さよならブルーワゴン


「せっかくこれだけ勉強ができるんだ。考え直した方がえいいと思うがなぁ」

 薄くなりかけた頭をポリポリとボールペンの背で掻きながら、担任の坂間先生がため息交じりにいう。

「ええ……ですが、ウチには経済的な余裕もありませんので」

 ぼそりと呟いた『かずい』に、先生はふたたび、もったいないなぁとため息を吐いた。

 一学期の期末テスト最終日。校庭ではさっそく運動部の生徒たちがにぎやかな歓声をあげている。梅雨明けまえの空はどんよりとした雲に覆われ、夏休みまであと十日しかないというのに、ちっとも夏らしさが感じられない。

 ――はやく夏が来ればいいのにな。

 ぼんやりと窓の外を眺めながら、かずいは思った。

 昇降口でスニーカーに履き替え、校舎の外に出る。ふと顔をあげると、ポツリと雨粒が落ちてきた。

「三浦くん、いま帰り? 傘、入れてあげよっか」

 クラスの女子に声をかけられ、笑顔をつくる。

「ありがと。でも、僕が入ったら濡れちゃうよ。僕のことはいいから、風邪ひかないようにしっかり傘入って帰んなよ」

「三浦くん、やっぱ優しいー」

 女子たちの歓声が響き、その隣で男子グループが不機嫌そうな顔で眉をしかめる。

「なんなの、あいつ」

「さすがビッチの子は違うよな。アイツの母親って、男たらしこんで東京に逃げたんだろ」

 いつも通りの雑言。ちいさなこの町で、母の出奔のことを知らない者は誰ひとりとしていない。

 美しく聡明な母が、かずいを残し、この町を捨てて十年が経つ。それ以来、缶詰工場で働く父は今まで以上に無口になり、祖母は口うるささが五割増しになった。

「だから大卒の嫁なんか貰うなと、あれほどいっただろうに」

 祖母のそんな口癖を思えば、とてもではないけれど大学に行きたいなどといい出せるはずもない。

 高校を出て、この町唯一の産業である水産加工業の工場にでも就職して、父のように工員として一生を終える。それ以外の道を選ぶことなど恐らく自分にはできないだろう。

 それでもいいと思う。ねっとりと身体を包みこむ、むせかえるように濃密な汐の匂い。この匂いのしない場所で自分が生きてゆくなんて、想像すらできそうにない。

「別に、なにかしたいことがあるわけでもないしな」

 隣の席の女子は、将来アナウンサーになりたいのだという。そのために東京の大学に通うのだといって、まだ二年生の今から都内の大学の赤本を持ち歩いている。

 彼女のように夢のひとつでもあれば、この町を出るキッカケにもなっただろう。けれどもかずいには、そんな無邪気な夢すら抱くことができそうになかった。

「あの車、まだ停まってる」

 防波堤の向こう側、ブルーのワゴン車が見える。

 漁港の対岸にあり、海水浴場からも遠く離れたこのあたりの浜は、波も高いため、普段はあまり人が寄りつくことはない。けれども梅雨ごろから夏場にかけて桁外れに大きな波がたつため、時折、よそ者のサーファーがやってきては浜を汚し、町内会のオジサンたちが渋い顔をしている。

「波乗りなんて、なにが楽しいんだろう」

 母が駆け落ちした相手は、都内からやってきたサーファーだったのだそうだ。

『サーフィンなんぞ、ちゃらちゃらしたやつのするものだ』

 父からきつくいわれて育ったため、かずいは一度もサーフィンをしたことがない。

 それ以前に、この町の男たちは基本的にサーフィンをしない。住民の大半が漁業や水産加工業に従事しており、時化はすなわち、減収を意味する。波など立たなければ立たない方がよいに決まっているのだ。

 色あせた古めかしいワゴン。そのボディには亀の絵が描かれている。あまり上手ではないけれど、なんだか愛嬌のある絵だ。

「あの男が、車の持ち主かな」

 薄暗い空の下、サーフボードの上に立つ男の姿が見える。

 風が強く吹き、分厚い雲の切れ間から幾筋もの細い光が差す。その光を浴びて、男の姿が濃いシルエットに変わった。

 すうっと波の上をすべるようになめらかに進んでゆく。ゆったりと移動したかと思うと、今度は右に、左に素早く切り返す。まだ七月も初旬だというのにウェットスーツは身につけておらず、サーフパンツ一枚の姿。その身体はがっしりとした筋肉に覆われており、いかにも男らしい体つきだ。

 あんなふうに男らしい見た目をしていたら、自分も、クラスの男子にからかわれたりすることなく暮らせていただろうか。

 身長こそ百七十に届くものの、華奢な体つきに母そっくりな女顔。

「なんかよー、かずいってホモっぽくね?」

「ああ、母親の血ぃ引いて、あいつもビッチなんじゃねぇの。女子からあんだけキャーキャーいわれてんのに誰ともつきあってねぇしさー。なあ、誰かホモらせてもらって来いよ」

 漁師町という土地柄だろうか。勇ましく、気性の荒い者の多いこの町の男たちに、かずいはどうしても馴染むことができそうになかった。かといって町の外になど、一度も出たことがない。どこか別の場所にいけば状況がよくなる、などと根拠もなく信じられるほど、かずいは楽観的な性格ではない。

「波乗り、したいのか」

 唐突に声をかけられ、ふと我に返る。

「え、あ……いや……」

 顔をあげると、すぐそばに濡れ髪の男が立っていた。

 かずいだって決して小柄なほうじゃない。けれども男はかずいよりも、三十センチ近く背が高いように感じられる。

 水の滴る漆黒の髪。精悍な顔立ちに瞳を奪われる。切れ長の目に彫りの深い眉目。あか抜けたその顔だちは、明らかにこの土地の男ではなかった。

「楽しいぞ。サーフパンツなら貸してやる。ちょっと乗っていかないか」

 ぼーっと彼のことを眺めてしまっていたから、波乗りがしたいものだと思われてしまったのだろう。

「あの、えっと……」

「ほら、鞄と制服は、車ん中入れておけよ。これ、着替えな。誰も見てねぇから、ここで着替えちまえ」

 戸惑うかずいから学生鞄を奪い、彼はサーフパンツを押しつけてくる。

 気づけば着替えさせられ、足首にサーフボードと身体を繋ぐためのリーシュコードをつけられていた。

「あ、あの、僕、サーフィンとか全然やったことないんですけど……」

「気にするな、誰だって最初は初心者だ。ちょうどいい、そろそろ凪いでくるころだ。ほら、これだけ波がちいさけりゃ、初心者だってちょっと頑張りゃ立てるさ」

 ニッと微笑むその顔に、自然と視線が吸い寄せられる。

 顔立ち自体はテレビに出てくる俳優かと思うくらいにとても整っているのに、その笑顔は豪快で子供のような無邪気さだ。

「ほら、海に出る前に、まずは陸で立ちかたを教えてやる。こうやって腹這いになって、胸の横に手をつく。目線は常に前、胸を反らすようにして……ジャンプするように立つ、と。そう、前足はこのあたり、ボードの真ん中にくるようにしてな。左足はここだ」

 足首を掴まれ、ドクン、と胸が高鳴る。見ず知らずのひとと話をするなんてはじめてだから、緊張してしまっているのだと思う。

 頬がかぁっと火照って、まともに彼を見ることが出来なくなってしまった。



 何度も練習したあと、海に向かう。

 陸の上では出来た動作も、いざ波に乗ると不安定で、どんなに頑張ってもうまくできなかった。

 腹這いのまま、波に乗ることすらできずにおいていかれたり、立とうとしてひっくり返ってしまったりする。

 乗るタイミングを見極めて彼が後ろから押してくれているのに、何度やってもうまく立つことができなかった。

「大丈夫だって。そのうち出来るようになるから」

 そのたびに彼はニッコリと笑ってそういってくれた。

 ずるい、と思う。カッコ良すぎるのがいけないんだ。こんなタレントみたいな男前がいきなり目の前に現れたら、誰だってドキドキするに決まってる。自分がおかしいわけじゃない。きっと……この男を前にしたら、誰でもこんなふうになるんだ。

 高鳴る胸の鼓動に苛まれながら、立ち上がろうと必死でジャンプする。そのたびに滑り落ち、かろうじて膝立ちになれても立ち上がった瞬間にバランスを崩して転覆し、ちっともうまく波に乗れない。

 何度も何度も失敗し、空が夕焼けに染まり始めたころ、ようやくかずいはボードの上に立つことができた。

 ――やった、うまくいった。あとはこのまま体勢をキープして……。

 ふらりと倒れそうになりながらも、なんとかバランスを保ち続ける。すうっと水の上をすべる感覚に、思わず叫び声をあげてしまった。

「やった!」

 こんなふうに心から笑うのは、いつ以来振りだろう。

 なめらかに滑り続けるボード。生まれて初めて感じる不思議な浮遊感に、一気にテンションがあがってしまう。

 波が穏やかなせいもあると思う。なんとか波打ち際まで、そのまま転ぶことなく乗り上げることが出来た。

「おお、すげぇ、乗れたじゃねぇか!」

 顔をあげたまま器用にクロールで泳ぎ、男が波打ち際にやってくる。

「よっしゃ、よくやった!」 

 手を差し出され、ハイタッチを交わしあう。次の瞬間、突然ぎゅっと抱きしめられ、心臓が止まってしまいそうになった。

 母親がいなくなって以来、誰かに抱きしめられたことなんて一度もなかった。

 懐かしい、ひとの温もり。胸が苦しかった。苦しくて……うまく呼吸ができなくなる。

 気づけば落涙していた。男の腕に抱かれたまま、声を押し殺して泣きじゃくる。

「おい、どうした。なにがあったんだ。どこか痛いのか?」

「ちが……そうじゃなくて……」

 大きな手のひらで頬を包みこまれ、余計に涙が止まらなくなる。かずいは堪え切れず、その場に崩れ落ちるようにして幼い子供のように泣きじゃくった。



「ほら、焼けたぞ喰え」

 パチパチと小枝が燃える音や飛び散る火花。香ばしく焼ける魚の匂いが鼻をくすぐって、ぎゅる、とお腹が鳴ってしまった。

 彼が釣ったという魚を差し出され、かずいはぺこりと頭を下げた。

 泣きじゃくり、すべてを吐き出してしまったことで、なぜだか妙にすっきりした気持ちになれた。

 母に捨てられた自分。本当は大学に行きたいのに、行けないこと。まわりと話があわず、同性の友達をつくることが出来ないこと。

 見知らぬ人だから、逆に素直になれるのだと思う。誰にも打ち明けられなかった心のうちを、すべて曝け出すことができた。

 男は同情的な言葉をかけるでもなく、教師のように説教臭い言葉を吐くでもなく、ただ黙ってかずいの話を聞くと、濡れた頬を拭い「メシ、食ってくか」といってくれた。

 たき火で焼いた魚と、飯盒で炊いた白米。なんだかキャンプのときみたいで、すこし楽しかった。

 たき火に照らし出された彼の顔が、オレンジ色に染まっている。相変わらずその顔だちは、うっとりするくらいに整っていて、ちらっと覗き見るだけで胸がドキドキして、うまく呼吸が出来なくなってしまう。

 だからできるだけ彼の顔を見ないようにして、かずいは彼の作ってくれたごはんを食べた。

 かずいがボードの上に立てたことが嬉しいようで、彼は「お前はスジがいい!」といって終始楽しそうに笑っていた。その笑顔を見ていると、色々なことでウダウダと悩んでいる自分が、なんだかちっぽけに感じられた。

 気づけばつられて笑っていた。特別な話をしたわけじゃないけれど、彼と話していると、自然と楽しい気分になれた。

「そろそろ帰らねぇと、家族に心配されるぞ」

 本当はもっと一緒にいたかったけれど、彼に見送られ、二十時には家に戻った。

 玄関の扉を開けるなり、祖母から帰りが遅くなったことを叱られた。

 父は相変わらずの無関心で、テレビの野球中継をぼんやりと眺めている。

 その寂しい後ろ姿に自分の将来を重ね合わせ、かずいは背筋が冷えるのを感じた。



 次の日も、かずいは彼に会いに行った。

「お、波乗りしに来たか」

 本当はそんなにサーフィンがしたいわけでもないけど、笑顔で出迎えられ、かずいは「ウン」と頷いた。

 その日も日が暮れるまでサーフィンをして、夕飯をごちそうになった。ただそれだけのことだけれど、かずいには幸せでたまらなかった。



 授業が終わると、毎日、まっすぐ彼のところに行くようになった。

 ときには波がまったくなくてサーフィンができないこともあった。そんな日は、彼は日がな一日、釣竿を垂らし、本を読んでいる。

「凄いですね、英語の本だ」

 彼が読んでいるのは、いつも海外の小説や雑誌だった。辞書もないのに、まるで日本語の本を読むのと同じように、自然に英文の本を読んでいる。

「ああ、ベンキョーなんかできなくてもいいけどな、英語だけはしっかりやっておいたほうがいいぞ。広い世界に出たくても、言葉が喋れなけりゃ出られやしないからな」

 こんなふうに昼間からフラフラしているし、どちらかというと体育会系っぽく見えるのに、彼は英語がとても得意なようだ。難解な長文読解もすらすら解いてしまう。

 雨の日にはブルーワゴンのなかで、勉強を教えて貰ったりするようになった。

「しかしお前は、本当によく勉強するよなぁ。なにかなりたいものでもあるのか」

「特にないし、しても無駄だってこと、わかってるけど……」

 ほんとうは、この町を出たい。

 誰にもいったことがなかった、本音。消え入りそうな声でつぶやくと、くしゃりと髪を撫でられた。

 大きな手のひら。何故だか無性に涙が溢れそうになって、唇を噛みしめ、ぎゅっと俯く。

 サーフボードに塗るワックスの甘い香りが、かずいを包みこむ。彼の手のひらが伸びてきて、むい、と頬をつままれた。

「泣きたいときは、泣いちまえ」

 彼はそういって、ニッと笑う。

 どうしてだろう。人前で泣くなんて、母がいなくなってから、一度もしたことがなかったのに。彼の前では馬鹿みたいに涙が溢れてきてしまう。

 彼の手のひらが、かずいの髪を撫でる。幼い子供にするみたいにわしわしと髪を撫でられ、ちいさなころ、父が髪を撫でてくれたときのことを思い出してしまった。



 終業式のあと、かずいはいつもどおり、まっすぐブルーワゴンを目指した。

 特別な予定があるわけではないけれど、夏休みのはじまりは、いつだって少しワクワクする。

 特にこの夏は、彼がこの町にいるのだ。ブルーワゴンに住まう、名前も知らないよその町のひと。

 体育以外、ほとんどすべて五段階評価の五で埋め尽くされた通知表。見せたら彼は、褒めてくれるだろうか。

『すげぇな』

 くしゃくしゃと髪を撫でられたときの感触が、脳裏に蘇る。

 足早に浜辺に向かうと、大きな波が立っているにも関わらず、海には彼の姿がなかった。

「あれ……今日はサーフィン、してないのかな」

 おかしいな。こんなにいい波、彼が見逃すわけないのに。

 もしかしたら、具合でも悪いのだろうか。不安になってブルーワゴンに駆け寄ろうとして、かずいは異変に気付いた。地震でもなんでもないのに。ワゴンがゆさゆさと揺れている。

「どうして……」

 中で腹筋でもしているのだろうか。サーフィンには筋力が必要らしく、彼はいつも筋力トレーニングを欠かさない。

 だからってこんな暑い夏の日に、車内でやることはないだろう。なぜ、外でやらないのだろう。不思議に思い、そっと車に近づく。

 すると車内から、あられもない嬌声のようなものが聞こえてきた。

「え……今のって……」

 まさか、自慰でもしているのだろうか。

 いやいや、いくらあっけらかんとしたあの男でも、こんなに日の高いうちからそんなことをするはずがない。

 第一、今聞こえてきた声は、彼が出すにしては、すこし高すぎる声だ。彼の声はとても低く、身体に響くような深みのある声なのだ。

 いったい今のは、なんだったんだろう。

 好奇心に駆られ、そっとワゴンに近づく。車内をのぞき込むと、そこにはかずいの想像をはるかに超えた光景が繰り広げられていた。

 最初に目に飛び込んできたのは、逞しいあの男の身体だった。サーフパンツすら履いておらず、真っ裸の状態だ。生々しい日焼跡の残る、引き締まった体躯。その身体が激しく動き、彼の下で四つん這いの体勢をとる白い身体を貫いている。

「うそ、だ……」

 彼が貫いているもの。それは豊満な肉体を持つ女性ではなく、彼ほどではないものの筋肉質な体つきをした男性だった。

「あぁっ……タケル……いい、もっと、もっとめちゃくちゃにしてっ……」

 お尻を突き出すようにして、白い肌の男が叫ぶ。あの男の褐色の肌と、その人の白い身体のコントラストが、なんだか妙にいやらしく感じられた。

 いつもかずいの頭を撫でてくれる彼の大きな手のひらが、白い腰を掴む。荒々しく突き上げながら、そのひとを喘がせる。

 祖母が観ている洋画の中で、ベッドシーンを見たことはあった。なんだかいたたまれなくなってすぐに自分の部屋に逃げ込んだから、ちらっとしか見なかったし、シーツに隠れていて裸体までは目にしなかった。こんなふうに生々しいシーンを見るのは、生まれて初めてだ。

「タケルっ……あぁ、もっと、もっとそばにっ……」

 うっとりと蕩けそうな声で、白い肌の男がいう。その頬も首筋もほんのりと赤く染まっていた。

 とてもきれいな顔をした男のひとだ。少し色素の薄いサラサラの髪。乱れるのも気にせず激しく貫かれ、喉をそらすようにして身体をのけぞらせている。

 見ちゃいけない。行かなくちゃ。こんなの、見ちゃいけない。

 そう思いながらも、かずいはその場から離れることができなくなってしまった。



 結局、彼らが果てるまで、見続けてしまった。二人は行為が終わると、抱き合ってキスをしはじめた。

 恋人同士なのだろうか。車外のかずいには気づきもせず、夢中で抱き合いキスを交わしあっている。

 彼らのセックスを見てしまったこと以上に、行為のあと、タケル、と呼ばれたあの男が、白い肌の男の髪を、かずいにするのとは違う、蕩けそうに優しい仕草で撫でてあげているのが、なんだか無性にショックなことに感じられた。



 家に帰っても、かずいは彼らの行為を脳裏から消し去ることができなかった。

 自室のベッドに潜り込み、ぎゅっとまぶたを閉じる。

 忘れようとすればするほど、生々しく彼らの行為を思い浮かべてしまう。息遣いまで伝わってきそうな、荒々しい抱擁。

「ぁ……」

 気づけば、熱く火照った自分自身を握りしめていた。

 男同士の行為。気持ち悪いはずなのに……なぜか湧きあがってくるのは『嫌悪感』ではなく、焼けるように激しい『羨望』だった。

「タケル……さん」

 頭の中の残像。彼に貫かれる白い肌の男が、いつしか自分自身の姿に変わっていた。

「やっ……ぁ、ぁっ……!」

 己の分身を擦りあげながら、彼に貫かれるところを夢想する。あっという間に追い詰められ、そして、果てる。

 ティッシュで白濁を拭いながら、さぁっと頭から血の気がひいてゆく。

 ――とんでもないことを、してしまった。

 ビッチ、と蔑まれる母への暴言が、自分自身に浴びせかけられているみたいに思え、かずいは声を押し殺して、すこしだけ泣いた。





 もう二度と、あそこには行かないほうがいい。そう思いながらも、自然と足があの場所に向かう。

 防波堤の向こう側に見えるブルーワゴン。こっそりと近づくと、車の外に立つ彼の姿が目に飛び込んできた。

 そしてその隣には、あの白い肌の男性が立っている。麻のジャケットを羽織り細身のパンツを履いたそのひとは、とても洗練された雰囲気をしており、あの男以上にこの町には不釣り合いに見えた。

 すらりと長い手足。くすみひとつない真っ白な肌。こうして見ると、ほんとうに整った顔だちをしている。

「もういい。これだけいってもわからないのなら、好きにしたらいい」

 パンッ、と頬を張る音が響く。

 上品そうな彼の繰り出す張り手に、叩かれたあの男以上に、かずいが驚いてしまった。

 ジャケットの男は小走りにこちらに駆けてくる。かずいは防波堤に身を隠し、息を殺して彼が立ち去るのを待った。

 足音が完全に消えたあと、そっと顔を出すと、あの男と目が合ってしまった。

「わ、ご、ごめんなさいっ……」

 のぞき見していたのがバレてしまった。慌てて謝ると、彼は照れくさそうに頭を掻いた。

「カッコわるいとこ、見られちまったな」

「――あのひと、恋人ですか」 

 かずいがいうと、男は打たれた頬をさすりながら、

「『だった』が、正しいかな」

 といった。どうやら、振られてしまったようだ。

「喧嘩したんですか」

 昨日はあんなに仲よさそうにしていたのに、いったいなにがあったのだろう。

「喧嘩っていうか……元々、ここのところずっと、うまくいっていなかったんだ。色々あって、俺はまあ、この通りふらふら放浪中の身で……どうもそれが、奴には理解してもらえないようでな」

 なかなか帰ってこない男に業を煮やし、彼はここまで迎えに来たのだという。

「どうして戻らないんですか」

「ひとつの場所にいるのが、苦手なんだ」

 そのせいで、愛想を尽かされてしまったのだという。

 ひとつの場所にいるのが苦手。この町しか知らないかずいには、まったくもって理解不能な感覚だ。

 色々な町を転々としているのだろうか。この町からも、いつかは出て行ってしまうのだろう。

「おお、そういえば今日は、物凄くデカい魚が釣れたんだ」

 飯食ってくか、と誘われた。どうやら彼は、中高生というのは常に腹をすかせている生き物だ、と思い込んでいるようだ。

 そんなにお腹はすいてなかったけれど、かずいは、「ウン」と頷いた。

 理由なんてなんだっていいから、もう少しだけ、彼のそばにいたかったのだ。



 今日は魚とご飯だけでなく、アラを使った味噌汁まで振る舞ってくれた。

「うまいか」

「ウン、おいしい」

 そうかそうか、と彼は嬉しそうに笑う。なんだか子供扱いされているみたいでイヤだけれど、やさしくして貰えるのはすこし嬉しい。

 おなかがいっぱいになると、眠たくなってしまった。目をこすっていると「そろそろ帰れよ」といわれた。

「今日、ウチの親、会社の慰安旅行でいないんです」

「だからって帰らなくていい理由にはならねえだろ」

「高校生のころ、夜遊びしたことなかったですか」

「なくはねぇけど……」

「ここに泊めてくれないなら、他で遊びます」

 そう主張すると、彼はそれ以上、帰れとはいわなくなった。

 たき火の日が消えると、静寂が訪れる。絶え間なくつづく潮騒の音と、時折、海岸線を走る車の音。テレビもなにもないこの場所で、毎晩ひとりきりで過ごしていて、彼は寂しさを感じたりしないのだろうか。

 七月の下旬とはいえ、潮風の吹く浜辺は夜になると少し肌寒い。ぶるりと身を震わせると、「車んなか、入るか」といわれた。

 ワゴン車の中には、ふわふわのウォーターベッドが置かれていた。

 このベッドの上であのひととセックスしたんだなぁって思うと、なんだか胸がギュッと苦しくなった。

「こんなのはじめて見た! 寝てみたい!」

 頭の足らない子供のふりをして、ベッドに横たわる。男は呆れた顔をしながらも、サンルーフのシェードを開けてくれた。見上げると満点の星空が目に飛び込んでくる。

「わあ、すごい!」

「ああ、すごくきれいだよな。波もだけど、これが気に入ってるから、ここにいるんだ」

「――いつまでここにいるんですか」

「いつまでかな。風向きが変わって波が立たなくなったら、移動すると思う」

 この浜に大きな波が立つのは、梅雨からお盆前まで。彼がいなくなってしまう日のことを想い、胸が苦しくなる。

 自然と手が伸びた。そっと彼の手のひらに触れる。大きくて節ばった手のひら。あの人の髪を優しく撫でていた手だ。

「なんの真似だ」

「振られちゃったみたいだし、僕、遊び相手くらいにはなりますよ」

 ドキドキと暴れまわる心臓。遊び慣れたふりをして、そんなふうにうそぶく。せっかく頑張って演技したのに、声がふるふると震えてしまった。

「ガキが馬鹿いってんじゃねぇよ」

 手を振りほどかれ、軽く額を小突かれる。

「いたっ……」

 おでこを押さえると、「ゴメン、ゴメン」と優しく撫でてくれる。ただそれだけの接触で、心臓が壊れてしまいそうなくらいに激しく暴れた。

 彼の手のひらが、そっとかずいの髪を撫でる。昨日、あのひとの髪を撫でていたのとは、たぶん、違う撫でかただ。そのことがかずいには、なんだかすこし哀しかった。

「お前、ゲイなのか」

「――ゲイ、同性愛者のこと、そういうんでしたっけ」

「ああ」

 ごろんと寝転がった彼の身体が、すぐそばにある。

 手を伸ばせば触れあいそうなほど近いのに、彼はあのひとにしたように、自分を抱きしめてはくれなかった。

「たぶん、そうなのかな。女の子を好きになったことはないです。男も、今までは……」

 ちらり、と彼を見上げながらいう。

 あなたのことが、好きです。名前すら教えてもらったことのない彼に、そんなこと打ち明けられるわけがない。

「あのさ、お前くらいの年頃って、どうしたって同じ指向の人間に出会えないだろ。だからさ、偶然出会った同じセクシュアリティの相手と、恋に落ちたような錯覚に陥りやすいと思うんだ」

「錯覚?」

「ああ、錯覚だ。――そうだな、ここは狭くてちいさな田舎町だから、なかなか難しいかもしれないけど……広い世界に出たら、ゲイなんて掃いて捨てるほどいる。そういう場所で、自分と同じ年頃の相手と出会って、恋に落ちる。お前、まだ誰ともヤったことないんだろ?」

 そう問われ、こくん、とちいさく頷く。ここで嘘をついたところで、たぶん、彼にはすべてお見通しだ。かなしいけれど、彼はそれくらい、かずいよりもずっと大人なのだ。

「だったらなおのこと、心から夢中になれる相手に出会えるまで、大切にとっておけ。女の人と違って、そりゃ、いわなきゃバレやしねぇけど。やっぱそういうのって大事だろ。妊娠の心配がないからといって、セックスなんて、むやみやたらにするもんじゃない」

 彼はそういうと、わしわしとかずいの髪を撫でた。

 その撫でかたは、やっぱりあの人を撫でたときとは、全然違う撫でかただった。よしよし、って大人が子供をあやすときにする、そんな撫でかただ。 

「ほら、夏の大三角形が見える。結構明るく見えるよな。あれがベガで、あっちがアルタイルだろ」

 どうやら星にも詳しいらしい。夜空の星を指さしながら、彼はいう。

 寝転がって星を見るうちに、眠たくなってきてしまった。

 相手にしてもらえなかったこと、哀しかったけれど、それでも彼のことを嫌いにはなれそうになかった。

 彼の声を子守歌に、かずいはいつのまにか眠ってしまった。



 目覚めると、彼の腕のなかだった。

 眠りながら、無意識に抱きついてしまったのかもしれない。

 温かな腕のなか。彼のモノが太腿に触れる。朝の生理現象のせいだろうか。熱く火照ったその感触に、心臓が壊れそうにバクバクと暴れた。

 彼の顔がすぐ近くにある。じっとその寝顔を見つめていると、不意にその目が開いた。

「ん、ぁ……あぁッ?!」

 目を覚ました彼は、慌ててかずいから手を離した。

「す、すまんっ……知らないうちに……うわ、本当に、ゴメン!」

 平謝りに謝られ、なんだかすこし哀しかった。どうしたって、かずいは彼にとって、そういう対象にはなれないのかもしれない。

 朝ごはんをごちそうになったあと、家に帰った。朝帰りしたかずいを、父は無言のまま殴った。

 父に殴られるのは、生まれて初めてだった。

 無遅刻無欠勤の父が、会社にも行かずに家にいたのは、おそらくかずいのことを心配して帰りを待ち続けていたということだろう。

 いつもは口うるさい祖母が父を必死で止めて、かずいを庇ってくれた。

 ――いままで、どうして気づけなかったのだろう。自分は、彼らに愛されているのだ。いまさらのようにそのことに気づき、かずいは、涙が止まらなくなってしまった。



 三浦の家の息子が、浜辺に停まるワゴンの男のところに出入りしている。

 知らないあいだに、町中にそんな噂が出回っていた。

 祖母からきつく叱られ、絶対にあの車に近寄ってはいけないといわれた。それでもかずいは祖母の監視の目をかいくぐり、彼に会いに行くのを止められなかった。

 そのことが彼の耳にも入ってしまったのだと思う。

「もう、ここに来るのはやめろ」

 八月に入ったばかりのある日、彼にそういわれた。

「嫌だ。僕は……絶対にやめません」

 あなたのことが、好きです。

 決死の想いで告げた言葉。呆れた顔で拒絶された。

「馬鹿をいうな。お前は未成年者で、まだ高校生なんだ」

「高校なんか、辞めます。あなたと一緒に、ついていきたい」

「あのなぁ……お前のそれは、単なる逃避でしかない。町を出たいと思うことは構わない。だけど、ちゃんと段階を踏んで出なくちゃダメだ」

 高校を卒業して、進学するなり就職するなりしなくちゃいけない、そんなふうにいわれ、かずいは唇を噛みしめた。

「自分は自由人のくせに、ひとには堅苦しいこというんですね」

「大事なんだよ、そういうことが。一段飛ばしに駆けあがれば、必ずいつか怪我をする」

 端正な彼の顔が、悲痛そうに歪む。

 かずいは彼がいつも、右足をすこし引き摺っていることを思いだした。

「その足、どうしたんですか」

「サーフィン中の事故だ。膝を壊しちまって……もう、サーフィンはできないんだ」

「できてるのに」

「こんなのはできているうちに入らない」

 苦々しげな顔で、彼はいった。

 怪我をする前は、もっと凄いサーファーだったのだろうか。今だってかずいの目から見たら、十分凄く見えるのに。

「来週末に、この町を出る。もう二度とここには来ない。――俺のことは忘れろ」

「いやだ」

「いやだ、じゃない。じきに風向きが変わる。八月も半ばになれば、ここは静かな海になるだろ」

 穏やかだけれど意志の強そうな声で、彼はいった。

 どんなに引き留めても、きっと聞き入れてはくれないのだろう。そのことを悟り、かずいはいったん家に戻り、スポーツバッグに一週間分の着替えを詰め込んだ。

「友達の家で、夏休みの宿題をやってくる」。

 嘘を吐いたかずいに、祖母はなにかいいたげに口を開き、けれどもなにもいわなかった。

「盆には帰ってくるから」

 かずいはそう言い残し、家を後にした。



「家を出てきた、だって?」

 パンパンに膨れ上がった学校指定のスポーツバッグを手に戻ってきたかずいを見て、彼は形の良い眉を歪めた。

「この町を出るまでのあいだだけでいい。ここにいさせて欲しい」

「馬鹿をいうな。今すぐ家に帰れ」

「ばあちゃんには、ちゃんと話してきた。お願いだから。タケルさんがこの町を出るときには必ず帰る。こんな気持ちになるのは初めてなんだ。――それまでの間だけでいい。側にいさせてほしい」

 そう訴えると、思いきり呆れた顔をされた。

「ここにいさせてくれないなら、車の外で寝泊まりする」

「馬鹿だろ、お前」

「自分でもそう思う。だけど止まらないんだ」

 真顔で答えると、おかしそうに笑われた。

「バーカ」

「馬鹿っていうひとが馬鹿だって、母さんがいつもいってた」

 母の話をするのは、久しぶりだった。口に出すたびに胸が痛んだのに、なぜか今日は、あまり痛くなかった。

「波乗り、すっか」

「ウン」

「最後の波だ。もう来週には、乗れないかもしれない」

 彼の言葉が、なんだかとても哀しかった。



 朝から晩まで、海で過ごした。

 波乗りして、釣りをして、釣り餌を取ったり、浜辺のゴミ拾いをしたりして過ごす。

 長い時間一緒にいると、彼が時折、膝の痛みを辛そうにしているのがわかった。

 ひどい怪我なのだろうか、そんなになっても、それでも波乗りをするなんて、彼はどれだけサーフィンが好きなのだろう。

 あの色白の彼が置いていったものらしい。ワゴン車に転がっていたカメラで、彼は写真を撮った。

「僕なんか撮っても、面白くないですよ」

 レンズを向けられるのが照れくさくて、かずいは手のひらで顔を隠した。

「いや、面白いね。ガキは表情がコロコロ変わるからな。――お前は最近、ほんとうによく笑うようになった」

 彼はそういって、カシャリとシャッターを押した。

 ファインダー越しに見るかずいの姿。一体、彼の目にどんなふうに映っているのだろう。

「ガキで悪かったですね。タケルさんだって、すごく表情が変わる。笑うと子供みたいだし」

「うるせーよ。ガキが子供っていうな」

「だって、ほんとうに子供みたいなんだもん」

 彼の笑顔は、相変わらず邪気のない子供みたいだった。だけどその無邪気さが、なにも知らない子供の純真さとは違って、すべてを知って、それから諦めたひとの笑顔みたいで、彼を見ていると、時折、わけもなく胸が苦しくなる。

 風向きが変わった。ほんのすこしだけれど、さぁっと引いてゆく潮騒の音も変化したように思う。すっかり太陽の沈んだ夕闇の浜辺。パチパチと跳ねる焚火の音が、やけに大きく感じられる。

「ねえ、いつまで旅を続けるの?」

 オレンジ色の炎に照らし出された彼の横顔。その瞳を見つめるのは照れくさくて、顎のあたりを眺めながら、かずいはいった。

「さあ、いつまでだろうな」

 木の枝で焚火をつつきながら、彼はいう。その視線はぼんやりと炎を見つめたままだ。

「仕事は」

「この足じゃ無理だ。もう、続けられない」

 いったいなんの仕事をしていたのだろう。彼はこの町に来る前のことを、すこしも語ってはくれない。子供になんて話しても無駄だって思っているのかもしれない。あの白い肌のひとにならば、話していたのだろうか。

「あの人のところに、帰るの?」

「雅紀(まさき)か。帰らない。新しい男が出来たって、この間、メールが来た」

「うそだ。――あのひと、いまでもタケルさんのこと、好きだよ」

「ガキがわかったようなことをいうな」

 不機嫌そうな顔で、軽く後頭部を叩かれた。彼はそのままかずいの髪に指を埋め、くしゃくしゃと撫でる。

「ねえ」

「ん」

「いつか、旅は終わるの?」

「さあ。終わるかもしれないし、終わらないかもしれない。――その前に、俺は自分がどこに行ったらいいのかすら、さっぱりわからないんだ」

 いつになく弱気な声で、彼はいった。

 それからカメラを構え、にっこりと微笑む。その笑顔はいつもどおり子供みたいな笑顔で、それなのになぜか、見ていると涙が溢れそうになる。

「だけどな、すこしだけやりたいことが出来た」

「なに」

「この町を出たら、このフィルムを現像する。自分で焼いてみたい。新しいフィルムも買ったんだ。たくさん、お前の写真を撮る。このまちの海の写真を、残していく」

 なんだか無性に哀しかった。この町も、海も、かずいも、彼にとってフィルムに焼きつけた写真みたいに過去になってしまう。そのことが、哀しくてたまらない。

 気づけば飛びついていた。彼の胸に飛び込み、その身体に抱き縋る。

「――好き。タケルさん、同じように好きになって欲しいなんていわない。だから、一度だけでいいから、あのひとにしたみたいに僕を抱いて」

 目を開けたまま唇を近づける。生まれて初めてのキス。同意も待たずに、かずいは勝手に彼の唇に口づけた。

 ただ唇が触れ合うだけのキスだった。そっと口づけて、彼を見上げる。彼の瞳が、じっとかずいを見つめていた。

「馬鹿だろ、お前。――俺がどんな気持ちで、いままで我慢してきたか、わからないのか」

 彼の大きな手のひらが、やさしくかずいの頬を包みこむ。そっと撫でられ、ここちよさに目を細めた。

「俺だってな……聖人君子じゃなんだ。こんなことされて、平気なわけがないだろ」

 引き寄せられ、その腕に抱きしめられる。互いの胸が触れあって、彼の鼓動が伝わってきた。その胸が自分と同じようにドクン、ドクンと高鳴っていることが、かずいにはとても不思議に感じられた。

「目、閉じろよ。キスのときに目を開きっぱなしなんて、マナー違反だ」

 耳元で囁かれ、ぽーっと頬が火照ってゆく。ぎゅっと瞼を閉じると、そっと口づけられた。

 優しくて甘やかなキス。唇と唇を重ねあわせるだけの、かすかなキスだった。何度も何度も口づけられ、髪を撫でられた。彼の指の優しさに、全身が蕩けてしまいそうになる。うっとりと脱力して彼の胸に身を預けると、

「車、行くか?」

 といわれた。頷くと、彼は火を消し、かずいを抱きしめたままワゴンまで連れていった。



 やわらかなウォーターベッドに沈めこまれるようにしてキスをされる。車の外でされたのと違って、窒息そうなくらいに激しいキスだ。

 かずいの口内に彼の舌が入り込んでくる。温かくてやわらかな舌。やさしく舌を絡めとられ、吸い上げられる。

「ふぁっ……んっ……」 

 彼の背中にしがみつき、そのキスを受け容れる。彼の逞しい腕がぎゅっとかずいを抱きしめてくれた。

 嵐のようなキスがやんで、彼の唇が離れてゆく。目を開くと、すぐそばに彼の顔があった。じっと見つめられ、「かずい」と名前を呼ばれる。大好きな彼の声が、自分の名前を呼んでいる。そのことがたまらなく嬉しくて、胸が張り裂けそうになった。

「お前の未来を壊したくないから、必死で我慢してきたんだぞ」

 蕩けそうにやさしい声で囁かれる。耳元に彼の吐息が吹きかかって、くすぐったい。

「我慢なんて、しなくてもいい。――遊びでも構わないから……」

 一晩だけでいいから抱いて欲しい、そう頼むと、思いきりデコピンされた。

「そんなこと、できるわけないだろ。惚れた相手には、誰よりも幸せになって貰いたいんだ。遊びで抱くなんて、できるはずがない」

 やわやわと髪を撫でられる。やっぱりあの人を撫でていたときとは違う感じがしたけれど、とてもやさしくて、あったかな気持ちになれる撫でかただった。

「キスだけ?」

「ああ、キスだけ。それ以上のことはもっと大人になってから、きちんと対等に愛しあえる相手としろ」

 彼はそういうと、かじ、とかずいの鼻の頭をかるく噛んだ。

 どうしよう。そんなふうにされることすら、うれしくてたまらない。

「どうしても、連れてってくれないの?」

「ああ、ダメだ。お前はまだ高二だろ。ガキの本分は勉強だ。ガッコの勉強、だけじゃないけどな。お前にはまだまだ学ぶことがたくさんある。辞めちまうのは簡単だけど、一旦道を外れたら、容易には元に戻れない。一時の気の迷いで、突飛な行動をとるのはやめろ」

 ひざの故障で、仕事を失ったという彼。やりたいことを途中で奪われた彼からしたら、できるのに途中で投げ出してしまうことは、きっと許せないことなのだろう。

「こんなに好きなのに」

「ガキの『好き』なんて、一過性のものだ」

 ふに、と頬っぺたを抓られる。痛いよ、と唇を尖らせると、

「シャッターチャンス」

 といって、彼はおどけた顔で、両手でファインダーをつくる仕草をした。

「写真、楽しい?」

「ああ、お前を撮るのは楽しいよ」

「波も、でしょう」

「ああ、コロコロと移り変わるものを撮るのは楽しい」

「変わらないものなんて、ないよ」

「ああ、ないな。特に波とガキは、ほんとうにコロコロ変わる。――明日になれば、俺のことなんかきれいさっぱり忘れちまう」

「忘れない」

「賭けてもいい」

「なにを」

「なんでも。もし、俺の言葉が外れて、万が一、大人になってもお前の心が変わらなかったら、俺はお前になんでもくれてやる」

「なんでも?」

「ああ、なんでも。命だって、全財産だって、なんでもだ。――それくらいガキの『絶対』なんて、アテにならないってこった」

 彼はそういって、ニッと笑った。

 大好きな笑顔。その笑顔が、なんだか無性に哀しかった。

「フィルム、あと何本?」

「これが最後の一本だ。これを全部撮り終わったら、この町を出る」

「じゃあ、永遠に撮らないで」

「そういうわけにもいかない」

 彼は手を伸ばし、カメラを掴んだ。

「いやだ。お願いだから……」

 どこにも行かないで。

 どんなに頼んでも、きっと無駄だ。わかっているけれど、止まらなかった。だから彼の手からカメラを奪って、その唇にキスをした。

「あんまりくっつくなよ」

「どうして」

「自制がきかなくなる。いっただろう。俺だってそんなに『おりこうさん』にはできてないんだ」

「自制なんか、きかなくなればいい」

「ダメだね」

 彼の手のひらが、かずいの頬を包む。

「なんか、お前の肌、不安になるくらいにすべすべしてんな」

「ん。きらい?」

「ばか。すべすべがきらいなやつなんか、いるわけがないだろ」

「じゃあ、シよ」

「それとこれとは別だ」

 ぎゅっと抱きしめられ、頬ずりをされる。彼の頬は伸びはじめた髭がすこしチクチクして、そんな些細なことにも、自分よりずっと大人なんだなぁって思い知らされるみたいな気分になった。

「愛し過ぎて、穢したくない。――お前は愛されなくちゃ駄目だ。さっきもいったけど、ちゃんと大人になって、対等な立場で心から愛しあって、そういう相手と『はじめて』を迎えるべきだ」

「その相手は、タケルさんじゃないの?」

「ばーか。お前が大人になるころにゃ、俺はオッサンだ。俺がいくつかわかってんのか」

「二十五さいくらい?」

「そんなに若いわけがないだろ。お世辞いっても、なにも出ないぞ」

 彼はそういって、また、むい、とかずいのほっぺたをつねった。

「いたいよ。離して、ほっぺた伸びちゃう。てゆーか、いくつなの?」

「二十九。じきに三十だ。――引いただろ。お前より、お前の親父さんに近いよ」

「ん。確かに……。父さん、確か、三十七だ」

「マジか。うわ、ショック……」

 まじめな顔でいって、彼はぐったりと肩を落とした、

「わ、そんな顔しないでよ」

「うるさい、わかっただろ。俺とお前じゃ、歳が離れすぎてる」

「そんなの関係ない」

「関係なくねぇよ」

「――こんなに好きなのに」

「好きならなんでもいいってわけじゃない。お前だっていつかはわかるよ」

 彼の手のひらが、そっとかずいの髪を撫でる。やさしいその感触に、思わず目を細めた。

「タケルさんは……僕のこと……」

「好きだよ、かずい。お前のことが、好きだ」

「じゃあ……」

「だから、抱かない。何度もいわせんな」

 かずいを抱く彼の腕がかすかに震えていた。声も、すこし震えているみたいに聞こえる。

「タケルさん……?」

「愛してる。お前のことが大切だ。だから、お前には誰より幸せになって欲しい。父ちゃんばあちゃんと、仲良くやれ。大学も行きたいなら、じっくり話しあって行かせて貰え。金なんてもんはな、幾らでもなんとでもなるんだ。親に負担かけたくないなら、もっとたくさん勉強して、国公立にいくなり、奨学金もらえるくらいの成績とるなり、悩む前にやるべきことが山のようにあるだろう。――いいな、お前は好きなように生きろ。なににも縛られることはない。お前は、誰よりも幸せになるべきだ。せっかく、そんな名前に生まれてきたんだ。絶対に、幸せにならなくちゃいけない」

「名前……?」

「ああ。お前は、自分のその名前が、どういう意味なのか、わからないのか」

 かずい。変わった名前だって、からかわれたことが何度もある。正直にいえば、あんまり好きな名前じゃない。

「嘉瑞(かずい)。めでたいしるしって意味だ。お前の幸せを願って、つけたんだろう」

 彼はそういって、かずいの髪を撫でた。

「父ちゃんに、ばあちゃんに、愛されてるんだよ、お前は。だから帰らなくちゃ駄目だ。家に帰って、高校に通って、きちんと子供としての義務をまっとうしろ」

 涙が溢れてきた。言葉がうまく出てこなかった。

 どうしよう。どうしてこんなひと、好きになっちゃったんだろう。好き過ぎて、おかしくなってしまいそうだ。

「一度きりでいいって、いってるんだから。遊びで寝てくれればいいのに」

「お前がどうしようもないクソガキなら、そうしてたかもしれない」

「クソガキだよ」

「もういいから、寝ろ。俺の決意が揺らぐ前に」

「揺らいじゃえ」

「黙れ、ガキ!」

「黙らない」

「いいから、黙れよ」

 ぎゅっと抱きしめられる。彼の唇が、かずいの首筋に触れる。その唇が蕩けそうに熱く火照っていた。

「好き……だいすき」

 いうと、かずいを抱く彼の腕に、ぎゅっと力が籠った。

「ああ、俺も……お前を、愛してるよ」

 だから、おやすみ、もう寝ろよ。と、深みのある彼の声が身体に響く。

「おやすみ、なさい」

 ギュッと抱きしめあい、キスを交わしあう。

 大好きなひとと、抱きあって眠る夜。

 幸せなのと哀しいのとで胸のなかがぐちゃぐちゃになって、なかなか寝つくことが出来なかった。



 ゆさゆさと揺さぶられ、目を覚ます。揺れているのは自分の身体ではなく、どうやら車全体が揺れているようだ。

「おい、起きろ。この扉をあけるんだ!」

「犯罪者め、未成年者相手になにをしている」

 口々に怒鳴る声が聞こえる。

「タケルさん、ねえ、起きて。起きて、大変だよっ」

 彼の肩を叩くと、彼は片方の腕でかずいを抱いたまま、眠たそうに目を擦った。

 そして窓の外に目を遣り、ぎょっとしたように目を見開く。

 ワゴン車の周りにはたくさんの大人たちが詰めかけていた。中には制服を纏った警察官の姿まである。

「おい、鍵を開けないか。開けないとガラスを突き破るぞッ」

 窓ガラス越しに聞こえてくる怒鳴り声に、彼は身体を起こし、タオルケットでタンクトップにブリーフだけを纏ったかずいの身体を包みこんだ。

 そしてワゴン車の鍵を開け、扉を開く。大人たちが一斉に手を伸ばし、彼を車から引き摺り下ろした。そして殴る蹴るの暴行をはじめる。

「やめてください、彼は怪我をしているんですっ。足を、怪我してるんですっ」

 車から飛び出し、かずいは彼を庇おうとした。けれども警察官に腕を掴まれ、引き剥がされてしまった。

「未成年者が家を空けてふらふらしていてはダメだろう。何故こんなところで夜を明かしたんだ」

「それは……」

「この男は未成年者に手を出したんだっ」

「淫行だ。おまわりさん、さっさとコイツをブタバコにぶち込んでくれ」

「ちがう、彼はなにもしてない。僕が誘っただけで、彼はダメだって。子供にはそんなことできないって……」

 かずいのことばに耳を貸さず、皆は彼を責め続けた。言葉のかぎりに暴言を投げつけ、彼を罵倒した。そして警官が彼を連れていく。

「待ってください、おまわりさん、彼はほんとうになにも……」

 どんなにそう主張しても、かずいの言葉に誰ひとりとして耳を貸してはくれなかった。



 警察に引き摺られ、町の人たちに罵倒されながら、彼はパトカーのなかに押し込まれる。かずいと目が合うと、彼はちいさく手をあげ、にっこりといつもの笑顔で微笑んでくれた。

 町の人たちに連れられ、かずいは父と祖母の待つ家に帰った。しばらく家の外に出してもらえず、部屋の中に軟禁状態になった。

 やっとのことで外に出られたとき、あの浜にはもうブルーのワゴンは停まっていなかった。

 そこには彼の姿はなく、ただ、凪いだ海だけが静かな波音を響かせていた。





「――というわけで、ごめんなさい。僕、大学生になった今も、絶賛、はつ恋こじらせ中なんです」

 ぺこり、と頭を下げたかずいに、カウンター席のいかつい顎ひげ乙女が頬を赤らめる。

「うわー、なに、その胸キュン少女漫画みたいなピュアな恋」

「うーん、それがですね、ぜんぜん少女漫画じゃないんですよ。映画や漫画みたいに、そこでエンドマークが出てくればいいんんですけど、そのあとが大変で……ウチの親父なんて、『女房に逃げられたうえに、息子はホモ』扱いですからね。見ているこっちの方が不憫になるいわれようで……」

 あれ以来、町の人たちの噂話の矛先は、かずいの母から、かずい自身に変わってしまった。そんな状況にありながらも、父も祖母も、周囲からどんなに酷い言葉を浴びせられても、かずいを一度も責めることなく守り続けてくれた。

「よいご家族なのね」

「ええ。ホントに感謝しなくちゃなぁって思ってます」

 そんな家族を残し、かずいは大学進学を機に、あの町を出た。

 そのことに後ろめたさがないわけではないけれど、『好きなように生きなさい』と背中を押してくれた父のためにも、この町での暮らしを大切にしていかなくてはならない。

「かずいくん、だからどんなに口説かれても落ちないんだね」

「そういう別れ方しちゃうと、難しくないですか。そのひとより大切に思える相手なんて……この先、出会える自信がないです」

『ちいさな町を出て、自分と同じ性指向の人間がたくさんいる町に行けば、いつかきっと別の誰かを好きになる』

 あのひとの言葉を信じ、かずいは大学入学と同時に、野毛にあるこの店で働き始めた。

 新宿二丁目ほどではないものの、野毛といえば神奈川県内で一番のゲイタウンだ。この町に来て、たくさんの人と出会ったけれど、彼に感じたようなときめきを抱くことは一度もなかった。

「そのひと、そんなにかっこよかったの?」

「かっこいいなんてもんじゃなかったですね。次元を超えてるっていうか。芸能人とかそういうのも、かっこいいんだろうなーとは思うんですけど、その人の場合、姿かたちのかっこよさだけじゃなくて、なんていうかもう、そこに立っているだけでうっとりしてしまうようなオーラがあって……」

 彼への想いを熱心に語るかずいに、ここ数か月、かずいを口説こうと必死でお店に通い続けた会社員風の男がぐったりとうなだれる。

「うわー、そんなのが相手じゃ、敵いっこないなぁ。かずいくんが高二のときっていうと……かれこれ五年前? そのあいだに初恋補正が作動して、彼はどんどんきみのなかで美化されちゃってるんだよね」

「いえ、美化されちゃったんじゃなくて、ほんとうにめちゃくちゃ男前だったんです。外見も中身も、とにかくすっごくカッコよくって……」

 うっとりと語るかずいに、マッチョなママが呆れたような顔を向ける。

「ねー、この子、重症でしょ。器量はいいのにねぇ、かわいそうに。これじゃまともな恋愛なんかできっこないわ」

「どうせママのことだから、カレシが出来て店辞められちゃうより都合がいいわーって思ってるんでしょ。この店のお客さん、ほとんど彼目当てだものねぇ」

「あら、バレちゃった。――なんて、うそうそ、冗談よ。本当はね、早く忘れさせてあげたいなぁって思ってるのよ。だからこうして、この子に昔話をさせるの。こうやって人に話すことで、すこしずつ思い出にできるんじゃないかって思ってね」

「あらぁ、ママ、やっさしー」

「この婆がやさしいときは、絶対に裏があんのよ。かずいちゃん、気をつけなさいね」

 ちいさな店内が、お客さんたちの笑い声に包まれる。

 かずいがあの町を離れ、はじめて見つけた居心地のよい場所。この町の海は、決して地元の海のようにきれいではないけれど、たぶん、大丈夫。きっとこの町でなら、自分は生きていける。

「――泣きぼくろ」

 カウンターの片隅に座っている日に焼けた中年男が、ぼそりと呟いた。この店に来るのは二度目だという、茅ケ崎でサーフショップを営んでいる男だ。

「え?」

 カクテルをステアする手を止め、かずいは彼に目を向けた。

「そのタケルさんっての、ここんとこに泣きぼくろがなかったかい」

 男は左目の下を指差し、いった。

「あり……ました。え、あの、ちょっと待って下さい。もしかして彼のこと、ご存じなんですかっ?!」

 グラスをカウンターに置き、かずいは思わず身を乗り出した。



「ご存じもなにも、カメを知らないサーファーなんて、いるわけがないだろう」

「カメ?」

「――亀井 猛(かめい たける)。引きずってた足ってのは、右足のことだろう?」

「は、はい……」

「大会中の事故でな、制御不能になった水上バイクが、彼めがけて突っ込んだんだ。むしろあの程度の傷ですんだことが奇跡的だった」

「大会? なんの大会ですか」

「サーフィンの、だよ。亀井猛ってのは、事故に遭うまで世界中を転戦していた世界ランキング二十七位のプロサーファーだったんだ」

 彼曰く、日本人サーファーが世界ランキング百位以内に入るというのは、とてつもない偉業なのだという。

「あら、そんなにすごい人なの? じゃあ、探そうと思えばいくらでも探し出せるんじゃない?」

「あ、あの、今でも彼はサーフィンをやってるんですか」

「遊びではやっているだろうけど、競技者としては、もう引退しているよ」

「じゃあ、今はなにを」

 必死になってそう尋ねるかずいに、彼は静かな声音でいった。

「知って、どうするつもりだい」

「どうって、その……」

「そんなの、会いにいくに決まってるじゃない。ねえ、かずいちゃん」

 かずいの代わりに、ママがそう答える。

「やめておいたほうがいい」

「あら、どうして!」

 食ってかかるママに、男はひらひらと手を振って見せた。

「亀井猛っていやあ、レジェンドみたいなもんだ。山のように取り巻きがいたし、テレビなんかにもよく出てたからな。モデルだなんだってのが常に彼のまわりをうろちょろしてたよ。そういう華やかな世界で生きてきた人間だ。五年も前に一カ月やそこら一緒に過ごしただけの相手のことを、いちいち覚えているはずがないだろう。悪いことはいわない。――いい思い出として胸にしまっておいたほうがアンタのためだよ」

 そんなふうにいわれ、かずいは戸惑った。

 もし彼に会いに行って、すっかり忘れられてしまっていたら……きっと、とてもつらい気持ちになるだろう。

 あれから、もう五年も経っているのだ。もし覚えてくれていたとしても、彼には恋人がいるかもしれないし、もしかしたら結婚して子供だっているかもしれない。

「なになに、かめい、たける、と。へぇ、ウィキまであるんだー。ほんとに有名なひとなんですねー……って、わ、ずるいっ。かずいさん、こんなイケメンにキスしてもらったんですかっ!?」

 最年少の店子、海斗(かいと)が素っ頓狂な声をあげる。

「見せて」

 彼のスマートフォンを覗きこむと、そこには懐かしいあのひとの笑顔があった。

「タケルさん……ほんとにタケルさんだ!」

「元プロサーファー、現在、フォトグラファーだって。あ、ねえ、ブログがあるよ。ほら、彼の公式ブログ」

 海斗はそういうと、ページの最下部に記されたURLをタップした。すると画面が変わり、美しい波の写真が大写しになる。

『Takeru kamei Official Blog』ヘッダーには白くちいさな文字で、そう記されている。

「なに、これ。全部英語?」

 困惑気な顔をする海斗からスマートフォンを受け取り、最新記事を読む。

「これ、なんて書いてあるの?」

 海斗に問われ、かずいは日本語に要約して答えた。

「ん。VANSワールドカップに、撮影スタッフとして参加していますって」

「まあ、時期的にそうだろうな」

「それってサーフィンの大会? どこでやってるの」

 ママに問われ、日に焼けた中年男が答える。

「オアフ島のノースショアですよ。サンセットビーチで行われる有名な大会なんです」

「いつまでやってるんですか」

「十二月の頭までは一応ウェイティング期間だけど、まさか……」

「ママ、すみません。突然で申し訳ないんですけど、少しお休みをいただけませんか?」

「初恋の君に会いに行くのね。いいわよ、かずいちゃん。好きなだけ休みなさい。海斗ちゃん、アンタ、代わりに店、入れるでしょ」

「えー、僕ー?」

「なにいってんのよ。アンタが穴あけたとき、いっつもかずいちゃんが被ってくれてんじゃない」

「飛行機のチケットって、直近の便、取ったりすることできるんですか」

「空きがあれば幾らでも取れるわよ。いいわ、アタシが探してあげる。海斗ちゃん、ほら、ノートパソコン持ってきなさい!」

 ママにせかされ、海斗がバックヤードからノートパソコンを運んでくる。

「パスポートは持ってんの?」

 日焼け男に聞かれ、頷くと、

「ハワイはアメリカだから、ESTA申請しなくちゃいけない」

 といわれた。彼に教わりながらネットで申請を行う。その日のうちに、出国の準備を整えることができた。

 ママに物凄く長いお土産リストと餞別、『乙女の海外旅行セット』という謎の袋を押しつけられ、その夜は普段より早く家に帰された。

 帰り際、日焼けした男が、

「空港からサンセットビーチまでバスで行く方法を書いておいてやったぞ」

 とメモ用紙を手渡してくれた。

「ありがとうございます!」

 かずいは彼にお礼をいって、店を後にした。



 空港からバスに揺られること二時間。途中、パイナップル畑しかない田舎道が続いて不安になったけれど、なんとか無事に会場まで辿りつくことができた。

 世界的に有名なサーフィン大会、トリプルクラウンの第二戦となるVANSワールドカップ。サッカーのワールドカップやオリンピックのような盛大なものを想像していたかずいは、目の前に広がるのどかな風景に拍子抜けしてしまった。

 そこはいくつかのコンテナが並び、やぐらが組まれ、ひな壇のような小ぶりな観客席が設えられただけのこじんまりとした場所だった。おまけに人の数もさほど多くはない。

 もしかして、場所を間違えてしまったのだろうか。不安になったけれど、目の前に立つやぐらには『Vans World Cup』の文字が刻まれ、優勝者への副賞と思しきカバーに覆われた乗用車が飾られている。

「間違いない。ここが会場みたいだ」

 じゃあ、どうしてこんなにのんびりとした雰囲気なのだろう。沿道は車で一杯だし、それなりに人もいるが、観戦席にはほとんど誰も座っておらず、物販ブースも閉まっている。

『あのー、今日って大会の日じゃないんですか?』

 勇気を振り絞って、かずいは近くに立つサーフパンツ姿の青年に英語で話しかけてみた。

『今日はないよ。ほら、あそこのホワイトボードを見てごらん。オフって書いてあるだろ』

『えっ?!』

 どうやらサーフィンの大会というのは、期間中、毎日行われるわけではないようだ。大自然を舞台にしているため、ウェイティング期間という定められた期日の中でコンディションがよい日にだけ行われるようだ。開催されるか否かは、当日の朝、決定されるのだという。

『そんなぁ……報道(プレス)のひとたちは?』

『あそこにメディア用のコンテナがあるけど、今日は誰も来てないんじゃないかな』

 青年が指差す方角を見ると、『Press』と書かれたコンテナボックスが置かれていた。

 もしかしたら、タケルさんのことを知っているひとがいるかもしれない。かずいはそう思い、青年にお礼をいってそのコンテナに駆け寄った。けれども青年のいうとおり扉が閉ざされており、人の気配はない。

 隣のコンテナは出場者の控室らしく、その前には赤いポロシャツを着た恰幅のいいセキュリティが立っている。

『すみません。ちょっと人を探しているんですけど……』

 こうなれば、手あたり次第、聞いて回る以外に道はない。ここまで来て会えずに帰るのは、さすがに辛すぎる。

 英語の勉強をしておいてよかった。

『どんなに世界が開かれていたって、英語が喋れなきゃ、外の世界にはいけない』

 タケルの言葉にならい、かずいは英語の勉強に力を入れてきた。大学は語学教育に重きを置く公立大学に進み、内定をもらっている卒業後の進路も、外資系ホテルだ。

『カメイタケルを知りませんか』

 そう尋ねると、彼は『知らないなぁ』と首を振った。そして、炭酸飲料水を片手に浜辺から戻ってきた同僚と思しき男にも尋ねてくれる。

『カメイ……カメ?』

 タートル? と、彼は両手を広げ、ウミガメが泳ぐときのようなジェスチャーをした。

『ワイメアに向かう途中に停まってたよ』

『停まってた?』

『ああ、カメイの車だよ。青い、亀の絵の描かれた車だ。あの辺りの海に入っているんだろう。オフの日は、大抵、波に乗るか、写真を撮るかしている』

 短い髪に白いものが目立つ彼は、最初に話しかけたセキュリティよりも少し年配のようだ。もしかしたらタケルの現役時代を知っているのかもしれない。

『ありがとうございます!』

 ぺこりと頭をさげ、かずいは彼が示す方角へ駆け出した。



 亀の絵が描かれた青い車。もしかしたらあのワゴンに今も乗っているのだろうか。

 それにしても、凄い数の路上駐車だ。大通りから一本中に入った生活道路は、びっしりと車に埋め尽くされている。一台一台、確かめながら小走りに駆け抜けてゆく。途中で大きな馬に乗っている人とすれ違い、ちょっとびっくりした。

「うわあ、そっか、道の反対側は牧場なんだ」

 海に、牧場に農園。空港から車でたった二時間離れただけなのに、ずいぶんのどかな場所に来てしまったようだ。のどかなわりに海岸沿いにはたくさんの住宅が立ち並んでいる。家々の脇には小道があり、そのすべてが海へとつながっているようだ。

「あった、ブルーの車!」

 それは、彼が以前乗っていたワゴン車と同じように、くすんだ青空のような色をした車だった。けれどもあのワゴン以上に巨大で、キャンピングカーのようなつくりをしている。

「亀の絵。まちがいない、これだ」

 車の停まっている先に小道があり、青い標識に『TO BEACH』と書かれている。

 この道の先に、彼がいるのだろうか。左右を住宅に挟まれた狭い道。小走りに駆け抜けると、抜けるように真っ青な空と、その色をそっくりそのまま映したみたいな美しい海が広がっていた。

 そしてその海には先刻のサンセットビーチに負けないくらいに大きな白波が立ち、遊泳禁止の旗が強風に煽られ、はためいている。

「うわあ、ありえないな。これ、何メートルくらいあるんだ?!」

 かずいの住むあの町に来る大波なんて、かわいらしいおもちゃに思えてしまうくらいに巨大な波だ。その大きな波のなかに、人の姿を見つけた。パイプのなかを滑り抜ける褐色の肌をした男。漆黒の髪に目が奪われる。

「タケルさん!」

 思わず声をあげてしまった。慌てて周囲を見渡し、彼の奥さんや子供とおぼしきひとたちがいないことを確認する。女性や子供どころか、監視員やサーファーを眺めるギャラリーすら、この浜辺にはひとりもいないようだ。

 ゆっくりとタケルが顔をあげる。そしてかずいの姿に目を留め、驚いたように目を見開いた。その瞬間、彼の姿が波にのまれる。不安になって、かずいは慌てて波打ち際に駆け寄った。

「タケルさん!」

 どうしよう。僕が余計なことをしたせいで、タケルさんが……。

 絶望的な気持ちになった次の瞬間、波の狭間からクリーム色をした彼のボードが顔を出した。

「かずい!」

 懐かしい彼の声が響く。

 よかった。無事だったんだ! 嬉しくて駆け出しそうになったそのとき、

「危ないから水に入るな!」

 と、彼の怒声が響いた。足元の砂がさぁっと引いてゆく。まるで足元の地面が次々と崩れ落ちてゆくような、おそろしく強い流れだ。

 水深三センチもない波打ち際なのに、足をさらわれて転んでしまいそうになる。あわてて逃げようとしたけれど、湿った砂に足を取られ、うまく動けない。

「うわ、やばっ……」

 ぐらりと体勢を崩し、かずいはその場に転んでしまった。

「なにやってんだ、お前」

 呆れた声で叱られる。あぁ……大人になったところ、見せたかったのに。再会早々、またもや子ども扱いされてしまう。

「いっただろ、水に入るなって」

「だけど……っ」

「だけど、じゃない。冬場のノースはシャレにならないんだ。ボードもなしに迂闊に水に入れば、サーファーだって危険な目に遭う」

 彼の大きな手のひらが、かずいの髪に触れる。くしゃりと髪を撫でられ、なつかしさに胸が締めつけられそうになった。

 ショートボードを小脇に抱えたまま、濡れ髪から雫を滴らせた彼が、かずいを見下ろす。日本とは比べ物にならないくらいに強い日差しに、かずいは思わず目を細めた。

「で。どうしてお前がここにいる。――大学の卒業旅行にでも来たのか」

「え、あ、う、うん……」

 とっさに嘘を吐いてしまった。

 あなたのブログを見たから、ここに来ました。そんなこと、いえるはずがない。

「カノジョと一緒か。それとも、カレシか」

「ん。ひとり……」

「は? 大学の卒業旅行に、一人旅か」

「ウン」

「どうしてこんなところに来た。有名なビーチパークならまだしも、こんな海、ローカルやサーファーでもないかぎり来ない場所だ」

「教えてもらったんだ、白髪のセキュリティのオジサンに」

「白髪のセキュリティのオジサン? ハンクか。なんで、お前がワールドカップの会場に……」

 駄目だ。彼の姿を一目見るだけでいいって思おうとしたのに。こんなふうに昔とまったく変わらない調子で優しく話しかけられたら……どうしたって高望みしてしまう。無理だってわかってるのに、それでも諦められなくなる。



「約束、果たしてもらいにきた」

「約束?」

「ウン。――大人になっても気持ちが変わらなかったら、命でも全財産でも、なんでも好きなものをくれてやるって。タケルさん、五年前、俺にそういったよね」

「は――まさかそのためだけに、ここまで来たのか?」

「ゴメン。俺、ストーカーだね。どうかしてるって自分でも思う。だけど止まらなかった。タケルさんがここにいるってわかったら、元気にしてるってわかったら、どうしても一目逢いたくなって……」

 気づけば金髪のサーファーが海からあがり、サーフボード片手にタケルに近づいてきた。

『彼、だれ。カメのボーイフレンド?』

『ああ、日本から来たボーイフレンド。わるい、今日はもうあがる』

 タケルは軽く手をあげ、金髪青年にそういった。彼は冷やかすみたいに口笛を吹いて、かずいにはわからない早口でなにかをいう。それに答えるタケルの言葉も、単語自体は簡単なのにスラングなのか、どういう意味で使っているのかかずいにはよくわからなかった。

「ほんとうに一人で来たのか」

「ウン、ひとり。羽田空港まではママが送ってくれたけど」

「ママ?」

「バイト先のママ。バーで働いてるんだ。学費は出してもらったけど、仕送りとか親に負担かけたくないから」

「ママって……まさか、二丁目か」

「ううん、野毛」

「野毛、じゃねえよ。なんでお前が水商売なんかやってんだ!」

 むい、と耳たぶを掴まれ、思いきり引っ張られる。

「いたっ……ちがうよ。水商売っていってもいかがわしいお店じゃなくて……ママ、演劇やってたひとで、お客さんもその関係のひとばっかなんだ。父さんも心配して店の様子見にきたけど、ほんと、健全なお店なんだって」

「親父さんまで店に行ったのか」

「ウン、見られて困るような職場じゃないし。さすがに父さんノンケだから、ママのオネェっぷりにびっくりしちゃってたけど……」

「健全な店だからって、水商売なんだ。客から口説かれることもあるだろ」

「どうしてそんなに怒るの」

「怒るに決まってるだろうが。俺が折角必死で自重したのに。なんで、そんな安売りしてんだ」

「してないよ。――誰にも安売りなんかしてない。あれから一度も誰のことも好きになってないし、キスだってしたことないんだ」

「ゲイバーの店子しておいて、か?」

「ん。『重度の初恋こじらせな困ったちゃん』」

「なんだそりゃ」

「ママがつけた、僕のあだ名。初恋をこじらせすぎて、一生ひとり身なかわいそうな子って呼ばれてる。だからこの子はアフターもなにもつきあえないのよって、お客さんにいってくれてるんだ」

「ほんとうに、あれ以降、誰ともなにもしていないのか?」

「ウン。――だってタケルさんがいったんだよ。『心から好きになれる相手が現れるまで、軽々しくするもんじゃない』って」

「俺に新しい恋人がいるかもしれない、とは思わなかったのか」 

「飛行機に乗ってるあいだじゅう、ずっと考えてた。忘れられていたらどうしよう、恋人や奥さんや子供がいたらどうしようって。もしいたらこっそりタケルさんの姿を眺めて帰るつもりだった。それでも会いたかったんだ。馬鹿だってわかってるけど止まらなかった」

 正直に打ち明けると、彼はかずいを見つめ、ちいさなため息をついた。

「まあ、いいや。とりあえずメシ食うぞ」

「え」

 戸惑うかずいを残し、彼はボードを抱えたまま大股歩きで車の方に歩きはじめる。かずいは慌ててその背中を追いかけた。

◇ 

 どうやらいまだに彼のなかで、かずいは常にお腹をすかせた中高生的な扱いのようだ。

「食え」

 連れて行かれたのは、ピザスタンドだった。ほったて小屋のような木造のちいさな店で、店の前に簡素なテーブルとベンチが置かれている。食べかすをねらって、ハトみたいな鳥が、かずいの足元に集まってきている。なんだかものすごくのんびりした雰囲気の店だ。

「でかっ……」

 見たこともないくらいに巨大なピザを、彼はプラスチックの安っぽいナイフで切り分ける。チーズが乗っていないせいで、そんなにくどくは感じなかった。

 そういえばこんなふうにお店やさんで彼とご飯を食べるのははじめてだ。あんまり色気のある店ではないけれど、なんだかちょっとデートしているみたいで嬉しい。

「いま、恋人は?」

 どれだけ呑んでもちっとも減らない巨大なカップに入ったコーラを飲みながら、かずいは一番気になっていたことを訊いた。

「特定の相手はいない。というか、お前のせいで遊び相手に求める最低ラインすらおそろしく高くなっちまって、正直、物凄く迷惑している」

「なに、それ」

「うるさい、黙れ、ガキ」

 むい、と頬を掴まれる。五年振りにされる、そんな仕草。懐かしくて涙が溢れてきそうになった。

 もちろん、「なった」だけで、本当に泣いたりはしない。もう二十二歳なのだ。あと四カ月で大学生活だって終わる。春からは社会人。大人なんだから、そんなことで泣くはずなんてない。泣くはずなんてないのに……。

「オイ、なに泣いてんだ」

 大きな手のひらが、かずいの頬を包みこむ。大好きな手のひら。懐かしいその感触に、余計に涙が止まらなくなった。

「ちが、泣いてなんて……」

 頬っぺたを拭ってくれていた彼の手のひらが、かずいの腕を掴む。ぐっと引き寄せられるようにして抱きしめられた。

 身体を包みこむ、汐の香り。彼の背中越しにピザスタンドの女の子と目が合ってしまった。可愛らしくウィンクされ、照れくさくなって彼の胸に頬をくっつける。

「まったく。なにが、『大人になった』だ。ちっとも変わってないじゃねぇか」

 不貞腐れたように、けれどもやさしい声で彼がいう。

 わしわしと髪を撫でられ、かずいはぎゅっと彼の身体に抱きついたまま、その胸に頬を擦り寄せた。



 連れて行かれたのは、先刻の金髪青年の母親が経営しているというゲストハウスだった。ちいさな一軒家で、庭にジャグジーまである。

「あの野郎、余計なこと喋りやがったな」

 照れくさそうにタケルは頭を掻く。

 室内には沢山のキャンドルが灯されていて、大きなダブルベッドにはピンク色の花びらでハートマークが描かれている。ハネムーナー仕様のベッドメイクだそうだ。

 部屋に入るなり、ぎゅっと抱きしめられ、口づけられた。彼の唇は相変わらず、すこししょっぱくてカサカサしていた。懐かしいその感触に胸が張り裂けそうになる。

「んっ……」

 ぎゅっとその背中に手を廻し、深くその舌を受け容れる。熱い舌に絡め取られ、意識が遠退いてしまいそうになった。

 ベッドに辿りつくころには、Tシャツもハーフパンツも、下着さえも脱がされていた。互いに一糸まとわぬ姿。熱い彼の腕に抱きしめられ、身体の奥のほうがキュンとしてしまう。

「しまった……」

「なに」

「まさかこんなことになると思ってなくて、なんの用意もない」

 かたちのよい眉をかすかに顰めるタケルに、かずいはバックパックから取り出したハート模様の袋、『乙女の旅行セット』を差し出した。

「なんだこれ」

「バイト先のママに持たされた荷物。びっくりしたよ。空港の持ち物検査で引っ掛かって、中身、全部広げられたんだ」 

 袋の中には、ちいさな潤滑剤のボトルが何本も入っている。パッケージにいちごや桃のイラストが描かれたフレーバーつきのものや、ご丁寧に『アナルセックス用ローション』と大きく印字されたものまである。袋のなかにはそれ以外にもコンドームやらアナルプラグやら怪しげなものが満載だ。

「これ、空港の係員に見られたのか」

「最悪だよ。恥ずかしくて死んじゃうかと思った」

 タケルはプッと吹き出し、くしゃくしゃとかずいの髪を撫でた。

「なんか楽しそうにしてんだな。――安心したよ。お前にも、ちゃんと自分を曝け出せる場所ができたみたいで」

 彼の言葉に、すこし胸が苦しくなる。

 どこにも居場所のなかった高二年の夏。あのブルーのワゴンだけが、かずいの救いだった。今だってあの日々はかけがえのない心のよりどころだけれど……どんなに望んでも、もうあの夏の日に戻ることはできないのだ。

「折角だから、これを使わせてもらうか」

 タケルはボトルをひとつ選びとり、かずいの身体をそっと抱き寄せた。

 わかってる。いま、ここで彼と抱き合ったからといって、あの夏に戻れるわけじゃない。

 カメラを手に、世界中の海を飛び回っているサーフィンフォトグラファーの彼。きっと一晩だけの関係になってしまうのだと思う。最初から覚悟していたことだけれど、なんだかすこし切なくなる。

 やわやわと髪を撫でられ、心地良さに目を細める。そっとベッドに押し倒され、背中の下で花びらが潰れるのがわかった。

「せっかくの花が……」

 身体を浮かせようとして、その動きをキスで封じ込めるようにベッドに沈めこまれる。

 日焼けした肌に、湿りけのある花びらが冷たく感じる。彼の肌の熱さとのギャップに、なぜだかゾクゾクと背筋が震えた。

 甘やかなキスを与えられながら、頬や顎を慈しむように撫でられる。大きな手のひら。あの夏、触れて欲しくてたまらなかった彼の手のひらが、かずいの肌を辿ってゆく。

「ぁっ……!」

 肩や太腿をやさしく撫でられ、思わず声があがってしまう。自分の声とは思えない甘ったれた声に、かぁっと頬が火照る。

「あ、ちょ、ちょっと……まって」

 ダメだ、溺れちゃう。ベッドの上にいるのに、底なしの沼にズブズブと沈み込んでゆくみたいな感覚に、不安でたまらなくなった。ぎゅっと彼の腕にしがみつき、肩で息をする。

「どうした?」

 彼の声がやさしく響いて、ジンと身体を震わせるその声にさえ、かずいは過敏に反応してしまった。



「な……んでもない」

 ただ触れられただけでこんなふうになってしまうなんて、呆れられてしまわないだろうか。

 ぎゅっと唇を噛みしめて俯くと、ふわりとやさしく頭を撫でられた。

「無理しなくていい。――こうやってお前を抱きしめられるだけも十分なんだ」

「む、無理なんてしてないからっ……」

 慌てて彼の手を掴み、ゆっくりと自分の内腿に導いてゆく。はしたないことをしている。わかっているけれど、止まらなかった。

「かずい」

「ん」

「あのな、セックスって、別に繋がることだけをいうんじゃないんだ」

 やわやわと髪を撫でられ、そっとまぶたにキスをされる。くすぐったさに、ぶるっと身体が震えた。

 挿入だけがセックスじゃない。――ママたちがそういう話をしているのを訊いたことがある。だけどあの夏、彼があのひとを貫いているところを見てしまったから、出来ることなら自分も同じようにしてもらいたいのだ。

「わかってるけど……どうしてもタケルさんと、そういうことがしたいんだ」

 自分からキスをしようとして、「相変わらず目、閉じないのな」と笑われる。

「ん。だって、目、閉じたら唇の場所がわかんなくなるよ」

「こうやって指で触れればわかるだろ」

 頬を包み込まれ、唇をそっと指先でなぞられる。たったそれだけの仕草に、震えが止まらなくなってしまう。どうしてこんなにも過敏になってしまうのだろう。シーツが擦れる感触さえ、かずいの身体を蝕んでゆく。

 目を閉じると、そっと口づけられた。与えられたのは、野性味あふれる彼の外見からは想像もつかないくらいに甘やかで優しいキスだった。口づけられるたびに、『愛している』と囁かれているような錯覚を起こしてしまいそうなキスだ。

 必死になって彼の舌を求めるうちに、腰の奥のほうが、ずくりと疼きはじめる。自然と足先が動き、シーツの上で暴れてしまう。彼の腕を掴む手のひらに、ぎゅっと力が籠った。

「ぁ……」

 すっかり勃ちあがったそれが、硬く締まったタケルの腹に触れる。慌てて腰を引こうとして、ぐっと圧し掛かるようにして動きを封じこまれた。

「こんなに、大きくなってる」

 低い声で囁かれ、そっと触れられる。誰にも触れられたことのない敏感な場所。ビクンと跳ねあがったそれを、彼はゆるゆると刺激しはじめた。

「ぁ、ちょっとまっ……ん、あ、ぁ……っ!」

 ほんの数回、ゆるく扱きあげられただけで強烈な射精感に見舞われた。必死で押しとどめようとして、とめ切れずに暴発してしまう。

「ぁ、ぁ、ぅ……ぁぅっ……ご、ごめん、なさ……」

 どうしよう。彼の手のひらを汚してしまった。不安になるかずいの目の前で、彼は白濁にまみれた手のひらをねっとりと舐ってみせた。◇

「だめ、それ、汚いからっ……」

 止めようとして、手首を掴んで封じ込められる。彼はかずいの瞳をじっと見つめたまま、未だ情けなく劣情を溢れさせるかずいのそこに、そっと舌を這わせた。

「んーーーーーッ!」

 ねっとりと舐めあげられるうちに、かずいのそれが、ふたたびかたちを取り戻し始める。

「ぁ……ぅ、んぅっ……!」

 柔らかく濡れた熱いなにかにぬっぽりと包み込まれ、ゆるく締めあげられる。驚いて目を向けると、かずいのモノが彼の口内に咥えこまれていた。

「や、ぅ、タケルさ……そんな……ぁっ」

 ダメだと思う。これ以上されたら、おかしくなってしまう。

 ぎゅっと彼の肩に爪を食い込ませ、なんとか快楽をやり過ごそうとする。けれども、どんなに頑張っても湧きおこる劣情を抑え込むことはできなかった。

「だめ、イク、い……あぁっ……!」

 高みに追いやられ、あっという間に昇天してしまう。止め処なく溢れ続けるかずいの熱を一滴も残さず飲み干すと、彼はぎゅっと抱きしめてくれた。

 続けざまに二度も絶頂を迎えた身体は、ぐったりと脱力し、いまにも蕩けてしまいそうだ。このままかたちがなくなって、シーツに溶け込んでしまうかもしれない。

 ふわふわする意識のまま、かずいはタケルのキスを求めた。舌先を絡め合わせるだけで、ふたたび絶頂に達してしまうような錯覚に陥る。これ以上、なにも出すものなどないはずのかずいの先端から、じわりと白濁交じりの温かな蜜が溢れだす。

「かずい、ほら、こんなに……濡れてる」

 囁かれ、耳朶を軽く甘噛みされる。耳殻にそって舌を這わされ、自然と腰が浮き上がった。仰け反るようにして晒した喉仏に食らいつくようなキスをされる。

「そんなにしたら……痕が……」

「痕を見られて困るような相手がいるのか」

「い、ない……けど……」

 乱れた呼吸。息も絶え絶えになりながら答えると、タケルはふっと笑った。

「じゃあ、残させてくれ。ここにも、ここにも……お前の身体全部に、痕を残したい」

 喉仏から鎖骨へ、鎖骨から脇腹へ。唇を宛がわれ、きつく吸い上げられるたびに、ぞわぞわと身体のなかを得体の知れない快楽が突き抜けてゆく。

「ん……ぁ」

 どうしよう。どこもかしこも、触れられる場所全部が蕩けてしまいそうだ。◇

 シーツを掴んで掻き毟ると、「こっちだろ」と、彼の背中に手を持っていかれた。

「ほら、かずい。お前からキスしてみろよ」

 唇を突き出すようにして挑発される。かずいはぎゅっと目を閉じ、手さぐりに彼の唇を探し、ちゅ、と口づけた。

 一旦唇を重ねあわせると、一秒だって離れるのが惜しくなってしまう。何度も、何度もくりかえしキスをして、舌を絡め合わせて、互いの唇がふやけてしまうくらいに、その熱を求め続けた。

 彼の昂りが自分の下腹に触れているのがわかる。熱く猛ったそれが自分のなかを貫くところを想像して、つぅ、と粘液が滴る。

「ぁ……ごめん、なさい……」

 タケルの肌を汚してしまいそうになって、慌てて腰を引く。すると腰に手を廻され、ぐっと抱き寄せられた。

「恥ずかしがることはない。俺だって、ほら……こんなにもお前に欲情してる」

 ぴったりと密着した身体。互いの先端が触れあって、ぬちゅりと淫靡な音をたてる。彼はかずいに口づけながら、二人の先端を重ねあわせるようにして手のひらで包み込んだ。

「ん……ぅ」

 キスされながら、ゆっくりと扱きあげられる。ぴったりと押し当てられた彼のモノの逞しさや熱さに、この先に行われる行為を生々しく思い描き、パニック状態に陥りそうになった。

「はっ……ぅ、たけるさ……んっ」

 自分でするときだって、続けざまに二回も達したことなんてない。もうこれ以上イけるはずなんてないのに、絶頂を迎える直前みたいな痺れが、かずいの身体を突き抜けてゆく。

「かずい」

 あいしてるよ、と彼の声が響く。いま、このときだけ有効な言葉。明日になれば消えてしまう愛情でも、かずいはそれを嬉しいと思った。

 二人きりの室内。あの夏の日と違って、この異国の地に二人を咎める者は誰もいない。

「好き。タケルさん。大好き、だから……」

 唇を突き出すようにしてキスを求め、その背中にぎゅっと抱き縋る。気づけば彼の手のひらは二人の屹立から離れ、かずいの身体をきつく抱きしめてくれていた。

 抱き合ってキスを交わし合い、互いの肌を擦り合わせる。指も、舌も、胸も、腹も、脚も全部。互いの全部を重ねあわせて、一ミリだって離れていたくない。

 つめたいものが、かずいの尻に触れる。

「ぁ……」

 びくんと身体を強張らせると、耳元で囁かれた。

「痛かったり、いやだったら、すぐにいえよ」

 じっと見つめられ、かずいは、こくんと頷いた。

 身体のなかでもいちばん汚い場所に触れられている。そう思うと、いたたまれない気持ちになってしまうけれど……何度もキスをされながら、「大丈夫か」ってやさしく気遣われるうちに、『自分は大切にされているんだ』っていう嬉しさに胸が一杯になった。

 たくさんの取り巻きに囲まれていたというタケルさん。自分なんか、もっと乱暴にオモチャみたいに扱われてしまうんだと思った。

 たった一晩でも、こんなふうに恋人にするみたいに優しく愛して貰えるのは、なんだか本当に嬉しい。 

 額に、頬に、唇に、何度も口づけながら、「愛してる」って囁きながら、彼はすこしづつ、すこしづつ、かずいのなかを解してくれる。ほんのすこし、指先だけを埋めた状態で、何度も刺激された。とても優しくしてくれているから、痛みはない。だけど内側から押し広げられる違和感は、今までに体験したことのあるどんな感覚とも違って、頭のなかが蕩けて、脳みそまで押し広げられてしまうような、なんだか物凄く不思議な感じだった。

「ぁ……ぅ……んっ……」

 全神経がそこに集中してしまう。鋭く研ぎ澄まされているようなのに、身体が宙に浮いたみたいにふわふわしていて、自分の身体が自分のものではなくなってしまったみたいだ。

 どれくらいの時間が経過したのかわからない。不安になるくらいに長い時間をかけて、彼はそこを愛撫してくれた。その間もキスは止まなくて、かずいがすこしでも辛そうにすると中断して、震えが止まるまでやさしく抱きしめ、髪や背中を撫でてくれる。

「もう、大丈夫だよ」

 腰を浮かせるようにして、そうねだる。



「無理、しなくていい」

「無理なんてしてない。これ以上焦らされたら……むしろ、辛いよ」

 なんてはしたないことをねだっているのだろう。自分でいっておいて、いたたまれない気持ちになる。唇を噛みしめて震えるかずいの額に、タケルはそっと唇を押し当てた。

「本当に、いいのか」

「――そのために逢いにきたんだよ」

「俺と寝るためだけに、か?」

「ちがっ……それだけじゃないけどっ……」

 真っ赤になってうろたえるかずいを、彼はぎゅっと抱きしめてくれた。

「わかったよ。でも、無理はするなよ。辛かったらすぐいうんだぞ」

「ん。いうよ、いうから……」

 その先の言葉は、さすがに口に出していえなかった。恥ずかしさにかぁっと頬が火照る。

「かずい」

 耳元で名前を囁きながら、彼はかずいのそこに彼の熱を押し当ててくれた。

 初めての相手が彼で、本当によかったと思う。ママやお店のお客さんから、酷い目に遭わされた話なんかをよく聞かされていたから。一晩だけでもこんなふうに大事にして貰えて、本当によかったと思う。

 指とは違う熱いモノが、かずいのなかにゆっくりと入り込んでくる。

「ふぁ……っ……ん……」

 じっくりと解して貰えたからだと思う。思った以上に痛みはなかった。だけどなんだか物凄く熱くて、じっとしていられなくなる。彼の腕に爪を突きたて、掻き毟るようにして縋りつく。

「キス……」

 キスしたい。そういいたかったけど、声がかすれてうまくいえなかった。

「ああ」

 それでも彼はうなずいて、かずいの望み通りにしてくれた。ぐっと身体を折るようにして口づけてくれる。

「んっ……!」

 その拍子にすこし挿入が深くなって、擦りあげられるような痛みに脳天まで痺れた。◇

「大丈夫か?」

「ん、へいき……ぁっ!」

 身体が仰け反って、唇が離れてしまう。かずいは目いっぱい手を伸ばし、彼の背中に抱きついた。

 唇を突き出してキスをせがむと、すぐに口づけてくれた。

 かずいの身体を気遣ってくれているのだと思う。ほんのわずかに埋めた状態のまま、それ以上先に進むことなく、痛みが引くのを待ってくれている。

「ありがと……」

 全身を蝕む熱のせいで、声がうわずってしまう。恥ずかしいけれど、それでもお礼の言葉をいいたかった。

「なにが」

「ん。――タケルさんに出会えたから、いまの僕が……あるんだ」

 そんなことをいうのは照れくさいけれど、やっとひとつになれた今、どうしても感謝の気持ちを伝えたかった。

「それは、こっちの台詞だ」

 彼の手のひらが、かずいの頬を包む。優しいその感触に、思わず目を細めた。

「ん……?」

「あの夏、俺がお前の笑顔にいったいどれだけ癒されたか……とてもじゃないけど、言葉じゃ言い尽くせないよ」

 突然の事故から半年。思うように身体が回復せず、引退を決意した彼は、古いワゴン車を買って放浪の旅に出たのだという。

 どこの浜にいっても、『元プロサーファーの亀井猛』として扱われる。有名なサーフポイントを避け、それでも波に乗れる場所で過ごしていたい。――そんな彼が流れ着いた場所が、あの田舎町だったのだという。

「タケルさん……」

 涙腺が緩んでしまいそうになった。自分にとってなによりも大切なあの夏が、彼にとって同じように意味のあるものだったとしたら。――嬉しくておかしくなってしまいそうだ。

「痛いのか?」

 心配そうな顔で見つめられ、ちいさく首を振る。

「ううん、痛く、ない。だからもっと……そばに」

 そばに、いきたい。心からそう思った。繋がるとか、そういうことじゃなくて。ほんのすこしでもいいから、彼のそばに行きたい。いま、この時だけでいい。彼の全部に触れたかった。

 ぎゅっと彼の身体を抱き寄せると、また少し挿入が深くなった。押し広げられる痛みと、窮屈な感じ。唇を重ね合わせようとすると、無理な体勢になる。すこし苦しいけれど、圧し掛かってくる彼の重みさえ、愛おしく感じられた。◇

「かずい」

 口づけの狭間に、何度も名前を呼ばれる。そのたびにくすぐったくて、嬉しくて、胸がいっぱいになって、うまく呼吸ができなかった。

 大好きなひとと一つになれるということが、こんなにも幸せなことだなんて、今まで想像すらしたことがなかった。

 すこしずつ、彼はゆっくりと腰を遣いはじめる。擦りあげられるたびに悲鳴を上げてしまいそうになって、そのたびに優しいキスで口を塞がれた。

「ぁっ……ん、ゃ……っ」

 重ねあった唇から、こらえきれずに溢れた吐息。自分の声とは思えないくらいに甘ったれたその声に、かぁっと頬が火照る。

「我慢、しなくていいんだ。かずい。もっとお前の声を聞かせてくれ」

 耳元で囁かれ、余計に照れくささが増してゆく。

「や、だ」

「いや、なのか? やめて欲しいか」

 じっと見つめられ、小さく首を振った。

「ちがう、けど……こんなの、恥ず……ぁっ」

 身体を揺さぶられるたびに、突き抜けてゆく甘い戦慄。声も、肌も、全部、蕩けてなくなってしまいそうだ。

「恥ずかしいことなんかじゃない。誰だって愛しあってるときは、そういうふうになるものなんだ」

「でも……こんな、の、嫌われちゃ……っ」

 ふるふると首を振って逃れようとするかずいを、タケルはぎゅっと抱きしめてくれた。

「嫌ったりなんてしない。――お前のこと、嫌いになんかなるわけがないだろ」

 顔をよく見せて欲しい、と頬を包み込まれ、向き直らされる。恥ずかしくて目を合わせることなんかできそうになくて、ぎゅっと目を瞑って逃れると、まぶたにそっとキスをされた。

「ずっと……こうしたかった。かずい。お前を抱きたかったよ」

 ずるい、と思う。いま、この状態でそんなことをいうなんて。

 堪えていた涙が、あっという間に溢れ出してしまう。溢れて、溢れて、どんなに頑張っても止まらなくて。必死で顔を隠そうとしたけど、抵抗ごと封じ込まれるようにしてベッドに押さえこまれた。

「かずい」

 何度も、何度も名前を呼ばれた。ぎゅっと握りしめられた手のひら。シーツに押さえこまれながら、激しく貫かれる。

「ぁっ……ゃ、やめっ……!」

 涙でぐちゃぐちゃになって、真っ赤に火照って、きっといま、自分はとても酷い顔をしている。

 もっと、平然と受け止めたかった。なんでもないことみたいに受け止められたらよかった。

 きれいな想い出にしたかったのに。そんなこと考えられないくらいに、感情も身体もぐちゃぐちゃになって、泣きじゃくりながら、無我夢中で彼の大きな背中に抱き縋り続ける。

 恥ずかしい姿なんて、見られたくないのに。顔を隠す余裕も、膝を閉じる余裕も吹っ飛んでしまった。

「タケル、さ、ぁ、んっ……タケ……」

 ギシギシと激しくベッドの軋む音が響く。最初のうちに感じた痛みも、苦しさも、もはやどこにも残ってはいなかった。そんなもの全部、吹き飛ばしてしまうくらい大きな快楽に支配されて、気づけば自然と身体が揺れてしまう。彼の突き上げに合わせ、もっとそばにいきたい、と、せがむように身体を揺すってしまう。

「かずい」

 ひときわ深く、彼を受け容れる。自分を貫く熱も、ぽたぽたと落ちてくる汗も、蕩けそうに熱い彼の肌も、全部。全部を受け容れて、ひとつになってしまいたい。

「ん、ぁ……あぁッ!」

 一気に引き抜かれ、ふたたび一息に埋めこまれる。素早く何度も穿たれるうちに、脳みそまで揺さぶられるような強烈な快楽に包まれた。

「イク……ぁ、イッちゃっ……!」 

 普段自分の手のひらで絶頂を迎えるときとは、全然違う感覚だった。だけど、イク、以外のどんな言葉でも表現できないなにかに、意識を乗っ取られてしまう。

「んぅっ……ぁ、ぁ、ぁー……っ」

 ふわり、と真っ白なひかりに包まれる。なにもかもわからなくなって、自分の身体が宙に浮いているみたいになった。

 びゅるり、と身体のなかで、熱いものが爆ぜるのがわかる。それはドクドクと、かずいのなかを満たしてゆく。

 まぶたを開けたつもりだった。だけどなにも見えなくて、ただ眩しい光だけを感じた。

 手のひらを伸ばして、触れたかった。すぐそばにある、その、温かなものに。けれども、力が入らなくて、うまく手を伸ばせない。

 涙が、溢れてきた。溢れているのは涙だけじゃなくて、なにか、温かなものを感じた。自分の茎を濡らすそれは、じわり、じわりと溢れ続ける。

「かずい」

 彼の声が聞こえた。大好きな声。声はするのに、姿が見えない。どんな顔で、名前を呼んでくれているんだろう。力の入らない手を一生懸命伸ばして、かずいは彼の姿を探した。

「かずい」

 もう一度、彼の声が聞こえた。それから、手のひらを、優しく握られた。すぐちかくに、いてくれる。そのことがわかるのに、彼の姿を見られないのが、もどかしくてたまらない。

 ギュッと目を瞑って、何度も瞑って、ゆっくりともう一度まぶたを開いた。

 すると目の前に、彼の姿があった。

「痛く、なかったか?」

 かずいの頬をやさしく撫でながら、彼は微笑む。

 なにか言葉をかえしたかったのに、うまく声が出てこなかった。だから手を伸ばして、彼の身体に抱きついた。ぎゅっと抱きつくと、彼はかずいの髪を、わしわしと撫でてくれた。大好きな節ばった手のひらが、何度も、何度もかずいの髪を撫でてくれる。

「タケルさん……」

 やっとのことで、彼の名前を呼ぶ。話したいこと、たくさんあったはずなのに。いろいろな想いがこみあげてきて、うまく言葉にできないまま、かずいは彼の腕のなかで号泣してしまった。



 

 目覚めると、温かな腕のなかだった。ここちよさに、もう一度まぶたを閉じてしまいそうになって、慌てて飛び起きる。

「大変、大会が開催されるかどうか、見に行かないと……っ」

 確か、昨日サーフパンツ姿の青年は、会場のホワイトボードに毎朝、行われるかどうかの判断が書きこまれるといっていた。

「ん、大丈夫……もう見た」

 かずいを抱きしめたまま、タケルがいう。

「うそ。まだ見にいってないよね?」

 半分眠ったような声を出すタケルの目を半信半疑で覗きこむと、

「さっき、スマホで見たんだ」

 と返事が返ってきた。どうやら開催の可否は、インターネット上でも発表されるようだ。

「今日は?」

「やすみだ。じっくり昨日の続きができる」

 タケルはそういうと、かずいの太腿に、ぐっと熱く猛ったモノを擦りつけてきた。

「わ、うそ。や、えっと……」

 まさか、朝っぱらからそういうことをするというのだろうか。困惑するかずいの髪を撫でると、タケルは圧し掛かるようにして口づけてきた。意識が遠退いてしまいそうなくらいに濃厚なキス。彼の背中に縋りついてちいさく喘ぐと、愛撫もそこそこに宛がわれた。

「ゃ、ぅ、ちょっとま……ぁっ……!」

 昨日、散々開かされ続けたそこは、思った以上にあっさりとタケルのモノを呑みこんでしまった。繋がったまま交わすキス。脳みそがとろりととろけてしまうみたいな、不思議な感覚に陥る。

「ゃ、め……んっ……ぁ、ぅ」

 抗うそぶりをしながらも、かずいの身体は奥深くまでタケルを呑みこみ、一ミリも逃さまいと締めあげてしまう。激しく揺さぶられながら、かずいはタケルの名前をひたすら叫び続けた。

◇ 

 その日は結局、日が暮れるまでベッドのなかで過ごす羽目になった。夕闇に染まる空の下、二人でぬるめのジャグジーに浸かる。

「いつも、こんなふうなの……?」

 すっかりかすれた声。茜色と紫色、灰色が幾重にも混じりあった空を見上げながら、かずいはそう尋ねる。

「ごめん――まさかお前に再会できるとは思ってなくて……つい、調子に乗り過ぎた」

 タケルは申し訳なさそうにいうと、ぎゅっとかずいの背中を抱きしめ、その肩に顎をのせるようにしてくっついてきた。

 もう指一本動かすのも億劫だ。朝から何も食べていないせいでお腹がぺこぺこだけど、どこかにご飯を食べにいく元気すらない。ぎゅるる、とお腹が鳴って、

「夕飯を届けてもらおうか」

 とタケルがいってくれた。

「ん。さすがに……もう、しないよね?」

 これ以上されたら、たぶん死んでしまうと思う。彼の背にもたれながら、身体をのけぞらせるようにしてその顔を見上げると、

「約束できかねる」

 と、微妙な返事がかえってきた。

「なに、それ」

「いや……いっただろう。相当苦しかったんだって。お前に対する劣情を抑え込むのは。五年間、お前が初恋をこじらせ続けたのと同じように、こっちだって同じくらいお前の幻影に苦しまされたんだ」

「なにが」

「据え膳を喰わないなんて、生まれてはじめての経験だったからな。……あれ以来、他の男を抱こうとするたびに、お前に抱きつかれたときのことが頭をよぎって、その相手とお前を比べずにはいられなかったんだ」

 そのせいでいったいどれだけの獲物を逃したと思ってるんだ、とよくわからない逆切れをされた。

「もう無事に食べ終わったから、これからは、他のひとのこともおいしくいただけるね」

 いやみ半分、にっこり笑ってそう返すと、真面目な顔で否定された。

「いや、無理だろう。ますます具体的に比較して、よそでは勃たなくなる」

 ずるいと思う。真顔でそんなことをいわれたら、いったいどんな反応をしたらよいのかわからなくなる。

 この先、一緒にいられる見込みなんてないのに。自ら望んだこととはいえ、やっぱり辛かった。

「いつまでこっちにいられるんだ」

 タケルの手のひらが、かずいの手のひらをそっと包みこむ。戸惑いながらも、かずいはその手をぎゅっと握り返した。

「タケルさんが帰れっていうまで、いつまででも」

 あのころの自分なら、きっと本気でそう答えただろう。けれども、いまは違う。学生ながらもアルバイトがあり、すでに内定をもらっている就職先もあるのだ。もし自分がこのまま帰らなければ、ママや海斗に多大な迷惑をかけることになるし、就職先だって、いきなり新人が一人減ったらいろいろと不都合があるだろう。

 それに父が一生懸命働いたお金で、大学まで通わせてもらったのだ。なにがあっても、学校だけはきちんと卒業しなくてはならない。

「――っていうのは嘘で……。ほんとうはずっといたいけど、長くいられても、一週間くらい。滞在費もそんなに沢山持ってきてないし、バイトとか学校とか、色々あるから」

「――大人になったな」

 ぼそり、と彼はいった。

「ウン。大人だから……わかってるんだ。この先、一緒にはいられない。それでも……タケルさんのことが好き」

 どうして彼の前だと、こんなにも涙腺が緩くなってしまうのだろう。

 涙腺だけじゃない。感情をとどめるための蛇口が、ぜんぶ壊れてしまったみたいに、すべての感情がダダ漏れになってしまうのだ。

 唇を噛みしめ、静かに肩を震わせるかずいを、タケルはぎゅっと抱きしめてくれた。

「寂しくても、浮気はするなよ」

「えっ……?!」

 想像していたのとまったく違う言葉に、驚いて振り返る。

「三月の中旬には、一旦、日本に帰国する。四月の頭にはオーストラリアに行かなくちゃいけないから……二週間くらいしか滞在できないけどな。――お前、寂しがり屋っぽいからなぁ……三ヶ月ちょっと、我慢できるか?」

 やわやわと髪を撫でられ、信じられずに瞬きを繰り返す。

「そ、それって……僕と付き合ってくれるってこと?」 

「は? 今更なにいってんだ。付き合うから、寝たんだろ。まさかお前、単なる思い出作りのためだけに俺に逢いに来たのか?」

「ち、ちがう。ちがうけどっ……わ、うそ、どうしよう。ほんとに?!」

「ほんとに、もなにもあるか。――そのかわり、最初にいっとくけど、俺、相当やきもち焼きだからな。いいな、絶対に浮気するなよ。他の男に抱かれたら、すぐわかるからな」

「や、浮気とか、そんなのするわけないし」

 どうしよう。嬉し過ぎてどうしていいのかわからない。あまりにも嬉し過ぎて涙が止まらなくなって、「お前は本当によく泣くなぁ」と呆れたように笑われてしまった。   



 滞在最終日、彼は空港までブルーのキャンピングカーで送ってくれた。一年のうち半分をノースショアで過ごすという彼の根城だ。

「ばいばい、また会いに来るね」

 彼の描いた、ちょっといびつな亀の絵に、そう挨拶する。

「おい、そっちの亀はいいから、こっちの亀をもっと愛でろよ」

 ハグを求められ、ぎゅっと彼の身体を抱きしめる。

 次に逢えるのは三ヶ月後。この先、きっと年に何度も逢えないんだと思う。それでもいい。『ひとつの場所にいるのが苦手だ』という彼が見つけた新しい生き方。できるかぎり応援してあげたらいいと思う。

「じゃあな、次は日本で」

「ウン。元気でね」

 さよならもいえなかったあの夏の日と違って、今度は笑顔でお別れすることができる。

 空港の出発ロビーには旅行会社のタグがついたスーツケースを手にした日本人観光客が沢山並んでいて、身を寄せあって歩くかずいたちを好奇の眼差しで見つめている。

 彼らの視線が気にならないといったら嘘になるけど、そんなことより、愛しい彼と一秒でも長く触れ合っていられることのほうが重要だ。

 列の最後尾でぎゅっと抱きしめあい、長いお別れのキスを交わし合う。

「さよなら、またね!」

「ああ、浮気せずに、大人しく待ってろよ!」

 笑顔で手を振る彼に大きく手を振り返し、かずいはその島を後にした。





【完】

 





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