んでくるぞ」

 さりげなく受話器を逆さにし、岳人に時報が聞こえてしまわないよう受話部を手のひらで塞ぐ。

 泣きだしそうになる岳人に犬でも追い払うかのように手を振って、おれは退室を促した。

「人を暴力でねじ伏せようとする人間が、おれはこの世の中で一番嫌いなんだ」

 追い打ちをかけるようにそう告げると、岳人は名残惜しそうにおれを見つめながらも、駅長室の外に出て行った。



 窓の外、完全に岳人の姿が見えなくなったのを確認してから、駅舎に鍵をかける。その瞬間、全身から力が抜け、ガクンと膝から崩れ落ちてしまった。

 コンクリート造りの駅務室の床にへたり込み、おれは声を押し殺してすこしだけ泣いた。



 ハーフパンツのポケットからLINEの通知音が漏れ聞こえる。

「直哉さん、スマホ鳴っていますよ」

 カウンターの向こう側に座る高梨医師から指摘され、おれは「スミマセン」と頭をさげた。昨晩からひっきりなしにLINEにメッセージが送られ続けている。

『ごめんなさい』

『とんでもないことをしてしまったということに、今更気づきました』

『許されないことをしたのだと、わかっています。もういちど、直哉さんに直接会って謝りたいです』

 送られてくるメッセージに返信はしない。メールも電話の着信も無視し続けている。店の電話にはかかってこない。ああ見えて律儀な男だから、かけてはいけないと思っているのだろう。

 決死の表情で告げられた言葉を思い出す。

『どんなことだってするから、直哉さんも俺を好きになって』

 そんなこといわれなくたって、最初から岳人のことは嫌いじゃない。

 ほんとうは、一度きりでもよかった。それであの男が満たされるというのなら、一度くらい寝てやってもいいと思った。――だけどそんなことをすれば、一生忘れられなくなってしまいそうで怖かったのだ。

 二度と恋なんてしない。誰のことも信じない。そうやって心を閉ざして生きてきたのに……あの男は勝手に土足でおれの心のなかに入り込み、知らないあいだに、なくてはならない存在になってしまっていたのだ。

「どうされましたか。物憂げな顔も素敵ですが、あまり続くようでは心配になります」

「え、ああ……すみません。ええと……グアテマラのホットとパストラミのパニーニですね」

 高梨の声に我に返り、あわててコーヒーの支度をする。豆を挽き終わり、オーブンを温めはじめたとき、再びLINEの通知音が鳴った。

「――スミマセン」

 接客業なのだからバイブレーター機能にすべきだということはわかっている。けれども祖母に万が一のことがあったらと思うと、どんな着信も逃してはならないと思い、消音設定にする勇気がないのだ。

「今は私以外、お客さまは誰もいませんし、どうぞお気になさらずコーヒーを淹れる前に着信を確認されてはいかがですか」

「いえ、そういうわけには……」

 パニーニをオーブンに入れつつ、フレンチプレスに粉を落とす。

「そわそわした状態のままで淹れていただいても、おいしいコーヒーにはありつけそうもありませんから」

 にっこり微笑んでそんなふうにいわれ、なんだかとても申し訳ない気持ちになった。

 ちいさく深呼吸して、ポケットのなかのスマホに手を伸ばす。予想どおりメッセージは岳人からで、ただひとこと『会いたいです』とだけ書かれていた。



 店を閉めた後も、メッセージは届き続けた。

 あいかわらず内容は『ごめんなさい』と『会いたいです』のオンパレードだ。

 いったいどんな顔をして、あの男はこれを打っているのだろう。短いメッセージに交じって、時折長い文章も送られてくる。

『あの番組の取材班を連れて行ったのは、お客さんが増えたら喜んでもらえるかなーと思ったからです。俺とあの眼鏡のオッサン以外のお客さん、あんまり見たことなかったから』

 どうやらひとまわりも年下の男に、商いの心配をされてしまっていたようだ。

「放っておいてくれよ。この店は平日のモーニングとランチ客で成り立ってるんだ」

 誰にともなく呟き、スマホをポケットに突っ込む。その後も何度も通知音が鳴ったけれど、おれはそれら全てを無視し続けた。

 気を取り直し、駅長室の掃除をする。岳人の匂いの残るシーツを引きはがして洗濯機のなかに突っ込むと、店の電話が鳴り響いた。

「とうとう痺れを切らして店の電話にもかけてきやがったか」

 しばらく無視し続けたけれど、ベル音がやむ気配はない。 

「――もしかしたらお客さんからの電話かもしれないし……出たほうがいいな」

 自分自身に言い訳するみたいにして、おれは駅務室の電話に手を伸ばした。

「お電話ありがとうございます。駅ナカカフェ『miel(ミエル)』でございます」

 駅長室の電話とは回線が異なり、こちらは店専用の電話だ。店名を告げ終えてしばらくすると、受話器から不快な笑い声が聞こえてきた。電話を切りそうになったおれの耳に、耳障りな声が響く。

「ひさしぶり。お前、いま『ふるさと駅長』っての、やってるんだって?」

 あのテレビ番組のせいで気づかれてしまったのだろうか。おれが画面にうつったのは一瞬だったし、顔のわかりづらいゴツめの伊達眼鏡をかけ、髪形だって以前とは全然違う髪形にしているのに。

「つれないよな。こっちはこの十年間、必死でお前を探し続けてたってのに。挨拶くらいできないのかよ。――ナオ」

 ぶわりと全身の毛が逆立ち、条件反射的に受話器を電話機本体に叩きつける。電話線を外し、おれは駅長室に駆け込んだ。

 七月下旬。どう考えたって寒いはずがないのに、全身の震えが収まりそうにない。布団の上、シーツに包まるようにして耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じた。



 その日から、その男からの電話がひっきりなしにかかってくるようになった。永遠に電話線を抜いていられればいいが、客商売である以上、そういうわけにもいかない。ナンバーディスプレイ機能つきの電話機を購入し、男の番号は着信拒否にした。それでも男は次々と別の番号を使って電話をかけ続けてくる。

「大丈夫ですか、直哉さん。顔色が悪いようですけど」

 白衣姿の看護師が行き交う病棟の廊下、心配そうな顔で覗きこまれ、慌てて笑みを作る。

「あ、いえ……大丈夫です。それより祖母の容体はいかがでしょうか」

 祖母の様子を見に来たものの、入浴中らしく病室に彼女の姿はなかった。出直そうと病室を出たところで、彼女の主治医である高梨に声をかけられたのだ。

 白地に淡いブルーのピンストライプの入ったシャツに、明るい色味のカジュアルパンツ。ノータイで白衣を羽織った高梨は、ラフな服装にもかかわらず品の良さが滲み出ている。

「ずいぶん安定していますよ。数値的にもよいですし、なにより表情がとても明るくなられた。お食事も以前よりしっかり召し上がれているようですし、折を見て一時退院してみるのもいいかもしれませんね」

「一時退院、ですか……?」

 祖母が入退院を繰り返すようになって、すでに二年の月日が経つ。ここ半年は外泊も禁じられていたから、高梨の言葉は意外だった。

「あの、もしかして……」

 助かる見込みがないから、せめて最後は住み慣れた家で……というアレだろうか。不安になるおれに、高梨は穏やかな笑みを零す。

「直哉さん、いま、ものすごく不吉なこと考えているでしょ」

「え、あ……いや……っ」

「ご安心ください。さつきさんは、ほんとうに回復傾向にあるのですよ。もちろん完全に病が治ることはありません。ですが術前と比べたら、ずっといい状態にあるのは確かです。もしかしたら、再び一緒に暮らすことが出来るかもしれませんよ」

「本当ですか?」

「私たちのような職業の人間が嘘を吐いてはおしまいですよ。期待を持たせるような言葉は極力つかわないようにしているんです」

 そんなふうにいわれ、ドクンと胸が高鳴る。

 ――祖母の容体が回復しつつある。

 それはおれにとって、なによりも喜ばしい希望の光だ。けれどもそれと同時に、その光に照らされて影を落とす別の感情の存在に気づかされる。

 祖母のことが好きだ。誰よりも大切なたったひとりの家族だし、自分をどん底から救い出してくれた恩人なのだ。最期までいっしょにいてあげたい。その想いに嘘はない。

 嘘はない、けれど……。ほんのすこしでも、この町を離れられないことを残念だと感じた自分を、おれは心の底から醜いと思った。

「そういえば、あの高校生はまだお店に来ているんですか」

 唐突に話を振られ、おれは着替えの入ったかばんを落としてしまいそうになった。

「彼はもう来ませんよ」

 できるだけ平静を装ったつもりだったけれども、すこしだけ声が震えた。

「そうですか。残念だな。サインをいただきたいと思ったんですがね」

 ぼそりと呟く高梨の言葉が、ぼんやりと霞んで聞こえた。



 土曜日の夕方、いつものようにリンゴのコンポートを作っていると店の外で物音がした。

 ――もしかして、岳人だろうか。

 高鳴る心臓。押さえ込むようにして駅務室の扉をあけると、そこには色鮮やかな岳人の自転車(ロードバイク)ではなく黒いビッグスクーターが停まっていた。そしてその隣にはこの世の中で一番見たくない男の姿。後退りしかけたおれに、男は不敵な笑みを向ける。

 茶色く染めた髪に細身の体つき。十年振りだというのにその外見はほとんど変化していないように見えた。――一度は愛した男。研ぎ澄まされたナイフのようなその美貌は今も健在だ。けれどもその整った顔だちの裏にある凶暴さを知る今、嫌悪感しか湧いてこない。

「ひさしぶりだな、ナオ」

 音もなく歩み寄ると、男はおれの顎に触れた。ぐっと掴まれ唇を近づけられる。

「や、めろ……」

 繰り返し与えられた暴力。そして芸能生命を断たれたあの事件。全身に苦い記憶が蘇る。

「十年振りだってのに随分と可愛げのない挨拶だな。――いいだろう。お前はオレのものだってこと、身体で思い出させてやるよ」

 男の指がおれの顎から滑り落ちるようにして喉仏に食い込む。きつく締め上げられながら駅務室のなかに連れ込まれた。

「なんだ、この甘い匂いは」

 甘いものが苦手な男は、ハチミツの甘い香りに顔をしかめた。

「こんな片田舎でカフェの店主とはいい身分だよな。お客や近所の人らは知ってんのか。お前が元アイドルで、チンポ突っ込まれなくちゃ生きていけないド淫乱な男だってことをよ」

 腹を思い切り蹴られ、崩れ落ちたところを床に押さえ込まれる。頬をぐっと押し潰されるようにして耳朶を噛まれた。

「バラされたくなかったら、大人しくいうとおりにしろ。なあ、覚えてんだろ。コレの味を」

 ハーフパンツをずりおろされ、露わになった尻にズボンを履いたままの彼の股間を押しつけられる。布越しに感じる熱い昂ぶり。潤滑剤もなしに貫かれた時の痛みが生々しく蘇る。

「欲しいんだろ。ほら、いえよ。『入れてください』って昔みたいにケツ振って可愛らしくねだれよ」

「や、めろっ……!」

 振り返り、男の顔面に肘鉄を食らわせかけたそのとき、ひたりと頬に冷たいものを宛がわれた。

「このきれいな顔に傷をつけられたくなかったら、じっとしているんだな」

 すう、とナイフの腹で頬をなぞられる。ゾクリと背筋が震え、身体が動かなくなった。

 背後で男がベルトのバックルを外す音が響く。このまま犯されるのだろうか。――いやだ。二度とこんな男に……抱かれたくなんてない。

 ちいさなナイフでも刺しどころがわるければ死に至ることもあるだろう。いま自分が死んだら、祖母はどうなるのだろうか。

 絶望的な気持ちになったそのとき、勢いよく駅務室の扉が開いた。

「なにしてんだ、貴様ッ!」

 鮮やかなスカイブルーが視界の隅をかすめる。頬に宛がわれたナイフ。恐怖に身体がすくみ、顔を上げることができない。

「なんだ、てめぇ」

 ふいに頬からナイフの冷たさが消える。おれは急いで上体を起こし、必死で叫んだ。

「ダメだ、岳人、こっちに来るな。この男はナイフを持っているッ」

 最後まで告げ終わる前に、岳人はおれたちめがけて全力で突っ込んできた。

 一瞬、なにがおこったのかわからなかった。青い疾風。スカイブルーのジャージが目の前をよぎったことだけはわかった。

 次の瞬間、くぐもった打撃音が響き、男が苦しそうに喘ぐ。カシャンとナイフが床に転がった音に我に返り、おれは慌ててそれを蹴り飛ばし、カウンターの向こうに追いやった。

 目の前では岳人が男に馬乗りになって殴りかかっている。背こそ高いものの細身なその男は、規格外な体格をした岳人に圧し掛かられ、反撃すらできずに殴られ続けている。

「岳人、やめろ、それ以上したら死んじまう」

「だけどコイツ、直哉さんにッ……」

 顔を真っ赤にして岳人は激情のまま男に殴りかかる。おれはその拳を手のひらで受け止め、「頼むからやめろ」と懇願した。

 この男がどうなっても構わない。だけど岳人を犯罪者にするわけにはいかないのだ。

「くそっ……! 次にまたこんなことをしてみろ。今度は息の根止めるまで、殴り続けてやるからなッ」

 岳人に凄まれ、男はよろよろと駅舎を出ていく。岳人は男のバイクが完全に見えなくなるまで駅舎の前で仁王立ちして男を威嚇し続けた。



「直哉さんっ……怪我はねぇかっ」

 岳人に駆け寄られ、おれはあわてて下半身をハーフパンツで隠す。

「――平気だ。なんともない」

 そう答えると、岳人は「よかったぁっ」と今にも泣きだしそうな声で叫び、ぎゅうぎゅうにおれの身体を抱きしめた。

「離せよ、オイ」

 どんなにいっても、岳人はおれを離そうとしない。

「どうしてここに来た。二度と来るなといってあったはずだ」

 その逞しい腕に縋ってしまいたくなるのを堪え、おれは出来るかぎり冷淡な声でいった。

「アンタに会えないとおかしくなりそうなんだ。練習だって身ぃ入らねぇし……なにしててもアンタのことばっか考えちまう。おかげで何度も危うく事故りそうになった」

 集中力が欠如してんだ、といって、岳人は落車のせいで腕や足に出来た痛々しい生傷をおれに見せた。

「もう無理だと思う。アンタと逢えないと夜もまともに眠れないんだ」

 ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、岳人の汗の匂いに包まれる。たった二週間嗅いでいなかっただけで、その匂いはなんだかとても懐かしく感じられた。

「ダメなんだ。アンタがいねぇと。――俺の勝負メシは、直哉さん、アンタ自身だから」

 顎を掴まれ、顔を近づけられる。

「ばか、これじゃさっきの男と変わんないだろ。なに考えてんだッ」

 暴れまわる心臓を押さえ込み、必死で抗う。岳人はちいさく笑って、

「アンタは嫌いな男に抱きしめられて、こんなふうになんのかよ」

 とハーフパンツ越しにおれの股間に触れた。

「ばっ……触んなっ……!」

「あの男に押し倒されてるときには縮こまってキュウってなってたのに、俺の傍にいるときはこんなに大きくなる。――それって、俺のことが好きだからじゃねぇのか」

「か、勝手なこというなっ……」

 必死で収めようとして、けれども生理現象ばかりはどうにもコントロールできない。困惑するおれを抱きかかえると、岳人は駅長室に連れ込もうとした。

「ばかっ、おろせっ……!」

 どんなに抗ったところで、大柄な岳人を引き剥がせるはずもない。汗ばんだサイクルジャージに包まれた逞しい身体。押しのける腕から力が抜けてゆく。

 畳の上に押し倒され、噛みつくようなキスをされる。そのまま貪り喰われてしまうんじゃないかってくらいに荒々しいキスだ。

 岳人はあっという間におれの服を脱がせ、自分も全裸になると、おれの窄まりに己の分身を押し当ててきた。

「ばか。女の子じゃないんだから、そんなので入るわけないだろっ」

 おそらくは異性愛者の岳人。同性間での行為の作法など、なにもわからないのだと思う。

「いいからお前、下になれ」

 岳人の腕を掴み、布団の上に横たわらせる。

「直哉さんが上になってくれんの……?」

 真っ赤に頬を染め、岳人はおれを見上げる。こっちまで赤面してしまいそうで、おれは慌てて目をそらした。

 岳人の身体に覆い被さるようにして、唇を重ね合わせる。キスをしながら潤滑剤のついた手で扱いてやると、彼の鈴口はいやらしい蜜で潤みはじめた。

 とても濡れやすいのだと思う。とろりと溢れ出すそれが、潤滑剤と混ざりあって淫靡な音をたてる。

「ん、そんなにされると……イッちまいそう」

 ちいさく身をよじり、岳人が眉根を寄せる。いつもはキリリと上がっている精悍な眉がすこし下がり気味になって、なんだか愛らしい。

「イけよ。どうせ一度きりじゃ満足できないんだろ」

 囁くと、彼はぶんぶんと首を振って拒んだ。

「いやだ。直哉さんのなかでイキたい」

 猛ったものを擦りつけられ、ぞわりと背筋が震える。からだの表面はゾクゾクするのに、中心部分は今にも蕩けそうに熱い。その熱さに、自分の身体が心底この男を欲しているのだと思い知らされるみたいだ。

 岳人に口づけながら、さりげなく自分のそこをほぐす。もう長いあいだ誰も受け入れていないそこは、すっかり固く閉ざしてしまっている。そのことを悟られないように、しっかりほぐさなくてはいけない。

「ん、直哉さ……っ」

 キスを繰り返すうちに、岳人の呼吸が荒く乱れはじめる。興奮してくれているのだと思う。猛々しいソレが、俺の腹にぐいぐいとあたっている。

「直哉さん、そろそろ……」

 懇願するような声でねだられ、「がっつくなよ」とその鼻を軽く噛む。

「ん、だけど……もう限界なんだよ」

 頬を摺り寄せられ、無性に愛しさがこみあげてきた。

 岳人のそれは、その体格に負けず劣らず逞しい。まだ受け入れ準備が整ったとは思い難いけれど、これ以上待たせるのも酷だろう。

 潤滑剤を足し、ゆるく扱きあげながら自分のそこに導く。ゆっくりと腰を落とすと、「んぁっ……」と彼は切なげな声を漏らした。

「痛い、か?」

「ん、俺はへいき……直哉さんは?」

 心配そうな顔で、頬に触れられる。

 そんなふうに優しく気遣ってもらえることが、なんだかとても新鮮だった。

「おれも、平気だ」

 久々なうえに、こんなにも大きなモノ、いままで一度も呑みこんだことがない。あまり平気とはいい難かったけれど、平静を装って答えた。

 太さも、硬さもハンパない。おまけに火傷してしまいそうなくらいに熱く火照っている。

「んっ……」

 先端を呑みこんだだけなのに不覚にも声が漏れそうになって、慌てて唇を噛みしめる。 

「直哉さん……聞かせて。直哉さんの声、聞きたい」

 唇を噛みしめたままさりげなく目をそらすと、腰を掴むようにして抱きよせられた。

「ぁっ……!」

 堪えきれず、声が溢れた。その瞬間、びゅるり、と熱いものが注ぎ込まれる。ビクン、ビクン、とおれのなかで震えるもの。かぁぁっと岳人の頬が赤く染まってゆく。

「ご、ごめんっ……直哉さん。俺、直哉さんのなかがあまりにも良過ぎて……っ」

 耳まで真っ赤に染めて、岳人は必至で謝り続ける。その姿があまりにも可愛らしくて、おれは堪えきれずに吹き出してしまった。 

「なっ……なに笑ってんだよっ」

「いや。なんかお前、やっぱりいいなぁって思って。――お前といると自然と楽しい気持ちになるよ」

 どうしてそんな言葉が出てきたのかわからない。自分自身の発した言葉に驚き、赤面するおれを、岳人はぎゅっと抱きしめてくれた。

「直哉さん、俺、直哉さんのことが好きだ。直哉さんから見たら、俺なんかまだガキでしかないのかもしれないけど……いつかは必ず直哉さんが惚れてくれるような男になるよ。だから……直哉さんも俺のこと、好きになって」

 岳人の声が、身体に響く。どんな顔して、そんな言葉を吐いているのだろう。なんだか無性に、涙腺が緩んでしまいそうだ。

「わ、ごめん。直哉さん、痛い?」

 心底心配そうな顔で、岳人は俺の顔を覗き込む。まっすぐな瞳に見つめられ、ギュッと胸が苦しくなった。

「ちっとも痛くなんてない。――それに、こんな身体、お前になら壊されたって構わない」

 この男のことが好きだ。ほんの短い間しか、一緒にいられないかもしれない。それでもいい。いま、この瞬間だけでも、全力でこの男を愛していたい。

 彼の背中に手を回し、そっと唇を重ねあわせる。逞しいその身体を抱きよせるようにして、おれは彼の下腹に自分の尻を擦りつけた。

「んっ……直哉さ……ッ」

 すっかりかたちを取り戻した岳人のそれを、ひと息に根元まで呑みこむ。彼はぶるりと身を震わせて、おれを抱く腕に力をこめた。

「んぁッ……すっごく気持ちいい。直哉さんのなか、めちゃくちゃ温かいよ」

 岳人はそういうと、キスをねだるように唇を突き出した。唇を重ね合わせると、がっつくように舌を吸われる。

 ぎこちなくて荒々しいけれど、自分を気遣ってくれているんだってことがわかる。すこしでもおれが痛そうにすると動きを止めて、何度も、「痛くない?」と訊ねてくれる。

 やさしく頬を撫で、額や鼻、頬や瞼、いろいろなところにキスをして、何度も、何度も「好きだ」といってくれる。

 つらかったあの男とのセックスを思い出す。ぶたれて、蹴られて、無理やり突っ込まれ、ただひたすら苦痛だけを与えられ続けた。

『お前が悪いんだよ。――オレだけのもので、いてくれないから』

 当時、おれは事務所の幹部の『お気に入り』で、彼に銘じられるがまま、彼以外の幹部やスポンサー、テレビ局のプロデューサーや雑誌編集者、男も女も、数えきれないくらいに沢山の人間とベッドを共にした。

 同じ事務所の研修生だったあの男は、おれがそんなふうに『慰みもの』になっていることに気づいていた。

 そうしなければ上にはあがれないことは、社長の寵愛を拒み、いつまでたってもデビューすることのできなかった彼自身が、誰よりも身を以て知っていたのだ。

『お前がオレの知らないシャンプーの匂いをさせて帰ってくるたびに、気が狂いそうになるんだ』

 彼を追い詰め、その心を壊してしまったのは誰でもない、おれ自身だ。だからどんなに手酷い目に遭わされても、それは当然の報いだと思っていた。

 写真週刊誌に故意に自分たちのベッド写真を流出させたあのスキャンダルも、おれを業界の負の力から救い出すために仕方なくしたことなのだとあの男はいった。

「直哉さん……?」

 心配そうな顔で岳人がおれの顔を覗き込む。

「なんでも、ない。――なんでもないよ」

 そんなおれの過去を知ったら、岳人はいったいどんなふうに思うだろうか。

 やさしく、けれども確実に追い詰められながら、おれは岳人の逞しい腕のなかで意識を手放した。



 翌朝目覚めると、すでに時計の針が八時を回っていた。

「まずいっ……寝過ごしたっ。――おい、岳人、離せ。店開けないとっ」

 カフェの開店時間は朝八時。気持ちよさそうに寝息をたてる岳人の頬をペチペチと叩く。

「ん……あぁ、直哉さん……おはよ。……昨日は無理させちゃってゴメン。身体、へいき?」

 寝惚けているせいだろうか。いつになく甘い声音でいうと、岳人はおれを抱く腕にギュッと力を籠めた。そしておれの髪に顔を埋めるようにして頬ずりしてくる。

「くぅー……直哉さん、超いい匂いする。あぁ、帰る前にもう一回抱きたい。昨日の続き、しよ」

 かぷ、と耳たぶを甘噛みされ、尻を揉みしだかれる。相変わらず決して上手いとは言い難い愛撫だけれど、触れられるだけで全身が甘く蕩けてしまいそうな優しさに溢れている。

「ば、か……そんなことしてる場合じゃない」

 店を開けなくちゃならないんだ、というと、「ちぇっ」と拗ねたような顔をされた。

 普通にしていれば大人びて見えるのに、そんな表情をすると急に年相応の少年の顔になる。ひとまわりも年下の男に抱かれてしまったのだと思うと、たとえ法には触れないとわかっていても罪悪感を抱かずにはいられない。

「それにしても、なんだか外が騒がしいな。団体客でも来てんのかな」

 寝癖頭の岳人が、のそりと起き上がる。

 いわれてみれば賑やかな蝉の鳴き声に交じって、人々の喧騒がきこえる。

「なんだろう。開店待ちってことはないと思うけど……駅のほうのお客さんかな」

 天窓から差し込む光が、すっかり強い日差しに変わっている。シャツを羽織り、駅長室のカーテンをちらりとめくると、駅舎の前に人だかりができているのが見えた。

「なんだ……?」

 いったいなにがあったというのだろう。急いで身支度を整え、駅務室の扉を開けると、賑やかだった住民たちの声が一瞬途絶えた。そしておれを見て、みな一様に渋い顔をする。

「おはようございます。お店を開けるのが遅くなってしまい申し訳ありません。――あの、皆さんお揃いでどうなさったんですか?」

 不思議に思いながらも笑顔を作ると、住民のひとりが苦々しい声でいった。

「アンタ……駅長室に高校生を連れ込んで、よからぬことをしているって本当かい?」

「なんのことですか。高校生を連れ込むって……」 

 無言でなにかを指さし、住民は不快げに眉をしかめる。彼の指し示すほうに目をやると、そこには真っ裸で岳人と抱き合う自分の姿があった。

「こ、これは……っ」

 大写しにされた行為写真。ポスターのように大きく引き延ばされたそこには、岳人とおれの顔がハッキリとわかるように映っている。まぐわう二人のそばには、スカイブルーのサイクルジャージ。その写真の隣には、ご丁寧に二人の素性や経歴まで添えられている。

「この子、このあいだのテレビ番組に出ていた子だよねぇ」

 なにかいわなくちゃいけない。これはタチのわるいコラージュだ、とか。似ているだけで別人だ、とか。とにかくこういうときは、絶対に認めてはいけないのだ。

「あ、あの、これはですね……」

 必死で言葉を探しかけたそのとき、駅長室の窓が開き、岳人が顔をのぞかせた。上半身裸でハーフパンツだけを履いた姿。その姿に住人たちからどよめきが起こる。

 状況をまったく把握していない岳人は、「おはようございまーすっ」と大きく手を振り、その場に不釣り合いな笑顔を振りまいた。



 病院の正門付近を、スマホを手にした女性たちが取り囲んでいる。

 あれから一週間。彼女たちに混じって一眼レフを手にした週刊誌の記者の姿もある。

 駅舎の前のビラからはじまった騒動はまたたくまに拡散し、かつてのファンたちがこぞってこの町にやってくるようになった。

 駅務室は常にたくさんの人たちに取り囲まれ、近寄ることすらできない状態だ。

「すみません。病院のみなさんにまでご迷惑をおかけしてしまって……」

「頭を上げてくださいよ、直哉さん。あなたが謝ることではありません」

 ぐったりと肩を落とすおれに、高梨は穏やかな声音でいう。

 困り果てたおれに手を差し伸べてくれたのは、祖母の主治医である彼だった。今は彼の部屋に居候させてもらい、そこから祖母の病院に通っている。

 駅ナカカフェは閉店状態だ。鉄道会社から正式に解任されるのも時間の問題だろう。

「こんな状態では、さつきさんもゆっくり静養することができないでしょう」

 高梨はそういって、麓の町にある別の病院を紹介してくれた。彼の先輩が勤務する病院なのだそうだ。

「ありがとうございます。助かります。本当に、なにからなにまですみません」

「お気になさらず。患者さんとそのご家族が安心して治療に専念できる環境をご提案することも医師の大切な仕事のひとつですからね」

 やんわりと微笑む高梨を見あげ、祖母は寂しそうな顔でため息を吐く。

「高梨先生と逢えなくなるんじゃ、張り合いがなくなるわねぇ」

「その病院、私の家からとっても近いんです。これからも時折、寄らせてもらいますよ」

 さつきさんの好きなガーベラの花を持っていきますよ、と囁かれ、祖母は幸せそうに微笑んでいる。

 高梨は彼女を大部屋から個室に移し、マスコミの目や心ない噂話から守ってくれている。

 プライバシーの守られた個室。祖母はぐるりと室内を見渡し、何度押しても作動しないリモコンを握りしめた。

「それにしても、この部屋のテレビはいつになったら直るのかねぇ」

「ごめんなさい。修理するよう事務局にお願いしているのですが、すこし時間がかかるようなんですよ」

 醜聞を祖母の耳に入れないよう、配慮してくれているのだと思う。どこまでも親身になってくれる高梨に、おれは心底申し訳ない気持ちになった。



 高梨の家での暮らしにも、すこしずつ慣れはじめてきた。自分に向けられる彼の視線に、気づいていないわけではない。

 彼のことだから、いまこの状況でおれを口説けば、恩義を感じて受け入れざるを得ないと思慮してくれているのだろう。あえてそれらしい話題は出さず、おれたちが平穏な日常を過ごせるよう、最大限協力してくれている。

「やっぱり直哉さんの作るご飯はおいしいですね。遠慮せず、いつまでだっていてくださって構いませんからね」

 にっこりと微笑む高梨と食卓を囲みながらも、ポケットのなかのスマホが気になって仕方がない。

 あれ以来、岳人からは一度もメッセージやメールが送られてこない。

 元芸能人による未成年者への淫行疑惑。本来なら大したニュースになるような事件ではないが、あの男は今回の件に絡め、昔、おれに手を出していた芸能事務所の幹部の実名を公表し、事務所内で日常的に未成年者への性行為強要が行われていることを暴露した。

 少年期に性的被害に遭っていた人間は大人になった後、今度は自分が加害者となって未成年者を搾取するのだと、もっともらしい論調で騒ぎたてている。

 当時、彼自身も社長から執拗に誘われ続けており、断ると冷遇されるようになったという打ち明け話や、現役のどのメンバーが社長の夜のお相手をつとめ、誰が幹部の愛人だったか、などを赤裸々に語り、週刊誌やワイドショーを賑わせている。

 おそらく被害者である岳人の元にも取材陣が押しかけているのだろう。

 ああ見えてデリケートな男だ。学生生活に支障をきたしてはいないだろうか。練習中に落車して怪我をしたりしてはいないだろうか。

 ――そもそも岳人は無事大会に出場させてもらえるのだろうか。

 チームスポーツにおける性指向はセンシティブな問題だ。シャワールームやロッカールーム、場合によっては寝床を共にしなくてはならないチームメイトのなかに同性愛者がいることに、拒絶反応を起こす人間もすくなくないだろう。

 米国ではNBAやNFLの選手が同性愛者であることをカミングアウトして話題になっていたが、逆にいえばニュースに取り上げられるくらいそれはとても大きなことなのだ。

「直哉さん……?」

「え、あ。――すみません。ええと……」

 慌てて顔をあげ、高梨との会話を思い出す。なんの話をしていただろうか。必死で思い出そうとして、けれども頭のなかから岳人のことが離れてくれそうにない。

「彼のことが気になりますか」

 じっと見つめられ、さりげなく目をそらす。

「いえ、ここのところすこし寝不足で……ごめんなさい。きょうは早めに休ませてもらいますね」

 立ち上がろうとして腕を掴まれる。引き寄せられ、すぐ近くに高梨の顔があった。

 なにかをいいたそうに口を開きかけ、けれども彼はなにもいわなかった。おれから手を離し、「ゆっくり休んでくださいね」と、いつもの笑顔を向けてくれる。

 申し訳ない気持ちになりながら、おれはテーブルの上の食器を流しに運んだ。



 土曜の夜、高梨は所用で不在だった。おれは居候させてもらっているせめてものお礼に、彼の部屋を掃除することにした。

 きれい好きな男なのだと思う。目につく場所はどこも整然と片付いている。

 窓ガラスやソファの下、テレビ回りなど、普段は手が回りそうにない場所を中心に念入りに雑巾がけをしてゆく。

 テレビ台を磨いているとき、ふと壁にかけられたカレンダーが目に留まった。

「いよいよ明日がレース本番か」

 結局、あれ以来一度も岳人とは連絡が取れていない。無事にレースに出場できるのだろうか。全日本選手権の公式サイトや彼の所属チームのサイトを見てみたけれど、それらしい情報はなにも記されていない。

「あいつの名前で検索したら……なにか出てくるかな」

 スマホのブラウザに彼の名前とチーム名を入力してみる。すると検索結果の一番上に、彼のブログが現れた。

 本人ではなく彼のファンが管理しているもののようだ。ヘッダーの下に、『【拡散希望】小橋岳人からの大切なおしらせ』と書かれた動画が置かれている。掲載日は例のスキャンダルが週刊誌にすっぱ抜かれた直後。おれは不安になりながら、その動画を再生した。

 スマートフォンのちいさな画面に、あの男の姿がうつしだされる。カメラを前に緊張しているのだろう。しきりに鼻の下を擦ったり瞬きをしたりしている。スカイブルーのサイクルジャージ。たった二週間逢っていないだけなのに懐かしさに胸が張り裂けそうになる。

『いつも応援ありがとうございますっ。FORZA(フォルツァ)U23所属、小橋岳人です。きょうは皆さんにお伝えしたいことがあってこの動画を撮影しています』

 おれの前で見せていたのとは違う、すこしかしこまった表情。彼は画面に向かって、各方面から今回の日本選手権出場を辞退してはどうか、と勧められたことを告白した。

『監督と話し合った結果、自分は予定通り出場することに決めました。――今回のレースはご存じの通り、来年度の特別強化選手の選考会を兼ねています。助言に背いて出場しても……強化選手にはなれないかもしれない。それでもいい。俺はそれでも今年の日本選手権に出て、優勝したいと思っています。どうか応援、よろしくお願いします!』

 岳人は噛みしめるようにそういうと、カメラの向こう側の誰かに目配せした。

『そして、もうひとつみなさんにお伝えしたいことがあります。一部のメディアやネットで騒がれている、淫行疑惑の件です。淫行の証拠として週刊誌やネットに出回っている写真。あの写真が撮影されたのは、俺の十八歳の誕生日の三週間後です。一緒に写真に映っている彼はメチャメチャ真面目なひとで……俺が高校生だと知ると、彼に会いに行くことすら許してくれませんでした。そのいいつけを破って、あの夜、彼の家に押しかけて……俺は半ば無理矢理に近い形で彼を抱きました。警察の方にもお話しましたが、あれは決して淫行の証拠なんかじゃありません』

「ば、馬鹿……なにを認めてるんだ。こういうときはシラを切りとおせばいいんだ。お前は顔にモザイクだって入ってるんだし……ネットの雑言なんか無視すりゃいいんだよッ」

 ゲイAV出演疑惑で話題になった某球団のルーキーも『事実無根です』と全否定して乗り切っていた。こういうスキャンダルはそうやってスルーしてしまうのが一番なのだ。

『お願いします。俺のことはどんな書き方をしてもらっても構いません。ですが、あのひとを犯罪者呼ばわりするようなことだけは絶対にやめてください』

 深々と頭を下げた後、彼はニッコリと笑い、

『日本選手権、絶対に勝ってジュニア二冠、達成します。ぜひ応援に来てください!』

 と締めくくった。

「岳人……」

 いてもたってもいられず、岳人のスマホに電話をかける。けれどもどんなにかけても、電話はつながらなかった。

「なにか、アイツの力になれること……」

 部屋のなかを見回し、キッチンの戸棚に目を留める。レース開始は明日の十一時。会場は伊豆だから早朝に出ればなんとか辿りつける。

 会えるかどうかわからない。渡すことなんかできないかもしれない。それでもいい。岳人のために何かしてやりたい。

 高梨が朝食用に常備しているミューズリーとドライフルーツを拝借し、バナナと小麦粉をつなぎにしてオーブントースターで焼く。焼きあがったバーに蜂蜜ペーストを塗り、シナモンを振って手作りの補給食(エナジーバー)を作った。あの男が食べたがっていたアップルパイ。味や食感はまったく別物だが、香り的には似た感じの仕上がりだ。

 出来上がりを試食していると、高梨が帰ってきた。ダイニングテーブルの上を見て彼は目を丸くする。

「手作りの補給食……。これ、岳人くんのために焼いたんですか」

 尋ねられ、おれはちいさく頷いた。

「あいつ、おれのためにあの画像にうつってるのは自分だって認めたんです。『あの写真は十八歳になった後に撮られたものだから、淫行の証拠なんかじゃない』って。シラを切りとおせば、自分にまで火の粉、飛んでこないのに……」

 涙が溢れてきた。こみあげてくる想いに、うまく言葉が出てこなくなる。

「お気持ちはわかりますが、いまあなたが会いに行けば騒ぎを拡散するだけですよ。週刊誌もワイドショーも、連日その話題で持ちきりだ。当事者であるあなたのインタビューを得たくて、病院の周囲も大変なことになっているでしょう。もしかしたらあなたが来ることを見越して、大会会場に記者がいるかもしれない」

「わかってる。わかってるけど……っ」

『俺の勝負メシは直哉さんなんだ』ってあいつはそういって笑っていた。もし、いまでも自分のことを好いてくれているなら会場まで駆けつけて、すこしでも彼を応援してやりたい。

「これを渡すだけでいいんです。渡して、一言応援の言葉を伝えるだけで……っ」

「――わかりました。そのかわり、そのままの姿で行くのは絶対にやめてください。いちファンとして、心ない報道にこれ以上あなたを穢されるのは耐えられません」

 高梨はそういうと、サンタクロースが持っているような大きな白い布袋を掲げて見せた。

「さっきから気になってたんですけど、それ、なにが入っているんですか?」

「ウサギの着ぐるみです」

「どうしてそんなもの……」

「きょうは以前の勤務先で夏祭りがあって、そのお手伝いに行ってきたんですよ」

 長期入院のこどもたちが多い病院。夏休みを外で過ごすことのできない彼らのために、院内で盆踊りや夜店をするのだという。

「それで髪の毛がペシャンコなんですね」

 いつもきれいにセットしている高梨にしては珍しい。不格好な癖のついた髪を照れくさそうに押さえ、彼は微笑んだ。

「そうと決まったら、はやく寝てください。明日の大会、会場は伊豆ですよね?」

「あ、はい。新幹線を使えば……」

「馬鹿なこといわないでください。そんな大荷物を抱えて、どうやって伊豆まで行くっていうんですか」

「え? あの、どうして僕がこれを……?」

「着ぐるみを着ていれば、あなたの正体がバレることはありません。それ、着てしまうと一人じゃ階段のぼったりできませんから。引率係として私もご一緒します」

 高梨はそういうと、袋から着ぐるみを取り出し、消臭スプレーを吹きつけはじめた。

「あ、あの……高梨先生……?」

 いったいどこまでいい人なのだろう。こんなにもよくしてもらいながらも彼の気持ちに応えられない自分を、おれは無性に申し訳なく思った。



 八月の最終土曜日。うだるような暑さの中、着ぐるみに入るのは自殺行為だ。伊豆の山間にある大会会場。平地より幾分涼しいとはいえ、あまりの暑さに意識が遠のきそうになる。

 ひょこひょこと不器用に歩きながら、園内を進む。視界が狭くひとりではうまく歩くことができないから、高梨が手を引いてくれた。

「こっちです。選手はそれぞれチームのテントに詰めているんですよ」

 開会式前のレース会場。それぞれのブースにチームの旗を掲げ、アップやミーティングに勤しんでいる。高梨はそのなかからひときわ大きなスカイブルーの集団を探し出し、歩み寄った。

「小橋選手!」

 高梨が声をかけると、ストレッチをしていた岳人が顔をあげる。

「オッサンは、確か直哉さんの店にいた……」

 日曜の朝、モーニングを食べに来た高梨と彼が鉢合わせしたことが幾度かあった。

「こら、オッサンは失礼だろ、岳人」

 窘めると、突然飛びつかれた。

「わ、ばか、こら、やめろッ!」

 抱きすくめられ、そのままビニールシートの上に押し倒される。

「こら、岳、貴様はなにをやっとる!」

 聞き覚えのある怒声が響き渡り、振り返るとそこにはガッシリとした大男が仁王立ちしていた。真っ黒に日に焼けた精悍な顔立ち。ほんの少しだけ岳人と似ている。彼のオヤジさんだろうか。

「うるせぇよ。勝つためのパワー貰ってんだ」

「馬鹿抜かせ。――お前さんたちは?」

 おれではなく高梨に、彼は尋ねる。

「元LUXIA(ラクシア)の早野 潤(はやの じゅん)こと、高橋直哉と申します。先日は息子さんに多大なご迷惑をおかけしまして、まことに申し訳ありません」

 着ぐるみのまま頭を下げると、「謝ってもらったところで、今更、騒ぎを収めることはできん」と、険しい顔をされた。

「だからいってんだろ、このひとは悪くねぇんだ。悪いのは……いってぇッ!」

 岳人の頭に思い切り鉄槌が飛ぶ。

「ウダウダいってねぇでさっさとアップしろッ。それからチーム内では敬語を使えといっとるだろう。何度いえばわかる、この馬鹿息子!」

 思い切り尻を蹴り飛ばされ、岳人は「へいへい」とふて腐れた顔で立ち上がる。

「ごめん、直哉さん。あとで必ず日の丸しょったチャンピオンジャージ着て会いに行くから」

 ニッと笑う岳人に、持参したエナジーバーを手渡す。

「これ、直哉さんが作ってくれたの?」

「ああ、優勝したら、パイ食うんだろ。どれだけだって焼いてやるから、絶対に勝ってこい」

 嬉しそうに顔を綻ばせ、両手を開げておれを抱きしめようとした瞬間、岳人は首根っこを掴まれオヤジさんに引きずられていった。

「私たちも行きましょう。観戦場所を確保しないと」

 高梨に連れられ、おれは観戦スタンドに移動した。

 十二・六キロの周回コースを十周しフィニッシュラインまでの直線を駆け抜ける走行距離百二十六・四キロのロードレース。サイクルスポーツセンター内に常設されたサーキットコースをメインに作られたこのコースは、平坦な箇所が極端に少なく、アップダウンと細かなコーナーが連続するハードなコースだ。

「岳人、だから毎週、ウチの駅に来てたんだ」

「ええ、彼のような重量級スプリンターにとって一番苦しい戦場ですよ。苦手な登りを克服するために山籠もりしていたんでしょうね」

 ひたすら続く険しいアップダウン。選手泣かせのこのコースは、序盤から集団がばらけやすいことで有名なのだという。

「大丈夫かな、岳人……」

 高梨が用意してくれたオペラグラスで、スタートラインにずらりと並ぶ選手たちの姿を眺める。総勢九十四名の少年たちが密集するなか、周囲より頭ひとつぶん大きな岳人は、とても目立って見える。号砲と共にスパートをかけた彼の姿が、あっという間にスタジアムのホームストレートを駆け抜け、消えてゆく。

「ここから先は一気に下るんです。橋を渡ったら、最初の登りが待ち構えているんですよ」

 高梨はコースマップを手に、そう説明してくれた。 

 スタンドから見えるのは、スタジアム内に設置されたごく一部のコースのみだ。音声による実況はあるものの、箱根駅伝のようにテレビで生中継されるわけではなく、大型ビジョンに各エリアでの戦況がうつしだされるわけでもない。

 いても立ってもいられず、岳人を追いかけたい気持ちになるおれに、高梨は「ここで見守るのが一番ですよ」と教えてくれた。

 観客スタンドの真正面を突っ切るホームストレート。それは選手たちにとって一番気合の入る場所なのだという。

「あなたが見ていることは、きっと彼に伝わります。だからここで声援を送ってあげましょう」

 高梨に諭され、祈るような気持ちで岳人の帰還を待つ。一周目、岳人は先頭集団のトップで帰ってきた。

「足を残しているんでしょうね。まだ余裕がありそうだ」

 スタート時、ひと固まりだった集団は大きくばらけ、トップ集団は五人のトレインを形成している。三度目に帰ってきたときにはさらに三人に減り、七周目にはとうとう岳人ともうひとりだけになった。

「ああ、やっぱり彼が残りましたか。――物凄く山岳に強い生粋のクライマーなんですよ。あの年代の中ではダントツでしょうね」

 体型維持のためにロードバイクを購入して以降、高梨はロードレース観戦を趣味にしているようだ。十七、八歳の少年たちを集めたジュニアカテゴリ。岳人を追うオレンジ色のジャージの選手は、高校生ではなくプロチームに所属する有望な若手選手なのだという。

「岳人、頑張れっ……!」

 スタンド席からどんなに大きな声を出したって、きっと高速で移動する岳人の耳には届かない。それでもおれは声のかぎりに叫ばずにはいられなかった。

 彼がいちばん苦しい思いをするであろう登り坂で声援を送れないことがもどかしい。着ぐるみ越しに覗いたオペラグラスのなか、スカイブルーの背中が心なしか苦しそうに見える。

 どんなに苦しくても虚勢を張って、きっと岳人はホームストレート上を疾走しつづける。約束したのだ。日の丸の入ったチャンピオンジャージを着て見せると。

 観客に見えない部分では、脚を残すために先頭交代をしながら走っているであろう彼も、ホームストレートでは、まるでその雄姿を見せつけるように、かならず先頭を走っていた。

 それなのに九度目の帰還、彼は二番手で戻ってきた。おまけに車体二つぶんもオレンジ色の彼、大崎に差をつけられている。

「岳人ッ!」

 なにがあったのだろう。見えないところで、苦しい戦いを強いられているのだろうか。

「ああ、落車ですね。酷いな……登りで遅れる分、取り戻そうと下りで突っ込んだのかもしれない。サイクルジャージが破れているし、脚は血だらけですよ」

 オペラグラスを手に、高梨が心配そうな声をあげる。

「落車?! 大丈夫なのかっ」

「どうでしょう。あと一周、なんとか持ちこたえてくれるといいのですが……」

 神に祈りをささげるように両手を組み、高梨はいう。

「岳人……頑張れ、岳人ッ!」

 目の前を通り過ぎていくその青い背中に、ただ声のかぎり、声援を送り続ける。

 そんなことしかできない自分を、たまらなく無力に思った。もっと、なにかしてあげたかった。岳人のために。彼の夢のために。

 離ればなれになってしまってもいい。彼に、夢をかなえてもらいたい。

 たちあがり、必死になって叫ぶ。

「がんばれ、岳人ッ! 負けんなよっ、約束、守んなきゃダメだっ」

 勝ったらなんだって作ってやる。パイだって、なんだって。お前の好きなもの、全部作ってやる。おれの身体だって、お前が欲しいっていうのなら、どれだけだって与えてやる。日本にいる間、毎晩シたっていい。――だから、どうか神様、岳人を勝たせてください。

 気づけば駆け出していた。スタンドのなかを、転げ落ちそうになりながら必死で走る。スタジアムの外へと続くカーブ。スカイブルーのジャージを追って、おれはスタンドの端から身を乗り出すようにして叫び続けた。

 

 最終ストレート、岳人は二番手で戻ってきた。落車の影響だろうか。大崎との差は、先刻以上に開いてしまっている。おれはオペラグラスをかなぐり捨て、必死になって叫んだ。

「岳人、行けっ! ラストスパートだっ」

 肉眼では米粒大にしか見えなかった青色とオレンジ色が、一気に近づいてくる。そしておれの目の前を横切ったそのとき、二人の差はほとんどなくなっていた。

 フィニッシュラインに向けて、風を切って突き進む。肉眼でもはっきりわかるほどの大差をつけて先着したのは、スカイブルーのジャージを身にまとった岳人だった。

「やったーーーーッ!」

 思わず飛び上がってしまい、着ぐるみの頭が吹っ飛びそうになる。高梨が支えてくれたおかげで、なんとか窮地を免れた。

 今すぐ駆けつけたかったけれど、そういうわけにもいかないようだ。岳人は監督である父親や、同じ色のサイクルジャージを纏った選手たちに取り囲まれている。

 表彰式終了後、お祝いの言葉をかけることもできないまま、彼は父親に連れ帰られてしまった。



「私たちも帰りますか」

 すっかりひと気のなくなったスタンド。高梨に促されて席を立つ。

 ようやく着ぐるみから解放され、高梨の運転する車で帰路につく。彼は夕飯に誘ってくれたけれど、おれはすっかり暑さにやられてしまい、辞退させてもらうことにした。

「じゃあ、ウチに帰って早めに休みますか」

「すみません、駅舎に用事があるんです。どこか途中の駅で降ろしてもらってもいいですか」

「私も一緒に行きますよ。そんな身体で電車に乗るなんて危険です」

 顔がぽーっと火照ったまま、少しもおさまらない。もしかしたら熱があるかもしれない。

「いえ、大丈夫です。電車で帰ります」

 高梨の優しさが、いまはただ申し訳なく感じられた。こんなにも優しくしてくれるのに、それでもあの男に惹かれずにはいられない自分がイヤになる。

 ほんのわずかな時間を、一緒に過ごしただけ。だというのに、この先、あの男のことを忘れられる自信がすこしもない。

「お願いですから、送らせてください。あなたの身になにかあっては、さつきさんに顔向けできません」

 高梨はそういって、おれを駅舎まで送ってくれた。



 駅務室に入り、冷たい水で顔を洗う。しばらく締め切っていたせいで、室内はムッとした空気に包まれている。

 二十時過ぎ。幸いなことに、おっかけと思しき女性たちも記者の姿もない。

 開け放った窓から、ほんのすこしだけ秋の気配を感じさせる風が舞い込んでくる。

「アップルパイ、焼くか」

 もうあの男に逢うことはないのだと思う。それでも、約束のパイを焼いてやりたかった。食べさせてやることができないとわかっていても、焼かずにはいられない。

 リンゴをむき、まずはコンポートを作る。久しぶりに嗅ぐ甘酸っぱいリンゴの香りに、ギュッと胸が締めつけられた。

「一度くらい、食べさせてやりたかったな」

 あんなことがなければ、今夜、彼の勝利をこの駅舎で祝ってやることができただろうか。

 パイが焼けるころには、すっかり蝉の啼き声もやんでいた。気の早い秋の虫がせつなげな声で啼いている。

 焼きあがったパイにハチミツシロップを塗り、シナモンを振り終えたそのとき、ガラリと駅務室の扉が開いた。

「直哉さんっ!」

 一目散に駆け寄り、体当たりするようにしておれを抱きしめる青い塊。埃と汗と、湿布薬の匂いに包まれる。

「お前、どうしてこんなとこにっ……」

 親父さんに連れられ、地元に帰ったのではなかったのだろうか。

「途中のサービスエリアで逃走して、自転車(バイク)でここまで来たんだ」

「ば、馬鹿か、お前はっ!」

 全力を出し切ったレースの後。おまけに落車をして怪我もしているのに。そんなボロボロの身体で、ここまで来たというのだろうか。

「勝ったらパイ焼いてくれるって約束したよな。それ、俺のために焼いたヤツだろ?」

 こんな時間に客なんか来ないもんなぁ、と岳人は笑う。その笑顔に、涙腺が緩んでしまいそうになった。

「いっただっきまーす!」

 ひと口頬張り、岳人は「うまい! うまい!」と大騒ぎする。二段のオーブンで焼き終えたすべてのパイを彼は一人で平らげてしまった。

「――フランス、行けることになったのか」

 そう尋ねると、ハチミツのついた指を舐めながら岳人が顔をあげる。

「まだわかんない。けど、もし今回の選考に漏れても、俺は諦めねぇから。日本の頂点にのぼりつめて、そっから世界を目指す。何年かかっても、いつか世界のてっぺんとってマイヨ・ジョーヌを着るんだ」

 マイヨ・ジョーヌというのは世界最高峰のロードレース『ツールドフランス』で個人成績一位の選手に与えられるリーダージャージのことだ。ヒマワリのように目の覚めるような鮮やかな黄色をしている。

「んで、表彰台の上から直哉さんにプロポーズするから。世界中のみんなに祝福してもらおうぜ」

 岳人はそういって、カウンター越しに唇を突き出してきた。身を乗り出すようにしてそっと唇を重ね合わせると、彼の唇は甘酸っぱいリンゴとハチミツの味がした。

 ちいさなキスを繰り返すうち、膝から力が抜けて、その場に頽れてしまいそうになる。

「直哉さんの部屋、行こ」

 囁かれ、おれは電話を顎で指した。

「その前に、親父さんに連絡しろ。勝手なことしてごめんなさい、ってちゃんと謝れ」

 ふて腐れた顔をされるかと思ったけれど、岳人は素直に受話器を手に取った。

「――俺のこと、心配してくれてありがとう」

 真顔でそんなふうにいわれ、照れ臭くなる。

 通話を終えた後、おれたちはなだれ込むようにして駅長室の畳の上に転がった。せわしなく布団を敷き、互いの衣服をはぎ取って素っ裸で抱きしめあう。

「天窓、塞がないと」

 天井にしつらえられた小窓を指さすと、岳人は、「覗きたい奴には覗かせとけばいいよ」といった。

「もし万が一、あの男がまた直哉さんを傷つけるようなことをしたら、今度こそ絶対にただじゃおかねぇから」

 いつになく真剣な口調でいうと、岳人はおれの頬を大きな手のひらでそっと包み込んだ。

「――記事、見たんだろ」

「ん、それなりには」

 一番知られたくない相手に、醜い自分の過去をさらしてしまった。

「幻滅しただろ。あの男がキレるのも無理もない。おれは仕事のために自分の身体を……」

 最後までいい終るまえに、唇を塞がれた。はじめてのときより、ほんのすこしだけ上手になったキス。相変わらずぎこちないけれど、包み込んでくれるみたいにやさしいキスだ。

「アンタの過去がどうであろうが、俺には関係ない。俺が好きなのは、高橋直哉さん、いま俺の目の前にいる、アンタなんだ」

 ぎゅっと抱きしめられ、頬ずりをされる。岳人はクンクンと俺の首筋に鼻をこすりつけると、「いつも以上にいい匂いがする!」と歓声をあげた。

「ば、ばか。汗かいてるから……ダメだって」

 炎天下のなか、一日じゅう着ぐるみの中に入っていたのだ。いい匂いなんかするはずがない。それなのに岳人はおれの身体を布団に押さえこむようにして、すりすりと鼻を擦りつけてくる。

「直哉さん、すき。俺、アンタのことが死ぬほど好きだ」

 何度も名前を呼ばれ、好きだと囁かれながら口づけられる。熱く火照った彼の舌は蕩けそうに気持ちよくて、目を開けていることすらできなくなった。

 ぐったりと脱力したおれの身体を、岳人は丹念に愛し続ける。唇や指で触れられるたびに甘い痺れに意識が遠のいてゆく。

 セックスのとき、こんなに心地よい気持ちになったのなんてきっと生まれて初めてだと思う。自分も岳人を気持ちよくしてあげたい。そう思うのに、身体にまったく力が入らない。

 何度キスを交わしても足りないみたいに、岳人はただひたすらおれの唇を貪り続ける。口づけながら、髪や頬、肩や腕を撫でてくれる。その手のひらの動きまでもが、自分を好きだといってくれているみたいで堪らなく嬉しい。

「直哉、さん……?」

 心配そうな瞳で覗き込まれる。おれは瞼を閉じて、岳人の頬に自分の頬を摺り寄せた。

「なんでもない。ゴメン……おれみたいなので、ほんとうに、ゴメン」

 こんなにもまっさらな男に愛され、大切にされる資格なんて自分にはない。おれと交わることで岳人まで穢してしまいそうで、なんだか辛かった。

「なんで謝るんだよ。過去がどうであれ、ンなもん関係ない。きょうから先の直哉さんは、ぜんぶ俺だけのモンだから。この先、アンタを傷つけようとするやつがいたら、俺が全力で排除する。誰にも、指一本触れさせない。だから直哉さんはもうなにも心配しなくていいんだ」

 いつになく真剣な口調でいわれ、どんな反応をしていいのかわからなくなる。

「――フランス、行っちまうくせに」

 照れくさまぎれに呟いた言葉。岳人は大きな手のひらでおれの頬を包み込み、じっとおれの目を覗き込んできた。

「すこし離れたくらいで、直哉さんの気持ちは冷めちまうのか? フランスに行っても、二度と帰ってこれなくなるわけじゃない。俺は、なにがあってもずっと直哉さんが好きだ。直哉さん以外なんか、絶対に好きにならない」

 ガキの戯言だって思う。そんな言葉、簡単に信じることなんて出来るわけがないけれど、それでもそんなふうにこの男の記憶の片隅に、自分が残るのも悪くないな、と思う。

 いつか、この男が世界の大舞台にたち、夢見たとおりにあの黄色いジャージを着たとき、ほんのわずかでも彼の記憶のなかに、残っていたらいいと思う。この駅舎で過ごした短い日々や、駅務室を満たすリンゴやハチミツの香り。そんな記憶と共に、自分と肌を重ねたことを、覚えてくれていたらいい。

「岳人……」

 すっかり日に焼けて火照ったその頬に触れる。厳つい身体つきのわりにツルンとしたその顔には、まだ髭もごくわずかしか生えない。

「おれも、お前が好きだ」

 すこし、声が震えた。こんなふうに誰かに愛を囁くのは、人生において初めてのことだ。おそらく今後も、二度とないと思う。声だけじゃなくて指先まで震えて、だけど震える声で、おれは続けた。

「あいしてる。――お前と過ごせて、ほんとうに楽しかった」

 堪えきれず、涙が溢れた。岳人の野太い指が、ぎこちなくおれの頬を拭う。落涙しながら、震える手でその大きな背中に抱き縋ると、骨が軋むほどキツく抱きしめかえされた。

 いいたいことは、他にもたくさんあった。だけど言葉なんかじゃ、伝わらないと思った。自分から唇を重ね合わせて、岳人の熱を求める。

 岳人はおれの望みに応えるように、やわらかな舌で口内に割り入り、絡め取った舌をきつく吸い上げてくれた。

 彼の熱が猛っているのがわかる。下腹に当たるそれを、おれは自分の窄まりに導いた。

「ぬるぬるするのは?」

 あれがないと痛いということを理解してくれているのだと思う。潤滑剤を手渡すと、岳人は丹念にそれを塗ってくれた。

「直哉さん、お願いがあるんだけど……」

 じっと見つめられ、さりげなく視線をそらす。この男の視線はあまりにも真っ直ぐすぎて、おれには眩すぎるのだ。

「なんだよ」

 照れくさくて、どうしても口調がおざなりになってしまう。だけど、どんなに冷たくあしらっても、岳人は瞳をキラキラさせておれを見つめてくれる。

「俺、全然経験ないし、たぶん凄くヘタだけど……できればきょうは俺がリードしたい」

 あまりにも可愛らしい申し出に、くらぁっと立ちくらみを起こしそうになる。おれは出来るだけ面倒くさそうな顔をつくって、「好きにしろよ」と答えてやった。

「やったっ!」

 嬉しそうに両手を広げ、岳人が覆い被さってくる。そのままの勢いで布団に押し倒され、ぶちゅっと頬に盛大なキスをされた。

 大きな犬に圧し掛かられているみたいな気分だ。ほっぺたを舐められ、首筋を舐られ、そのまま鎖骨や胸までついばまれてしまう。

「こ、こらっ……岳人っ……んっ……!」

 こらえきれずに声を漏らしたおれを、岳人は嬉しそうな顔で見つめる。

「直哉さん、ここ、気持ちいいの?」

 上目づかいに見つめられながら、ちゅぱっと音をたてて胸の突端を吸い上げられる。

「べ、べつにそんなとこ……っ」

 顔をそむけて平気なふりをすると、「へぇ」とからかうような顔で股間に触れられた。

「そのわりに、ほら……直哉さんのここ、こんなにグチョグチョになってる」

「や、やめっ……触んな……ぁっ……」

 丹念に乳首をしゃぶられながら、濡れた鈴口をこねくり回される。シーツを掴んで声を押し殺そうとすると、「ちゃんと聞かせてくれよ」とその手を引き寄せられた。

「直哉さん、俺のも触って」

 導かれるまま、岳人のそこに触れる。猛ったそこはいまにもはち切れんばかりにそそり立ち、蕩けそうに熱い蜜を溢れさせている。

「挿れたいんだろ。好きにしろよ」

「ん、できることなら今すぐ挿れたいけど……あんまがっついて嫌われたくない」

 岳人はそういうと、再び俺の胸を舐りはじめた。

 決して上手いとは言い難い、舌使い。けれどもそのぎこちなさが、なんだか逆に心地いい。

「ぁ……ぅ……んっ……」

 堪えきれず溢れ出した吐息。「感じてくれてるんだ」と、無邪気な顔で岳人は笑う。

「ちがっ…く、すぐったいだけで…ぁっ……」

 ヒクンと身体が跳ねあがり、つま先でシーツを蹴るようにして、おれは必死で快楽に耐えた。

「あぁ、どうしよう。直哉さん、めちゃくちゃきれい。――全部、キスしたい。直哉さんの全部を食べちまいたい」

 岳人の唇が、胸から脇腹へと滑り落ちてゆく。腰骨の辺りを舐られ、思わず声が漏れた。

「ここも弱いの? 直哉さんの身体、感じるところだらけだ」

「ち、ちがっ……だから、ちがうって……んっ」

 膝を割るようにして股を開かされ、露わになった内腿に口づけられる。

「ば、か、そんなとこ……っ」

 どんなに抗っても岳人はやめてくれない。温かな舌で丹念にたどられるうちに、すっかり呼吸は乱れ、気づけば無我夢中で彼の腕に縋っていた。

「やめ、それ以上したら……ん、あぁっ……!」

 ただ、脚の付け根をしゃぶられただけ。だというのに全身に堪えきれない戦慄が走って、気づけば絶叫していた。

「ぁ……ぁ、や……っ」

 やめろ、と静止の言葉を口にすることすらできず、意識を手放しそうになる。必死でこらえたけれど……どうにもできなかった。

「直哉さん……?」

 不思議そうな顔で、岳人がおれを見つめる。おれはいたたまれなくなって、彼から目をそらした。

「もしかして……イッた?」

 そんなもの、聞かなくたって見りゃわかるだろ。――そう怒鳴りつけてやりたかったけど、いま口を開いたら、とんでもなく情けない声が出てしまいそうだ。おれは後ろ手に枕を掴み、岳人の顔面に向かって投げつけた。

「いてっ……そんな照れなくても。可愛いなぁ、直哉さん。俺のキスでイッてくれたんだ?」

 むぎゅっと抱きしめられ、慌てて腰を引きながらティッシュを探す。けれども岳人は汚れることを厭わず、おれの身体にぴったりと下半身を密着させてくる。

「直哉さん、すき。絶対に幸せにしてみせるから。だから俺が直哉さんを好きなのと同じだけ、直哉さんも俺を好きになって」

 バカなやつだなぁって思う。幸せにしてみせる、なんて。女の子じゃないんだからそんな言葉を吐かれて嬉しがるわけがないだろう。

 おまけに自分が好きなのと同じだけ、好きになってくれなんて……まるで自分のほうが、おれを好きみたいないい方してるけど……実際にはお前なんかより、よっぽどか、おれのほうがお前を愛してるんだ。

 正直にそんなことを白状してやるのも癪だから、その首に手を回して引き寄せる。

 唇を重ね合わせながら布団に誘うと、岳人はおれを寝潰してしまいそうなくらいに勢いよく覆い被さってきた。

「ああ、くそっ。挿れたい……っ」

 苦しそうな声で岳人が呻く。

「挿れればいいだろ」

「いやだ。イッたら終わっちまうから。いやなんだ。もっと、ずっと長く、朝まで直哉さんと抱き合っていたい」

 真面目くさった顔でいわれ、思わず吹き出してしまいそうになる。

「別に、一回しかできないわけじゃないだろ」

「あんまりしつこいと、嫌われるだろ。大体、次の日、寝坊させちまったら悪いし」

 前回、寝過ごして店を開けられなかったことを心配してくれているのだろう。

「安心しろ。いま、この店は閉店状態だ」

「もしかして……俺のせい?」

「お前のせいじゃない。自らの行いのせいだ」

 悲痛そうに顔をゆがめ、岳人がおれの身体を抱きしめる。

「生活とか、大丈夫なのか。ばあちゃんの病院のお金とか……」

「心配ない。アイドル時代の蓄えがあるから」

「くそ、俺がもっと大人だったらっ……直哉さんの助けになれるのにっ」

 悔しそうな顔で岳人が憤る。おれは手を伸ばし、きつく握られたその拳にそっと触れた。

「お前は十分おれの助けになってる。――お前と出会わなかったら……きっと今もずっと、おれは辛いままだった」

 岳人と出会い、一緒に過ごすことができたから、こんなふうに自然に笑うことができるようになったのだ。

「感謝、してる。――お前に出逢えて、ほんとうによかった」

「直哉、さん……?」

 切れ長の目を真ん丸に見開き、岳人がおれを見つめる。いつもなら照れくさくなって目をそらすところだけれど、いまはそうすることができなかった。

 見ていたいと思った。愛しいこの男の姿を、一瞬も、見逃したくない。

「岳人」

 逞しい背中に腕を回し、そっと引き寄せる。

「ありがと」

 耳元で囁くと、「直哉さんこそ、俺を受け容れてくれてありがとう」って、やさしく頬ずりされた。

「なあ、なにをされても嫌いになったりしないから、お前の好きにしろよ」

「でも……っ」

 戸惑うような顔をする岳人に唇を寄せる。

「おれが、そうされたいんだよ。お前の好きなように、めちゃくちゃにされたいんだ」

 触れるか触れないかのところまで近づけた唇。挑発の言葉を口にすると、岳人は突然呼吸を荒げ、食らいつくようなキスをしてきた。

「我慢なんかするなよ」

「あんまりガキくさいと嫌われるかと思って……っ」

「見くびるな。いまのおれは、その程度で嫌いになるような相手とは絶対に寝ない」

「それって、俺のこと好いてくれてるってこと?」

「しつこいな。さっきからいってんだろっ」

 ダメだ。照れくさくて死んでしまいそうだ。かぁっと頬が火照って、耳まで熱くなる。

「直哉さんっ!」

 むぎゅっと抱きしめられ、昂ぶりを押し当てられる。息苦しいけれど、このまま、どうにかなってしまうくらいに強く抱き潰されたい。

「こ、こら、まだ解せてな……ぁっ……!」

 つう、と潤滑剤を垂らされ、熱く猛ったそれで擦り上げられる。たったそれだけの刺激で、身体の奥底に燃えるような劣情が灯った。

「がく、と……」

 手のひらで彼の目を塞ごうとすると、手首を掴んでやんわりと布団に沈めこまれた。

「いやだ。見ていたい。大好きなんだ。直哉さんの照れくさそうな顔も、感じてる顔も、それから……可愛らしく俺を求めてくれる顔も」

「なっ……お前を求めてなんて……ッ」

 最後までいうまえに、唇を塞がれる。舌を絡め取られたのと同時に、岳人の熱いソレがおれのなかに入り込んできた。ゆっくりと、けれども確実にソレはおれのなかを満たしてゆく。

 やさしく口づけ、髪を撫で、「だいすき」って囁きながら、岳人はおれを貫いてゆく。

 痛みがないわけじゃない。だけどそんなもの吹っ飛んでしまうくらいに、それはやさしくて、大切にされている、と実感できる抱擁だ。

 先端だけを埋めた状態で、じっとおれの痛みが引くのを待ってくれている。はやく貫いて吐き出してしまいたいだろうに、なんどもなんどもキスをして、俺の名を呼んでくれる。

 だから五回に一回くらい、おれも岳人の名前を呼びかえして、自分から唇を突き出してキスをねだってやる。岳人はそのたびに嬉しそうに目を輝かせ、火傷するようなキスをおれに与えてくれた。

「もう、いいよ」

 声が、すこしうわずってしまう。痛いからじゃない。すごく、欲情しているからだ。このまま岳人の上に馬乗りになって、彼の全部を喰らい尽くしてしまいたい。だけど執拗な愛撫を与えられた体は、もう指一本動かすのも大変なくらいにトロトロに蕩けてしまっている。

「だいじょうぶ……?」 

 心配そうな顔で、岳人がいう。

「ああ、これ以上じっとされてたら……余計につらい。はやく、お前のそれでめちゃくちゃに貫けよ」

 こんなふうに誘ったら、引かれてしまうだろうか。不安だけれど、もう自重できないくらいに岳人が欲しくて堪らない。

「は……なんて顔してんだ、直哉さん。そんなエロい顔されたら、それだけでイッちまうよ」

 むくりと彼の昂ぶりが質量を増す。はちきれんばかりに押し広げられ、苦しいはずなのに、その苦しささえも愛しくて堪らない。

「マズい……このままじゃ……」

 うわずった声で、岳人が呟く。そのつぶやきごとキスで絡めとり、ぐっとその下腹に己の尻を擦りつけた。

「ああ、はやく……お前のをくれよ」

 お前の熱でいっぱいにして欲しいんだって囁くと、岳人は「はぁっ……」と熱い吐息を漏らし、ぐっと圧し掛かってきた。

 最奥まで貫かれたそこに、蕩けそうに熱い迸りが爆ぜる。なかで出されるのなんていやで堪らなかったのに……岳人のそれで満たされると、無性に満たされた気持ちになれた。

「ごめ……直哉さ……」

 申し訳なさそうな顔をする岳人を、ぎゅっと抱きしめる。頬を摺り寄せ、ぴったりと身体を重ね合わせて、身体の全部で岳人を感じていたかった。

 すべてを吐き出した後も、岳人のそれは硬さを失うことがない。ゆっくりと腰を揺すると、応えるように岳人も律動をはじめる。ぎこちなく、互いの動きが何度もすれ違って、けれども彼は段々と要領を掴みはじめる。二人の動きがシンクしはじめたそのとき、偶然にもそこを擦りあげられた。

「ぁっ……!」

 岳人の吐精でぬめりけを増したそれが、おれのなかのいちばん弱い場所を刺激してくる。

「ひぅ……んっ……」

 必死で唇を噛んで平静を保とうとして、けれども岳人に気づかれてしまったみたいだ。

「直哉さん……ここ、そんなにイイの?」

 ずるいと思う。へたくそなくせに、そんなことばかり察しがいいのだ。岳人は腰をくねらせるようにしてその場所を探り当てると、小刻みにそこを刺激し続けた。

「ぁ、ゃ、やめ、やめろっ……!」

 ガクガクと揺さぶられながら、的確にそこを抉られ続ける。

「直哉さん、すごい、直哉さんのここ、きゅうきゅうして……ほら、俺のモノ、食いちぎっちゃいそうだ」

 手のひらを掴まれ、互いの結合部に導かれる。すっかり押し広げられたそこが、逞しい岳人の熱を咥えこんで収縮しているのがわかる。

「やめっ……あぁっ……!」

「直哉さん。好き、キスしよ。キスしながらシたい」

 貫かれたまま、ぐっと圧し掛かるようにしてキスをされる。挿入が一気に深くなって、堪え切れずにおれは悲鳴をあげた。

「あぁ……締まる。ダメだ、ごめん、直哉さん、これ以上もう……我慢できない」

 優しかったキスが、喰らいつくような荒々しさに変わる。窒息しそうに激しいキス。それと共に突き上げも一層激しさを増してゆく。

「んっ……ぁ……あぁっ……」

 揺さぶられるうちに、声を我慢することなど出来なくなってしまった。岳人にしがみつき半狂乱になって悲鳴をあげる。

「なおやさん、絶対に大切にするから。いっしょに、いよう。ずっと、いっしょにっ……!」

 ケダモノノように荒々しくおれを貫きながら、岳人は繰り返し、そんなふうにいい続ける。

「がくと……やめ、これ以上は……っ」

 なにもかも考えられなくなって、岳人の背中にしがみついて激しく揺さぶられ続ける。

「なおやさ、だめ……イくっ……!」

 びゅるり、と注ぎ込まれた瞬間、おれも同時に昇天していた。

「あぁっ……!」

 指一本触れられていないそこから、止め処なく白濁が溢れ続ける。驚いたように目を見開いた岳人が、ギュッとおれを抱きしめてくれた。

「ばか……よごれる」

 身を捩って逃げようとして、抵抗ごと抱き留められる。

「直哉さんの身体で、汚いものなんてなにひとつねぇよ」

 岳人はそういうと、俺の目元をそっと舐めた。舐められるうちに、おれは自分が落涙しているのだということに気づく。

「ごめんな。痛い思いさせた」

 優しく頬を拭われ、ちいさく首を振る。

「痛くなんて、ない」

 嬉しくて泣いてるんだ。――なんてそんなこと、口に出来るはずもなく、おれは目を閉じて、そっと岳人の胸に頬を摺り寄せた。

「ごめん……何回でもさせてやるって約束したのに……意識、飛びそう」

 吐精が止まった後も、身体はふわふわして、意識も朦朧としたままだ。疲れているのとも違う、しあわせな気怠さ。セックスのあとにこんなに穏やかな気持ちになるなんて、今まで、想像すらしたこともなかった。

 自然と手が伸び、岳人の手のひらを探す。そのことに気づいた岳人は、ギュッとおれの手を握ってくれた。

「いいよ、直哉さん。きょうはもう、休もう」

「だけどお前、朝までシたいって……」

「へいき。だって……すくなくともあと五十年くらいは、一緒にいられるだろ。きょう沢山しなくても、明日も、明後日も明々後日も……いつだってできるよ」

 まるで死ぬまで一緒にいるのが当然のことみたいに、岳人は笑う。おれはその笑顔を、いまだけは信じてしまいたいと思った。

「ああ、そうだな。明日以降にとっておこう」

 そう答えると、岳人は嬉しそうにおれの手のひらを握りしめる。

「おやすみ、直哉さん」

「ああ、おやすみ。――あいしてるよ、岳人」

 柄にもなくそんな言葉が、自然と口をつく。ギュッと抱きしめられ、おれは温かな腕の中で意識を手放した。



◆エピローグ

 はじめて彼の姿を目にしたのは、高二の夏。うだるような暑さのなか、予備校の夏期講習に通っていた私は、駅前の巨大ビジョンに映し出された少年の姿に心を奪われてしまった。

 あれから二十年の月日が経つが、いまだに私の心は、まばゆい輝きを放っていたあの夏の少年に囚われたままだ。

「いらっしゃいませ。きょうも日替わりとアイス珈琲でいいですか?」

 カウンターのなか、涼やかな笑みを浮かべたマスターがおひやを差し出してくれる。

「ええ、日替わりとアイス珈琲お願いします」

 いつもの席に腰掛けながら、彼の視線を辿る。さりげなく私から離れたその視線が追うのは、テレビ画面のなか、深緑色のサイクルジャージを纏った大柄な青年の姿だ。

「あ、なにかテレビ番組、見ますか?」

 私の視線に気づいたのだろう。彼は慌ててリモコンに手を伸ばす。

「いえ、構いませんよ。マスターの好きな動画で」

 そう答えると、彼は照れくさそうに頬を染める。

「よしてくださいよ。マスターだなんて……私は単なる『雇われ』ですから」

 ふるさと駅長を辞した後、彼、高橋直哉さんは、麓の町で喫茶店の雇われマスターをしている。当時短く刈っていた髪は、今は耳上で緩くウェーブを描くナチュラルなスタイルに変わっている。伊達眼鏡を外し、素顔をさらした姿は、あの日、巨大ビジョンに映し出された美しい少年の面影を色濃く残している。

 昔の恋人から執拗なストーキング行為を受けていたようだが、職場兼、彼の住居であるこの店は警察署の真ん前という立地のおかげで、今のところなんの問題も起きていないようだ。

 ただ、すっかり署内の女性たちや一部の男性から崇拝され、ファンが倍増してしまっているのは問題だ。どこから嗅ぎつけてきたのか、かつてのファンたちの巡礼地にもなっており、日に日にライバルは増すばかりだ。

「どうぞ。夏野菜のみそ炒めと冷や汁です」

「今日もおいしそうですね。ありがとうございます!」

 初恋相手の手料理を毎日のように食べられるなんて、私はなんて幸せな男なのだろう。

 山の中腹にある公立病院から麓町にある私立病院に移動して今年で三年目になる。

 開業前のひと踏ん張り。仕事は決して楽ではないけれど、彼の手料理を食べて充電すれば、なんとか乗り切ることができる。

 一時は彼のファンが大勢詰めかけて大変な騒ぎになっていたこの店も、ここ数年は平日の午後なら客足も落ち着いている。特にランチタイムを回った今の時間帯は、二人きりになることも少なくない。

「直哉さん」

 名前を呼ぶと、彼が少し驚いたように顔をあげる。そろそろ三十代も半ばに差し掛かるというのに、この可憐さはいったい何なのだろう。澄んだ白い肌、長い睫に覆われた愛らしい瞳。こんな素敵な人が何年も寂しくひとり寝しているなんて、私には正直信じられない。

「今夜お店のあと、すこし時間ありますか?」

 おいしいパスタの店を見つけたんですよ、と誘うと、彼はぎこちなく笑って、さりげなく視線をテレビ画面に向けた。

「ありがとうございます。あの、誘っていただけてすごくありがたいんですけど……」

 いつものようにつれない言葉で断られる。

 わかっている。彼の気持ちがまだあの男に向かっていることは。けれども彼はもう五年も海外に行ったきりなのだ。年に幾度か帰ってくるとはいえ、一年の大半を一人で過ごすなんて寂しくて堪らないのではないだろうか。

「同じように好きになって欲しいとは、いいません。彼のいない間の寂しさを埋めるだけの存在でも、私は構わないのです」

 立ち上がり、じっと彼を見つめる。そのすべらかな頬に手を伸ばしかけたそのとき、勢いよく扉が開いた。

「たっだいまーッ! なんだ、高梨さんもいたのか。ちょうどいい、アンタの分の土産もあるんだ」

 ぴったりとしたサイクルジャージを纏い、汗まみれになった大柄な青年が快活な笑みを浮かべる。びくんと身体をこわばらせ、私から素早く離れた直哉さんは、一瞬、幸せそうに顔を綻ばせ、すぐに不機嫌そうな顔を作った。

「なにが『ただいま』だ、ばか。――帰ってくるなら帰ってくるで、ちゃんと連絡よこせよ。突然来られたってな、こっちにはいろいろ準備ってもんがあるんだよっ」

「いや、急きょとれた休みだったんだ。チケットとれるかどうかわかんなかったし。それに……アンタの驚く顔が見たかったからさ」

 悪びれもせずにそんなことをいう岳人くんから目をそらし、直哉さんは拗ねたように唇を尖らせる。その頬は真っ赤に染まり、つぶらな瞳が潤んでいるのがわかる。

「はい。これ、オッサ…いや、高梨さんのぶんの土産。で、こっちは直哉さんのばあちゃんので、これが直哉さんの分」

 そういって彼が差し出したのは、リンゴの詰まった紙袋だった。

「もしかして、ノルマンディのリンゴか?」

「そう。検疫で引っかかったらどうしようかと思ったけど、無事に持って帰ってこれたよ」

 直哉さんの顔が一瞬ほころび、またいつものすましたような顔に変わる。

 岳人くんといるときはいつもそうだ。私の前では見せたことがないような、自然な笑顔を浮かべる。そして浮かべた直後、照れくさそうにすぐに不貞腐れた顔をするのだ。

「早摘みのリンゴ……マドレーヌか?」

「よくわかったな。コンポートにすると美味しいってさ。農園のオッサンがいってたよ」

「つまり、これでアップルパイを焼けと?」

「――そゆこと」

 にっこりと微笑む岳人くんに、直哉さんはすこし呆れたような顔を向ける。

「いくらツールが終わったからって、気を抜いたらまずいんじゃないのか」

「大丈夫だって。今のチームの監督は、身体大きくしてもうるさくいわないから」

 無理な減量をしてコンディションを崩すより、適度に食べて筋量を維持する。百九十センチを上回る長身、自転車競技者としては明らかに大柄でガッチリとした体つきをした彼は、その爆発的な脚力でエースを引っ張る発射台としてチームに貢献しているようだ。

 長い下積みを終えてやっとのことでグランツールに出場できるようになり、今年ははじめてツールドフランスにも出場したが、あくまでもエースを陰で支える陰の立役者。

 彼自身が表彰台に乗ることは決してないが、アシストに徹し、献身的にチームにその身を捧げる岳人くんの姿を、直哉さんはとても誇らしく思っているようだ。

 テレビ画面の中では、繰り返し彼の出てくる場面ばかりが流れ続ける。この店の常連さんが特別に編集してくれたものなのだそうだ。

 先刻まであんなにも画面に夢中だった直哉さんも、今はそちらにまったく目を向けない。

 当然だろう。待ち焦がれていた想い人が遠い海をこえて戻ってきたのだ。

「いち、にい、さん、し……結構あるな。明日のランチのデザートにするか」

「だめ! ぜんぶ俺と直哉さんが食うのっ。あ、オッサ、いや、高梨さんは、すこし食べてもいいよ」

 カウンターのリンゴに覆いかぶさるようにして岳人くんが叫ぶ。紙袋から最後のリンゴを取り出した直哉さんは、怪訝そうな顔で袋のなかを覗きこんだ。

「これは……」

 袋から彼が掴み出したもの。それは、ちいさな四角い箱だった。

「ほんとは表彰台のうえから渡すつもりだったけど……このままだと、何年経っても上がれそうにないから」

 一見、個人競技のように見えるサイクルロードレースは、完全なチームスポーツだ。チーム内で役割が決まっており、アシストである彼がエースを差し置いて勝ちを狙うことは許されない。あくまでもチームのため、エースのために、その身を捧げなくてはならないのだ。

 ぐっと身を乗り出すようにして、岳人くんは、直哉さんの手のひらの上に乗ったその箱を開ける。箱の中からはシンプルな銀色の指輪が姿をあらわした。

 私は立ち上がり、カウンターの上に千円札を置く。

「え、高梨さん、もう帰っちゃうの? まだ全然食べてないのに」

 驚いた顔で岳人くんが私を引き留める。

「急患なんです。急いで戻らなくちゃ」

 私の嘘に気づいているのだと思う。カウンターのなかの直哉さんが、申し訳なさそうに頭を下げる。

「じゃあ、岳人くん、またね。――マスター、ごちそうさまでした」

 指輪を目にしたとき、直哉さんが一瞬だけ浮かべた幸せそうな笑顔。その笑顔を名残惜しく思いながら、背を向ける。

 店の扉にかけてある『営業中』の札を、私はさりげなく裏返した。

「――さて、私もそろそろ新しい恋に向かいますかね」

 店の周りにはたくさんのヒマワリが咲き乱れ、ピレネーを思い起こさせるその色鮮やかな黄色い花が夏の盛りを告げている。

 店内からは、彼らが楽しそうに語り合う声。

 うつくしいけれどすこし翳りのあるあの人に、あんな笑顔を浮かべさせることのできる男は、きっと彼以外、存在しないのだと思う。

 あの夏、心を奪われた少年の眩しい姿が脳裏をよぎる。

 真夏の日差しのようにまばゆく、うつくしいひと。

 悔しいけれど、誰よりも愛しい彼の幸せを、心から祝福してあげようと思う。



=FINE=



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