ビターな恋のつくりかた


 大磯駅から徒歩十五分、閑静な住宅街の一角にその店はあった。

 鬱蒼とした木々の生い茂る敷地に建つ古めかしい日本家屋。古民家のようなその屋敷の軒先に、ささやかな看板が掲げられている。

「笹島珈琲店。ここか……」

 祖父に手渡されたメモをポケットにしまい、ちいさく深呼吸する。日曜は定休日だと訊いているから、今なら押しかけてもお客さまの迷惑にはならないはずだ。

「すみませー……」

 引き戸を開けた瞬間、とんでもない光景が目に飛び込んできて、大久保 晴真(おおくぼ はるま)は思わず悲鳴を上げてしまった。

「うわあぁああっ……!」

 慌てふためき、よろめいて壁に肩を強打する。その拍子になにかが足元に転げおち、ガラスの割れる音が響いた。

「なにやってんだ、お前」

 掠れた男の声が響く。低くてずっしりとした深みのある声だ。

 椅子に腰かけたその男は、女性の豊満な胸に埋めていた顔をあげ、晴真に怪訝そうな眼差しを向けた。男の足元にはもうひとり半裸の女性が蹲っている。肌蹴られたズボン。その股間に顔を埋め、彼女は恍惚とした表情で男の分身を舐っている。

 ――ありえない。

 高校時代、クラスメイトが持ってきたアダルトDVDのなかで複数の女性と行為に耽る男優の姿を目にしたことがある。だけどそんなのはフィクションの中だけに存在するもので、まさか現実に行う人間がいるなんて想像すらしたことがなかった。

 無残に割れた古めかしいドリップポット。どうやらとても大切なもののようだ。男は物凄い勢いで晴真に掴みかかってきた。

「勝手にひとの家にあがりこんで、大切なモンを壊しやがって」

 胸ぐらを掴まれ、引き寄せられる。

 身長百七十六センチの晴真より、男は十センチ以上背が高い。

 三十代半ばくらいだろうか。見上げたその顔には無精ひげが散っている。整髪剤をつけず無造作に流した少し長めの黒髪。そんなだらしない格好をしていてもなお、その男の容貌は息を呑むほど美しかった。

 浅黒い肌。彫りの深い顔立ちはがっしりとした体躯と相まって、どこか異国情緒を感じさせる。

 吸い込まれるような漆黒の瞳。その目で見据えられると、心臓を鷲掴みされたかのように身動きが取れなくなる。

 男の迫力に気圧されたのか、女性たちは着衣の乱れを直し、そそくさと店を出て行く。

「申し訳ありません。あの、弁償しますっ」

 必死で謝ると、男は晴真の胸ぐらを掴む手からフッと力を緩めた。

「そんなもの、弁償してもらったところで、なんの意味もない」

 軽く胸を小突かれ、体勢を崩して倒れそうになる。かろうじて踏ん張った晴真に、男は呆れたような眼差しを向けた。

「で、いったい何をしにしきたんだ、お前。定休日の札が見えなかったのか」

 下半身こそしまったものの、男はシャツの前を肌蹴させ、いかにも情事のあと、といった如何わしげな雰囲気を漂わせている。

 男の身体から立ちのぼるほろ苦い珈琲の香りと相まって、なんだかとても艶めかしい。

 なにかスポーツでもしているのだろうか。シャツの狭間から覗く胸板は逞しく、気だるそうに髪をかきあげるその姿に、ざわっと血液がざわめく。

 女の子の裸を見たって、ここまで心を乱されたりしない。きっと……あんなシーンを見せられてしまったせいだと思う。

 晴真は彼から目をそらし、ギュッと下唇を噛みしめた。

 ちいさく深呼吸した後、ひと息に告げる。

「どうか、僕を弟子にしてください!」

 床に額を擦りつけるようにして土下座した晴真に、男は冷ややかな言葉を投げる。

「断る。――弟子はとらない主義なんだ」

「そこをなんとか、お願いしますっ」

 どんなに頭を下げても、男はちっとも相手にしてくれない。晴真はそれでも引き下がることができず、必死で懇願し続けた。

「おねがいしますっ!」

「――しつこい」

 ふたたび胸ぐらを掴み、引き寄せられる。

 ――殴られる。

 ギュッと身を縮めた晴真に顔を近づけると、男は晴真の首筋に鼻を擦りつけるようにして匂いを嗅いだ。

 すぐそばに男の熱を感じ、ドクンと心臓が跳ね上る。深みのある珈琲の匂いが、より濃く香った。

 その匂いに絡めとられるようにボーっと立ち尽くす晴真に、男は「舌を出せ」と命じる。

 まるで催眠術にでもかかったかのように、自然と口が開く。いわれるがまま舌を出した晴真に、男は喰らいつくようなキスを仕掛けてきた。

「はぅ……んっ……」

 蕩けそうに熱い舌で、ねっとりと絡めとられる。珈琲の味だろうか。かすかな苦みの残るその舌に吸い上げられると、脳みそをぐちゃぐちゃにかきまぜられたみたいな錯覚に陥った。

 身体の内側が、ぞわりとわななく。奥深い場所を抉られ、蹂躙されるみたいな強烈なキスだ。

 膝が、震えた。ガクンと力が抜けて崩れかけた晴真の身体を抱きとめると、男はさらに奥深い場所に入り込んでくる。

 舌だけでなく、誰にも触れられたことのない口蓋や頬の内側まで執拗に犯されてゆく。

「んっ……ぅ……ぁっ!」

 足元の床が崩れ落ちてしまうような錯覚におちいって、必死で男の背中にしがみつく。

 身体の奥が熱い。どろりと溶け出したなにかが、逃げ場を失くして身体のなかでぐるぐると暴れまわっている。苦しくて、なんとか呼吸をしようとして、だけど酸素を求めて口を開けば開くほど、男の舌が奥深く入り込んできてしまう。

 ――ダメ……イッちゃ……っ。

 ただ、口づけられただけ。だというのに、気づけば晴真は極限まで追い込まれていた。

 指一本触れられていないはずのそこが、今にもはち切れそうに猛っている。

 ひときわ強く舌を吸い上げられたそのとき、激しい快楽が脳天まで一気に突き抜けた。

「ぁ―――っ」

 びゅるり、とあふれ出したもの。晴真の下着のなかを温かなものが満たしてゆく。

 ――うそ、なんで……。

 自分の身になにが起こったのかわからず、愕然とその場にへたり込む晴真に、男はつめたく言い放つ。

「お前の唾液からは、すこしも珈琲の味がしない。珈琲を飲まないやつに、うまいコーヒーを淹れられるわけがないだろう」

 首根っこを引っ掴まれ、店の外に追い出される。立ち上がろうとしたけれど、腰が抜けてしまったのか、どんなに頑張っても身体に力が入らなかった。

 

 しばらく呆けつづけた後、我にかえって店の扉を叩く。何度叩いても、叫んでも、決してその扉が開くことはなかった。





「弟子はとらない主義だって断られたよ」

 そう報告すると、病室のベッドに横たわる祖父は、「そうか」と皺くちゃの顔にさらに深く皺を滲ませた。

 すっかりやせ細ってしまった身体に、涙腺が緩んでしまいそうになる。

 元々痩せ気味だった祖父の体重が激減してしまったのは、いまから一年ちかく前のことだ。吐血して病院に運ばれ、緊急手術により胃の半分を切除したのが半年前。予後は芳しくなく、いまも入退院を繰り返している。

「政(まさ)に会うのは久しぶりだったろう。元気だったか?」

「まさ……? うそ、もしかして……」

 晴真がまだ小さかったころ、祖父の営む珈琲店を手伝ってくれていたアルバイトの学生がいた。背が高く、とても見栄えのよい青年だった。爽やかで優しかった『政にぃ』が、あんな不良中年になってしまったというのだろうか。

 一生懸命記憶を辿ってみると、確かにすこし似ている。見上げるくらいに大きな背丈。がっしりとした体躯。いつも笑顔で宿題を見てくれたり、キャッチボールの相手をしてくれたりしていた。

「うそだ……」

 大好きだった政にぃのあまりの変貌ぶりに、晴真は思わず言葉を失った。

「あいつが店を辞めるとき、お前、『辞めちゃいやだ』って泣きついて随分困らせたよなぁ」

 両親の離婚後、母方の祖父に引き取られたのが五歳のとき。忙しい祖父に代わって、政にぃがご飯を作ったり一緒に風呂に入ったりしてくれていた。

 血の繋がりこそないものの、家族のように慕っていたひと。そんな男にキスをされ、イかされてしまったのだと思うとおかしくなってしまいそうだ。

 その場に崩れ落ち、真っ赤になって頭を抱える晴真に、祖父が訝しげな目を向ける。

「どうした、晴真」

「うーん……じいちゃん、修業させてもらうの、ほかのひとのところじゃダメ?」

 入院中の祖父に代わって店を開けたいと申し出た晴真に、祖父は決して首を縦には振らなかった。

 珈琲を淹れるという仕事は、一朝一夕にできるものではないようだ。ましてや祖父の店は自家焙煎の店。腕のいい焙煎士に弟子入りし、修業を積まなくては不可能だと祖父はいう。

「ダメだ。この界隈にヤツ以外でウチの常連を納得させられる腕の持ち主はいない」

 彼に弟子入りして焙煎とドリップの技術を身につけない限り、絶対に店は継がせないと祖父は頑なに主張し続ける。

「中途半端に続けるくらいなら、商いなど辞めてしまったほうがマシだ。借金をこしらえる前に店を手放し、中古のマンションでも買って移り住め」

 そんなふうにいわれ、涙が溢れてきそうになった。

 ――それじゃあまるで、じいちゃんはもう、このまま逝ってしまうみたいじゃないか。

 いやだ。あの店を継いで、お客さんを逃さないようにして……再び祖父にあのカウンターに立ってもらいたいのだ。退院して、いままでのように店を切り盛りしてもらいたい。

 先刻のあの男のようすを思い出してみる。あれだけハッキリ拒絶されてしまったら、きっと引き受けてもらえる見込みなんてゼロに等しい。それでもほかに方法がないのなら、諦めるわけにはいかないだろう。

「わかったよ。弟子入りさせてもらえるように、もうすこし頑張ってみる」

 晴真は頑張って笑顔をつくった。

「大久保さん、面会時間はもう終わりですよ」

「あ、はい」

 看護師さんに促され、病室を後にする。

 ベッドの上で軽く手をあげる祖父の身体が、またひと回り小さくなってしまったような気がして胸が苦しかった。



 翌日以降、晴真は大学の講義や祖父の看病の合間を縫って男の元に通い続けた。

 あれから一週間以上が経過しているが、笹島珈琲店の店主、笹島政之(ささしま まさゆき)は「弟子はとらない」の一点張りで、晴真をまったく相手にしてくれない。

「おはようございます」

 開店前の店を訊ねると、笹島はいつものように庭先でサーフボードを洗っていた。

 GW直前、四月最後の月曜日。朝七時前ということもあってすこし肌寒い。ウェットを脱ぎ捨て競泳パンツ一枚でホースの水を浴びる笹島の姿に、見ている晴真のほうが寒々しい気持ちになった。

 飛び散る水飛沫。朝のやわらかな光を浴びて笹島の濡れ髪が光る。水滴を滴らせるその逞しい身体に、なぜだかドクンと心臓が跳ねあがった。

 ――あんなことをされてしまった後だから……こんな気持ちになるんだ。

 ジリジリと体内の血液がざわめくのがわかる。口づけられ、蕩かされたあの日の記憶が生々しくよみがえる。

「あのー……」

 ぶるりと豪快に頭を振って、笹島はずぶ濡れの犬のように水滴を弾き飛ばす。その雫が晴真のロンTにジワリと染みこんで、するはずのない汐の香りが微かに漂った。

「邪魔。――開店前の忙しい時間に押しかけてくるな!」

 濡れた腕で身体を押し退けられ、よろけそうになる。晴真は踏ん張って体勢を保ち、彼にバスタオルを差し出した。

「忙しい時間帯だからこそ、お手伝いに来たんです。開店準備、手伝います」

「そんなものは必要な……オイ、勝手に入るな!」

 疎まれるのは百も承知。それでも引き下がるわけにはいかないのだ。

 コンクリート造りの床を掃き清め、けやきの一枚板でできた大きなカウンターを磨いてゆく。

 窓を開け放って室内のよどんだ空気を追い払い、年代物のレコードプレーヤーに針を落とすと、軽やかなピアノの音色が流れだした。祖父の店でもよく流れていたビル・エヴァンスのアルバムだ。

 開店時間は午前七時半。駅から遠く、辺鄙な場所にある店だというのに、開店と同時にお客さんが次々とやってくる。

 カウンター十席のみのちいさな店。あっという間に席は埋まってしまった。

 こんなに混雑する店なのだから豆くらい先に挽いておけばいいのに、笹島はオーダーを受けた後、一杯ずつ豆を挽きドリップしてゆく。

 待たされることをお客さんたちは苦痛に思ってはいないようだ。カウンターの上に置かれたセルフサービスのオレンジジュースを飲みながらトーストを齧り、ゆで卵を食べて珈琲の出来あがりを待っている。

 珈琲の道具には絶対に触らせてくれないから、晴真はトーストを焼いたりおしぼりを手渡したりと、珈琲以外のサービスを勝手に手伝った。

 手伝いながら、カウンターに立つ笹島の姿を盗み見る。

 だらしなく生やしていた無精ひげはきれいに剃られ、キッチリと髪もセットされている。真っ白いワイシャツに黒いネクタイをキリリと締めたその姿は、男の晴真から見てもうっとりするくらいに魅力的だ。

 ――俺も、あと四センチ背が高かったらなぁ……。

 身長だけの問題ではない気もするが、周囲より頭ひとつ分大きく逞しい笹島の体躯は、身長こそそれなりにあるものの筋肉のつきづらい晴真にはとても羨ましく感じられた。

 広い肩幅に、嫌味なくらい長い手足。野性味溢れるその外見とは裏腹に、彼の手仕事はとても細やかだ。

 節高な長い指がミルを挽くさま。ドリップケトルからネル袋に湯を注ぎこむさま。すべての工程が流れるように美しく、目を奪われずにはいられない。

「おい、オレンジジュースの補充」

「あ、はい!」

 サーバーが空になっていることを指摘され、慌てて我にかえる。

 なんだかんだといいながらも、ここにいること自体は咎めずにいてくれるようだ。お客さんの前で言い争いをしたくないだけかもしれないけれど、営業時間内は店から追い出されることはない。

 朝はひとり客が多く、大半のお客さんは珈琲を呑み終えたらすぐに席を立つ。入れ代わり立ち代わり新しいお客さんがやってきて、あっという間に閉店時間の十時半を超えていた。

「看板下げてこい」

「――はい」

 笹島に命じられ、店先に掲げた『営業中』の札をひっくり返して『準備中』に変える。

 店内のお客さんが全員席を立つのを待って、午前中の営業は終了だ。

 閉店後、笹島は店内で軽い昼食を摂る。手伝いに対する報酬だろうか。いつも不機嫌そうな顔のまま、晴真にもトーストとゆで卵、彼が呑んでいるのと同じ野菜スープを出してくれる。

「あの、俺にも珈琲を……」

「ガキに呑ませる珈琲はない!」

 コーヒーサーバーに手を伸ばしかけ、ぴしゃりと手の甲を叩かれる。

「代金はお支払いしますからっ」

「そういう問題じゃない。お前のようなガキはこれで十分だ」

 オレンジジュースを突きつけ、笹島はいう。

 祖父曰く、笹島の淹れる珈琲は湘南随一の美味しさだという。

 連日通い続けているのに、その美味しいといわれる珈琲を晴真はまだ一度も飲ませてもらったことがない。

「笹島さん、すぐ俺のことガキ扱いしますけど、俺、一浪してるんで、来月の誕生日でもう二十三ですよ」

「――ガキじゃねぇか」

 笹島は晴真を見ずにそう答えると、経済新聞を広げ、黙々と記事を目で追いはじめる。

 晴真にはそっけないのに、笹島はお客さんたちにはとても愛想がいい。

 物腰のやわらかな低い声音で、通勤前の会社員と時事ネタに興じたり、お年寄りとジャズ談義に花を咲かせたりするのだ。

 会話を交わしながらも、当然手の動きは止めない。どうやらお客さまの好みやその日の体調、気分に合わせ、異なる銘柄、焙煎具合の豆を組み合わせて即興でブレンドを作り上げているようだ。

 豆の挽き方、ドリップの仕方もひとり一人に合わせて変えている。

「それ喰ったら帰れよ」

 新聞に目を落としたまま、笹島はいう。

 この店の営業時間は朝七時半から十時半までと、夕方の十六時から十九時まで。

 それ以外の時間、彼は店の裏手にある工房に籠って珈琲豆の焙煎をしている。

 ある程度まとめて焙煎したほうが、安定した煎り具合に仕上がるようだ。

 多めに焙煎し、ほかの店や個人の消費者にも卸している。祖父曰く、彼の焙煎した豆はとても評判がよいのだそうだ。通信販売を一切おこなっていないため、都内からもたくさんの顧客が彼の豆を求めてやってくる。

 焙煎というのはとても集中力のいる作業のようだ。どんなに頼み込んでも、笹島は絶対に工房に入れてくれない。

「きょうは講義のない日なんです。おしぼりの洗濯でもして待ってますよ」

 たっぷりバターを塗った厚切りのトースト。ちかくのパン屋さんから毎朝届けられるそのパンはとてもおいしい。外側はさっくりと香ばしく、内側はふんわりと甘い。懐かしい感じのするそのパンを齧りながら、晴真はちらりと笹島の様子をうかがう。

「――勝手にしろ」

 笹島はそう言い残すと、使い終わった皿を流しに置き、工房に行ってしまった。



 いったん工房に籠ると、笹島はまったく出てこなくなる。午後の営業時間ギリギリまで焙煎作業に没頭し続けるのだ。

 午後の営業は、朝と比べてのんびりした感じだ。店内で珈琲を呑んでいくひともいるけれど、煎りたての豆を買うために来店する人のほうが多い。

 トーストとゆで卵のかわりに、珈琲を頼んでくれたお客さんに午後はサービスでクッキーをつける。そのクッキーのレシピが祖父のつくっていたものとまったく同じで、晴真は笹島が祖父の店で働いてくれていたときのことを思い出した。

 あのころの面影をかすかに残す彼の姿。

 いったんそのことがわかると、『政にぃ』以外の誰にも見えなくなる。

 それに対し、彼は晴真のことなど全く覚えていないようで、優しかったあのころと違い、晴真を冷たく突き放す。

 悔しいから、晴真は笹島に名前を訊かれても、絶対に本当の名前をいわないようにしようと心に決めている。

 せっかく偽名まで考えたのに、笹島は一度も晴真に名前を訊ねてくれない。晴真のことなど眼中にないかのように、お客さんたちに笑顔を向けている。

「あら、今日もバイトくん、いるのね」

 閉店時間が近づいてくると、客層ががらりと変わる。落ち着いた大磯の町並みには似つかわしくない、美しく着飾った女性たちが増えるのだ。日替わりで入れ替わり立ち替わり、さまざまな女性たちがやってくる。

「――バイトじゃない。勝手に居つかれて困ってるんだ」

「あら、アナタも政之の色香にやられちゃったの?」

 胸元も露わな女性ににじり寄られ、晴真は後ずさる。

「かわいいー。ほっぺた赤くしちゃって。ねえ、政之、この子も一緒にみんなで楽しみましょうよ」

 マニキュアの光る手がぬっと伸びてくる。頬に触れられそうになった瞬間、笹島がそれをさえぎってくれた。

「悪ぃけど、今日はそういう気分になれないんだ。呑み終わったらとっとと帰ってくれ」

「えー、なによそれ。わざわざ逢いに来たのに、なにもせずに帰れっていうの?」

「疲れてんだ。また今度な。次はたっぷり可愛がってやるから、今日は勘弁してくれ」

 笹島は両手でそれぞれ違う女性の腰を抱き、さらにしなだれかかってくる三人目の女性の髪に顔を埋める。彼女たちは不服そうにしながらも、政之に抱きしめられると、まんざらでもなさそうな顔で帰ってゆく。

「――いったい何人ガールフレンドがいるんですか」

 呆れつつ呟くと、「ガキには関係ないだろう」と睨みつけられた。

「ガキ、ガキって。俺はとっくに成人……」

「うるせぇよ」

 ぐっと顎を掴まれ、言葉をさえぎられる。

 唇が触れるほど近い場所に顔を寄せられ、晴真はビクンと身体をこわばらせた。

 心臓が、痛い。ゴクリと唾を呑みこむ音が妙に響く。

「弟子はとらないってこれだけいってるにも関わらず、ひとの迷惑を顧みずに連日押しかけてくる。こんなガキくせぇことするヤツのどこがガキじゃねぇっていうんだ」

 喉が反るほど顎を押し上げられ、うまく呼吸ができなくなる。決して強い力で囚われているわけでもないのに、自由なはずの手足まで、ピクリとも動かなくなった。

「でも……店を続けたいんですっ」

 祖父から、病のことは絶対に笹島には明かしてはならないといわれている。だから晴真は自分の身元を明かすことなく、『祖母の喫茶店を継ぎたいから弟子にして欲しい』と彼に嘘を吐いているのだ。

「ロクに珈琲を呑んだこともないくせに、よくいうよ」

 形のよい眉を顰め、笹島はいう。晴真はじっとその目を見つめ返し、「これからたくさん呑みます!」と叫んだ。

「馬鹿をいうな。一日の珈琲の摂取適量は健康な成人男性でコーヒーカップ約五杯。それ以上のカフェイン摂取は身体に悪影響だ」

「じゃあ、五杯以内で……」

「素人が珈琲の味を覚えるのに、どれだけの時間がかかると思ってるんだ。ウチのようなちいさな店ですら、常時八種類の豆を置いている。焙煎度合の違いも入れれば十六種類。すべての豆の味を身体に叩き込んで、それらを組み合わせたブレンドの味も覚えなくちゃならない。――配合次第で無限に広がるバリエーションを、その舌に刻み込むには常に呑み続けていくしかねぇんだよ」

 豆の味を身体に覚えこませる。

 それがどれだけ大切なことなのか、祖父の仕事を見てきた晴真だって知らないわけじゃない。

 珈琲豆は農産物だ。同じ産地の同じ農園の豆であっても、その年によって出来が変わる。生豆を仕入れるたびに、祖父もその味を慎重に確かめていた。

 珈琲の良し悪しの客観的な評価を下す『カッピング』と違い、ほんとうにその豆の特性を知るためには、実際にお客さまが呑むのと同じようにカップ一杯分の珈琲を味わわなくてはいけないのだと、祖父はいっていた。

 そのせいだろうか。毎日珈琲を淹れ続け、呑み続ける祖父の身体からは、常に珈琲の匂いが立ち込めていた。

「酒や煙草、珈琲は嗜好品だ。ましてや珈琲は手作業により作り上げるもの。その味を知らない人間には、決して淹れることができない。『命を削ってでも愛好したい』その覚悟のない人間にうまい一杯なんか入れられる筈がないんだ。――そんなに店を続けたけりゃエスプレッソマシンでも導入してカフェにしろ」

「いやです! カフェじゃなく、喫茶店がしたいんですっ」

 祖父はいつも人々の喫茶店離れを憂いていた。

 市内にたくさんあった昔ながらの喫茶店も、いまでは祖父の店を含めて極わずかしか残っていない。チェーン展開している大手のエスプレッソカフェや観光客向けのおしゃれなカフェにすっかりシェアを奪われてしまったのだ。

 祖父の店は近所のお年寄りたちが普段着で気軽に珈琲を飲みに来れる、数少ない店なのだ。そんな大切な場所を、絶対になくしてしまうわけにはいかない。

「強情なやつだな」

「弟子にしてくれるまで絶対に帰りません!」

 明日からはゴールデンウィークで大学の講義が休みになる。しばらくこの店に泊まり込み、居座り続けるつもりだ。

 着替えの詰まったバックパックを見て笹島は呆れた声をあげる。

「ふざけるな。お前がいたら女も連れ込めないだろ」

「別に、目の前でしていただいても構いませんよ」

「お前が構わなくても、こっちの気が散るんだ。いい加減、帰れ!」

「いやです」

「しつこいな。――いつまでもここにいると襲うぞ。お前のせいで、こっちは散々お預け食ってんだ」

 耳元で囁かれ、ゾクリとする。

 なんの匂いだろう。珈琲の香りと、かすかな汐の香り。ほろ苦い炭の香りもする。その匂いに包まれると、頭の芯がジンと痺れてしまう。

「そんなことでここにいさせて頂けるのなら、ど、どうぞご自由にっ……」

 強がってみたけれど声が震えた。膝から力が抜けて、いまにも崩れ落ちてしまいそうだ。

「ハッタリだと思ってるんだろう」

 背後から抱きしめられ、手にした台拭きを退けられる。大きな節ばった手のひら。首筋をなぞられただけで、ぞわりと全身の毛が粟立った。

 唐突に与えられた噛みつくようなキス。必死で耐えようとしたけれど、立っていることすらできなくなった。ふらつく身体を抱きすくめるようにしてカウンターの上に押し倒される。

「ぅ、んっ……!」

 凄い力だ。どんなに抗っても易々と抵抗を封じ込められてしまう。

 圧し掛かられ、あっという間にズボンを引き下ろされた。硬い一枚板のカウンターの上、貪るように舌を絡めとられる。熱くて蕩けそうなその感触に、むくりと自分のそれが大きくなるのがわかった。

 微かに珈琲の苦みが残る舌。逃れたいのに、抵抗する腕から力が抜けてゆく。

「ふぁっ……んっ……」

 酸素が吸えないせいだと思う。頭がボーっとしてなにも考えられなくなってしまう。

 水底に沈んでしまうみたいな錯覚に陥って、慌てて目の前の笹島の身体にしがみつく。互いの身体がぴったり重なって、薄手のシャツ越しに彼の心音まで生々しく伝わってきた。

「ほら、舌、出せよ。――お前、珈琲だけじゃなく、酒もたばこもやらないだろ」

 どうしてそんなこと、わかってしまうのだろう。顎を掴まれ、両頬を押し潰すようにして、舌を出すよう促される。

「は……ぅ」

 おそるおそる舌を出すと、そっと舌先で辿られた。

「赤ん坊の舌みたいに、やわらかくてなんの味もしない。唾液もさらっとしていて……内臓もまっさらなんだろうな。お前のようなやつは、このまま珈琲なんか呑まずに生きていけばいい」

 晴真の舌のうえを、笹島の舌が辿ってゆく。

 ざらついてすこし硬い舌。刺激されるたびにジワリと唾液が溢れてしまう。

 ――ダメだ、笹島さんの舌を汚してしまう。

 逃れたいのに、逃れられない。

 そのほろ苦い舌に、翻弄されてゆく。

 開きっぱなしになった唇。だらしなく滴る晴真の唾液が、口の端を伝ってゆく。笹島はそれを指先でそっと拭うと、晴真の唇にねっとりと擦りつけた。

「ん、ふぁ……ぁ」

 舌だけでなく指先からも珈琲の匂いがする。水仕事のせいだろうか。乾燥してささくれだった武骨な指先。口内に入り込んできたその指が、晴真の舌の腹を犯してゆく。

 ビクン、と己の分身が跳ねるのがわかる。すっかり猛ったそこが、ボクサーブリーフのなかで窮屈そうに悲鳴をあげている。

 ぬらりと口蓋を辿られ、頬の裏側をなぞられる。

 ――こんなの……まるでフェ○チオしてるみたいじゃないか。

 笹島の股間に半裸の女性が顔を埋めていたところを思い出し、パニック状態に陥りそうになる。

「こんなに大きくして。顔に似合わず、いやらしいやつだな。ほら、ぐっしょり濡れちまってる」

「ん――ッ」

 下着の上から、先端に触れられる。誰にも触れられたことのない場所。たったそれだけの刺激で晴真は暴発してしまった。

 びゅるり、とあふれ出したもの。熱く滾った白濁で下着のなかが溢れかえってゆく。

「感じやすいんだな。たったこれだけの刺激でこんなになっちまうなんて」

 囁かれ、軽く耳たぶを甘噛みされる。

「んーーーっ……」

 達したばかりのそこが、ふたたびムクリと形を取り戻した。

「このままじゃ辛いだろう。――脱がせてやる」

 笹島は晴真の下着に手をかけながら、唇を寄せてきた。条件反射的にぎゅっと目を瞑ると、珈琲の匂いがより濃く香り、熱い腕にきつく抱きしめられる。

 触れ合う唇。それは先刻の乱暴なキスとは違い、おどろくほど優しく、甘やかだった。唇も、舌も、重なり合った場所すべてが蕩けてなくなってしまいそうだ。

 笹島の背中に手を回し、夢中になってその舌を求めると、いつのまにか下着をずりおろされていた。

 とろり、とあふれ出す白濁を手のひらで掬い取ると、笹島は晴真の尻に塗り込めた。

 ベルトを外す金属音が響く。驚いて目を開けると、すぐ近くに笹島の顔があった。

「やめて欲しかったら、いえ。止めるなら、今のうちだぞ」

 深みのある声が、全身に響く。晴真はぎゅっと目を瞑り、ちいさく深呼吸した。

 ここで引き下がったらいけない。

 覚悟を見せろ、といわれているのだ。

 身体を差し出せば弟子にしてくれるというのなら、こんな身体、幾らだって差し出してもいい。

 物心がついたころから、ケンカの絶えない両親のもとで暮らしてきた。そのせいだろうか。結婚願望など今まで一度も抱いたことがないし、女の子と付き合っても、その先の未来なんて想像することができなかった。だからこんな身体――どうなったっていいんだ。

「続けて、ください」

 震える声で、晴真はいった。

 平気だ。こんなの……へいき……。

 窄まりに宛がわれた熱い昂ぶり。貫かれるのだ、と身構えたそのとき、ふわりと温かなものに頬を包まれた。

「ばか……なにが続けてください、だ。大泣きしやがって」

 押し当てられた熱が離れてゆく。ごしごしと頬を拭われ、おそるおそる瞼を開けると、すぐそばに笹島の呆れ顔があった。

「もういいから、さっさと帰れ」

「帰りませんっ」

 止まらない涙。目元を拭い、必死で訴える。

 外泊ばかりでほとんど帰ってこなかった父と、そんな父にいつもイライラしていた母。冷え切った家庭に生まれてきた自分にとって、あの店と祖父がすべてだった。だから絶対にあの店を失いたくはないのだ。

 嗚咽を噛み殺しながら、晴真はそのことを伝えた。『祖父』の部分を『祖母』に置き換え、吐きなれない嘘を吐く。

 自分にとって祖母と店がすべてで、その店を失くしたらどこにも居場所がない、生きていかれないのだと訴える。そしてご近所のお年寄りにとってもその店はかけがえのない憩いの場なのだと晴真はひと息に告げた。

「どこの、なんて店だ」

 じっと見つめられ、晴真は口籠る。

「し、下北沢の……ミスティって店」

 祖父の店は大磯から東海道線で二駅先の茅ヶ崎にある。本当のことをいうわけにはいかないから、震える声で嘘を重ねた。

「下北のミスティ? 知らねぇな。昔からある店か」

「う、うん……」

 どうしよう。嘘を吐いていることがバレてしまったのだろうか。

 笹島はしばらく考えるような表情をした後、ボックスティッシュに手を伸ばし、汚れてしまった晴真の下半身を拭き清めてくれた。

 達したばかりのそこに触れられ、思わず声が漏れる。必死で唇を噛みしめて耐えると、軽く髪を撫でられた。

「わかったよ、教えてやる。そのかわり、キッチリ対価は貰うぞ。お前みたいなガキに居座られたら、女遊びも満足にできねぇからな」

 対価。身体で払え、ということだろうか。笹島は再び晴真の顎に手をかけ、唇を寄せてきた。

 すこしカサカサしていて肉付きの薄い笹島の唇。重ねあううちに熱く火照り、驚くほど柔らかくなる。

「――んっ……」

 ただキスを交わしているだけ。だというのに今にも達してしまいそうな感覚に陥ってしまう。

 ジリジリと体温が上がり、腰の奥の方が甘く疼いて自然と身体がうねる。 

 男同士でキスをするなんて気持ちが悪いはずなのに、不思議なことにすこしもそんなふうには思わなかった。

 やさしく髪を掻き混ぜられながら、微かにほろ苦さの残る舌で絡めとられ、蕩かされてゆく。気づけば彼の背中に抱き縋り、自分からその舌を求めてしまっていた。



 その日から、晴真は笹島の店で暮らすことになった。平屋建ての古い日本家屋。店の奥にいくつかの和室があり、その一つを間借りしている。

 講義をサボると叱られるため、ゴールデンウィークが明けた後は笹島の店から祖父の病院と大学に通った。

 四年の前期。ほとんど単位は取り尽くしているから、週に三日、数コマしか講義はない。すでに内定も貰っているため就職活動の必要もなく、一日の大半を店の手伝いと祖父の見舞いに費やすことができた。

「お前、ばあちゃんの店を継ぐとして就職はどーすんだ」

 午前の営業を終え、二人で食事を摂っている最中、珍しく笹島が晴真に話しかけてきた。

「内定、辞退しようと思ってます」

 都心から東海道線で一時間ほど離れた海辺の町。大学に進学した地元の友人たちはみんな都内で就職したし、それが当然のことだと思っていた。

 だけど晴真には、定年まで満員電車に押し込まれ、海のない場所で働き続ける自分の姿を想像することができなかった。

「なんだよ。就職するのが嫌で、現実逃避してるだけか」

「ち、違います!」

 自営業者というものがどれだけ大変であるか、祖父を見てきた晴真は知らないわけじゃない。それでも守りたいのだ。あの店を失くしたくない。

「笹島さんだって、就職しなかったんですよね」

 晴真の通っている大学は、笹島の母校。日本でも有数の難関大学だ。学部は忘れてしまったけれど、確か、彼は大学院まで通っていたはずだ。

「いや、俺は就職したよ」

「うそ……。珈琲一筋なのかと思ってました」

 意外だ。寝ても醒めても珈琲のことばかり考えている笹島が、ふつうに会社勤めをしていたなんて。驚いて顔をあげた晴真に、彼は口元だけで笑って見せた。

「商社だよ。――珈琲豆専門の商社で働いていたんだ」

 学生時代、アルバイトをさせてもらっていた喫茶店のマスターに『親の金で学校に行かせてもらったんだから、きちんとした就職をしなくちゃダメだ!』とどやされたのだという。

「まだまだ教えてもらいたいことが沢山あったし、本当はずっとその店で働いていたかったんだけどな。――頑固なマスターでさ。一度いいだしたら訊かないんだ」

 晴真の祖父のことだろうか。慈しむような瞳で笹島はいう。

 その視線の先には、はじめて晴真がこの店を訪れた日に割ってしまった年代物のコーヒーサーバーが置かれている。

 破片をかき集め、接着剤でくっつけたのだろう。ところどころ欠けているけれど、かろうじて形を保っている。

「商社って、現地に買い付けにいったりするんですか」

「言葉もロクにわからねぇのに入社してすぐ産地に送り込まれてな。ここで店を開くまでの五年間、ブラジルにいたんだ。本気で珈琲を仕事にするつもりなら、お前も一度は実際の珈琲農園を見たほうがいいぞ。どんなに焙煎やドリップの技術を磨いたって、なんの魅力もない生豆を魅力的にするのは不可能だからな」

 丹精込めて作られた良質な生豆があってこそ、おいしい珈琲が生まれるのだという。その生豆を作る農園のひとたちの苦労を知らずして、よい珈琲を淹れることなど出来るはずがない、と笹島はいう。

 ほんとうに珈琲が好きなんだろうなぁ、と思う。熱っぽく語るその姿に、視線が吸い寄せられてしまう。

「俺にも呑ませてください」

 彼のカップに手を伸ばすと、ぴしゃりと叩かれた。

「ガキに呑ませる珈琲はない!」

「だからもう十分大人だっていってるじゃないですかっ」

 どうしても呑みたい、とせがむと、顎を掴まれ、珈琲を呑んだばかりの唇で口づけられる。

「んっ……ぁ……」

 珈琲の苦みの残る舌。熱く濡れたその舌に絡めとられると、膝から力が抜け、意識が遠のいてしまいそうになる。

 必死で手を伸ばし、その逞しい背中に抱き縋ると、節ばった手のひらで頬を包み込まれ、舌の腹や奥深い場所を丹念に蹂躙された。

「はぅ……ん、ぅ……っ」

 口の中いっぱいに珈琲の苦みが広がってゆく。

 こんなふうに口づけられるのは、何度目だろう。最初は苦いばかりだったその味が、すこしずつ甘やかさを孕んだものに感じられるようになった。

 それはまるで、まろやかさを持つダークチョコレートのような深みのある味わいだ。段々とキスをつづけるうちに、その味が薄れていってしまう。

 もっと欲しい、もっと強く感じたい。

 必死で舌を伸ばし、彼の舌に残る微かな味わいを舐めとろうとする。

「ぁ……んっ……」

 ぐっと下腹を押し当てられ、自分のそこが猛っていることに気づく。いっそこのままズボンを脱がせて触れて欲しいのに……泣いてしまったのがいけないのだろうか。あれ以来、キスより先の行為はして貰えなくなってしまった。

 直接的な刺激を与えてもらえないもどかしさに、身体のなかを行き場のない熱が渦巻いてゆく。

 もっと……強い刺激がほしい。

 はしたなく自分から腰を擦りつけたそのとき、店の引き戸が開いた。

「ぁ……」

 我に返り、あわてて笹島の背中から手を離す。離れてゆく唇。激しく絡みあっていた互いの舌が、つぅ、といやらしい糸をひく。

「見ない顔ですね。新しいセフレですか」

 ちいさく流れていたコルトレーンのサクソフォンの音色に、軽やかな声音が重なる。

 着衣の乱れを直しながら見上げると、戸口の脇に、品のよいジャケットを羽織った背の高い男が立っていた。

 身長百八十センチ台半ばくらいだろうか。すらりとした手足にキュッと小さな顔。柔らかな栗色の髪に透き通るような白い肌。華やかで甘みのある目鼻立ち。思わず言葉を失ってしまうくらい、きれいなひとだ。

 笹島をはじめて見たときにも見惚れてしまったけれど、その笹島と比べても遜色のないくらいに眩いオーラを放っている。

「お前には関係ない。で、なんの用だ」

「おやつの時間を邪魔されたからってそんな怖い顔しないでくださいよ、政之(まさゆき)。仕事の話をしに来たんです」

 やんわりと微笑み、彼は呆然と脱力する晴真の隣の席に腰かけた。

 仕事。取引先のひとなのだろうか。

 政之、と笹島のことを下の名前で呼ぶのが気になったけれど、ビジネスの相手なら、きちんとおもてなしをしなくてはならない。

「必要ない」

 立ち上がってお茶を淹れようとした晴真を、笹島がやんわりと引き留める。

 微かに香る笹島の匂い。珈琲と彼の汗の入り混じったその匂いに、ズンと腰の奥のほうが疼く。

「プロデュースの仕事ですよ。スマイルカフェ、ご存知ですよね?」

 ブリーフケースからクリアファイルを取り出し、彼はカウンターの上に広げて見せる。そんななんでもない仕草でさえ優美に見えるから不思議だ。

 三十歳くらいだろうか。笹島より幾分若いように感じられる。女の子なら一瞬で恋に堕ちてしまいそうなキラキラした雰囲気の男だ。

「スマイルカフェって、スマイルマートのあれか」

「ええ、そうです」

 近年人気を博している『コンビニ珈琲』。

 その経済規模は年々拡大し、今では缶コーヒーやチェーン系カフェ、ファストフードを抜き、コーヒー産業の主軸を担う一大勢力なのだという。

「コンビニ珈琲シェア第二位のスマイルカフェが首位奪還に向けて立ち上げたのが、この『スマイル・プレムアム』プロジェクトなんですよ」

 一杯百円で提供している現在の珈琲よりもワンランク上のプレミアム珈琲を大々的に売り出すつもりなのだという。

「レギュラーコーヒーを一杯二百八十円。つまりスタパのショートサイズと同じ金額で売り出すつもりなのです」

「――ありえねぇな。向こうはマシンドリップの作り置きとはいえ、いちおう珈琲屋の看板背負ってんだぞ。コンビニの珈琲に同じ値段を出す馬鹿がいるわけがない」

 呆れた顔で笹島がため息をつく。

「そうともいえませんよ。コンビニ珈琲のコアターゲットは忙しいビジネスマンです。珈琲が呑みたいからといって、いちいち離れた場所にあるカフェまで移動していられないんですよ。おまけに列に並んだり、細かなオーダーをしたり、そういった煩雑さを嫌う傾向があります。通勤途中や仕事の合間にいつでもどこでもおいしい珈琲が飲める。そういう手軽さを求めているのです」

 街を歩けばスタパがある。そんなのは一部の都会だけで、田舎に行けばバーガーショップですら存在しない場所だってある。そういった僻地にもコンビニは存在するのだ。

『仕事の合間にちょっとした贅沢を』

 そんなニーズに応えるための高価格帯商品には絶対的な需要があると、スマイルカフェは考えているようだ。

「で、俺になにをしろと? 安価によい豆を安定供給できる農園を紹介しろとでもいうのか」

「いいえ、豆のほうは今後も自社栽培で賄う予定のようです。お願いしたいのは製品のプロデュースですよ。『天才焙煎士、笹島政之監修』――その看板が欲しいんです」

 にっこりと微笑み、男はいう。

 どうやら笹島の焙煎技術というのは、この界隈だけでなく業界全体でとてつもない知名度を誇るようだ。特にスペシャルティコーヒーと呼ばれる高品質な豆の焙煎に関しては他の追随を許さない凄腕なのだという。

「コンビニとコラボなんて凄いじゃないですか!」

 思わずそう叫んだ晴真に、笹島が険しい眼差しを向ける。

「冗談じゃない。そんなくだらないことに、ウチの看板を使わせてたまるか!」

「そんなに熱くならない。考えてみてくださいよ。あなたにはなんの負担もかからない。担当者はあなたのそのルックスにも着目していましてね。大々的にテレビコマーシャルを打ちたいといっているのです。あなたの名が珈琲愛好家だけでなく一般の方たちにも広まれば、現在、静かに沸き起こっているスペシャルティコーヒーブームにとっても素晴らしい追い風となりますよ」

 彼曰く、どうやら笹島はかなりの頑固者らしい。喫茶業界誌常連でマスコミの注目度も高く、日本全国から問い合わせが来るにもかかわらず、『生鮮食品を宅配便で送る馬鹿があるか!』といって、絶対に通信販売をしようとしない。

 店に直接買いに訪れることのできる客にしか豆を売らないため、全国から定期的に買い付けに来る者が後を絶たないのだという。

「ところで彼、どこかで見た顔ですね」

「え……」

 珈琲専門のフードコンサルタントだという彼、早野にじっと見つめられ、晴真は慌てて笹島の後ろに隠れた。

「――ああ、思い出した。そうだ、茅ヶ崎の『ビターズエンド』。大久保さんのところのお孫さんじゃないですか」

 どうやら晴真の祖父、正晴(まさはる)のところにも彼は足を運んでいたらしい。正晴もあの界隈では有名な焙煎士なのだ。

「なにっ!? 大久保さんの孫って……まさかお前、晴真なのかっ」

 胸ぐらを掴まれ、ぐっと手繰り寄せられる。

「えっ、ちが、俺は下北沢のミスティっていう店の……」

「早野、下北にミスティなんて名前の喫茶店、あったか」

 形のよい眉を吊り上げ、笹島がいう。

「いえ。そんな店は一度も聞いたことがありませんね。高円寺や小杉にはその名前の店がありますけど」

 早野という男は、関東圏全域の喫茶店、カフェのデータを把握しているようだ。

「なんならスマホで調べましょうか」

 クスクスと可笑しそうに笑う早野の隣で、笹島が鬼のような形相をしている。

「デタラメいいやがって。なにが『僕の名前は小林健太』だ。ふざけんなっ、いったいなにが目的だ!」

 胸ぐらを掴んだまま、店の外に引きずりだれそうになった。

「わ、ごめん、ごめんなさいっ……政にぃがちっとも俺のこと思い出してくれないから、なんか悔しくてっ……」

「馬鹿なこといってんじゃねぇっ。大体、お前、珈琲の勉強がしたいならマスターに教えてもらえばいいだろうが。俺なんかよりよっぽどかあのひとのほうが素晴らしい腕前じゃないか」

 店先に転がされ、必死で笹島の足に縋りつく。このまま締め出されてしまったら、ほんとうに二度と扉を開けてもらえなくなってしまうかもしれない。

「事情があるんだ。じいちゃんにいわれたんだよ、『笹島珈琲』で修業してこいって」

「だったらなぜ、最初からそれをいわない!」

 怒鳴り散らす笹島を、早野が宥める。

「大切なお師匠さんの孫に手を出してしまったのがショックなのは分かるけど、あのひとの意向なら、そう無碍にも出来ないでしょう。――大丈夫ですか。ほら、掴まって」

 早野は晴真の手を取り、立ち上がらせてくれた。つめたい手のひら。ぞくっとするくらい滑らかな肌だ。

「可哀そうに、砂まみれじゃないですか」

 早野は憐れむような表情で、晴真の背中や肩の砂を払い落としてくれた。

 至近距離で見ると、驚くほど睫毛が長いのがわかる。すこし潤んだような瞳。つややかな唇の端にちいさなホクロがある。そのホクロが妙に色っぽくて、思わず見惚れてしまいそうになった。

「よかったですねぇ、政之。これで大久保さんに恩がえしができますね」

「うるせぇよ。用が済んだらとっとと帰りやがれ!」

 どうしてこんなにも美しいひとを邪険に扱えるのかわからないけれど、まるで野良犬でも追い払うかのように、笹島は彼を追い払う。

「じゃあまたね、大久保くん」

 早野は極上の笑みで手を振り、去って行った。



 その日以降、早野は毎日のように店にやってくるようになった。

 なんとしてでも笹島にその仕事を引き受けさせたいようだ。営業時間終了後を狙って通い続けている。

「しつこいな。何度来たって同じだ。そんな仕事、絶対にしないからなッ」

「そんなに怒らなくてもいいでしょう。眉間にしわが出来ても知りませんよ」

 怒り狂う笹島に向かって手を伸ばし、彼はその眉間に触れる。

 ただ額に触れただけ。だというのになぜだかとても性的な行為のように見えて、晴真は思わず目をそらした。

 そらしておきながら、二人のことが気になって仕方がない。ふたたび彼らに目を向けると、彼は笹島に親密そうに顔を寄せていた。

「わかりました。仕事の話はもうやめます。――明日は久々にオフなんです。今晩、ここに泊めていただけませんか」

「いまはこのガキが居候してんだ。お前を泊めるわけにはいかない」

 そっけなく答える笹島に、早野は艶やかな笑みを向ける。

「構いませんよ、彼がいても。いっそのこと晴真くんも交えて三人で楽しみませんか」

「馬鹿いうな。――とっとと帰りやがれッ」

 追い帰されそうになって、彼は笹島の背中に手を回し、突然、その唇に自分の唇を重ね合わせた。

 ぴったりと身を寄せ、笹島の髪を掻き混ぜるようにして彼は口づけつづける。

 くちゅり、ちゅぷり、と静かな店内にいやらしく唾液の粘る水音が響く。

 されるがままにキスを受けているだけの自分と違って、早野のキスは、なんだか彼のほうが貪っているみたいに能動的なキスだ。

 見ちゃいけない。そう思うのに……目を離すことができそうにない。

 笹島が彼を振りほどくまでのあいだ、晴真は呆然と二人のキスを眺めつづけた。



 早野が帰った後も、頭がボーっとして仕事が手につかない。

 彼らのキスが脳裏に焼き付いたままちっとも消えてくれないのだ。

「おい、掃除しないなら、それ、俺に貸せ」

 握りしめていたほうきを笹島に奪われ、ようやく我に返る。

「え、あ……ごめんなさい」

 すれ違うとき、微かに笹島の匂いが香って、ドクンと心臓が跳ねあがった。

「体調が悪いのなら、さっさと寝ろ」

 そんなふうにいわれ、慌てて台拭きを取りにゆく。

 ――別に、笹島さんが誰とどんなことをしようと関係ない。

 頭ではそう思うのに、なぜだかモヤモヤした気持ちがちっとも消えてくれなかった。



 晴真の正体を知って以降、笹島はすこしずつ店の仕事を教えてくれるようになった。

 けれども教えてくれるのはネル袋やミルの手入れ、珈琲のおまけに出すクッキーのつくりかたくらいで、肝心の焙煎やドリップに関することは一切教えてくれず、珈琲を呑むことも許してくれない。

「どうして珈琲の淹れ方、教えてくれないんですか」

「マスターから正式に依頼を受けたわけじゃないからな。――あのひとと直接話をするまではお前に珈琲を淹れさせてやる気はねぇよ」

 どうやら晴真のことを疑っているようだ。

 直接、晴真の祖父、正晴と話をするまでは信用できないといって聞き入れてくれない。

 対する正晴は、「あいつに病気のことを知られたくない」といって、笹島とコンタクトを取ろうとしてはくれない。

 せめて紹介状でも書いてくれればいいのに、それすらしてくれないのだ。

 相変わらず笹島の所作は、うっとりするほど美しい。

 珈琲の豆は挽いた直後から急速に劣化をはじめる。この店では劣化を最小限に抑えるため、注文後に一杯ずつ手挽きのミルで豆を挽き、ネルをつかってハンドドリップする。

 丁寧でありながら流れるような速さで、笹島は極上の一杯をつくりだしてゆく。

 ネル袋のなかの珈琲豆がふっくらと膨らみ、ほろ苦い珈琲の香りが立ち込める。その匂いのなかに、甘みやさわやかさを感じるようになったのはいつごろからだろう。

 珈琲豆は煎ったその日から熟成(エイジング)をはじめる。

 煎りたての豆はフレッシュだが酸味がつよく、一般的にとがった味がするといわれており、時間が経つにつれてまろやかさが増し、その後、劣化がはじまってゆくのだ。

 笹島は客の好みに合わせ、フレッシュな豆と数日間熟成させた豆をブレンドして絶妙な味わいの一杯をつくりあげる。早野いわく、その配合の加減が誰にも真似できない素晴らしいバランスなのだそうだ。

「ひと口、呑ませてください」

 午前中の営業終了後の店内。断られるのがわかっていて、晴真はそれでもそうせがむ。

 笹島はいつもどおりそっけない口調で

「ダメだ」

 と言い放ち、晴真の存在などまるでないかのように、ゆっくりと珈琲を味わう。 

 古いスピーカーから、トランペットの音色が流れている。

 哀愁を帯びたメロディ。祖父の大好きなマイルスの曲だ。

 メロディに合わせてちいさく指で自分の膝を叩きながら、笹島の横顔を盗み見る。

 珈琲を呑んでいるときの笹島の顔を見るのが好きだ。

 普段、晴真に向ける厳しい顔とも、お客さんに向けるにこやかな顔とも違う。

 おだやかでリラックスしていて、とても満たされているような顔で、彼は珈琲を味わう。 

 そんな顔を見ていると、『よっぽどおいしいんだろうなぁ』と、晴真は思う。

 笹島だけじゃない。彼の珈琲を呑みにくるお客さんたちも皆、誰もがカップに口をつけた途端、満たされた顔になるのだ。

 あまりにもジロジロ見過ぎて、珈琲を呑み終えた彼と目があってしまった。

「なんだ、その恨めしそうな顔は」

 軽くデコピンされ、額を押さえて口をとがらせる。

「そりゃ恨めしそうな顔にもなりますよ。ここに来て二か月近くたつのに、いまだに一度も珈琲を呑ませてもらってないんですよ」

「上等だ。まだ学生の分際で贅沢いってんじゃねぇ」

 手を伸ばし、カップを片付けに行こうと席を立った彼の腕を掴む。

「どうしてそんなに頑固なんですか。いまどき珈琲なんて小学生だって……」

 発しかけた言葉をキスで遮られる。

 正晴の孫であることを知って以降、しばらくはキスをしてこなくなった笹島だけれど、ここ最近、またするようになった。

 彼がキスをするのは大抵、晴真が珈琲をせがんだときだ。

 言葉で説得するのが面倒くさいのか、晴真を黙らせるためにキスを仕掛けてくる。

 ぐっと肩を掴まれ、カウンターに背中を押し付けられるようにして口づけられる。

 珈琲の味の残る笹島の舌。絡めとられた瞬間、意識が飛んでしまいそうになった。

「んっ……ぁっ……!」

 堪えきれず溢れた嬌声。情けないその声ごとキスで封じ込まれる。

 こんなにいやらしいキス……いったい、どれだけのひとと交わしてきたのだろう。

 数えきれないくらい沢山いるガールフレンド。そして……早野。誰彼かまわずしているのだと思うと……無性に息苦しい気持ちになる。

 ――って、なんで俺、そんなこと……気にしてるんだろう。

 笹島のキスは、ここに置いてもらうための対価だ。そこには恋愛感情があるわけでもなんでもない。

 そんなのわかっているはずなのに。このキスを受けるのが自分だけだったらいい、なんて馬鹿げたことを考えてしまうのだ。

 きつく絡めあった舌。段々と珈琲の味は薄れてしまうから、かすかに残るその味を求めるように、余計にキスは激しさを増してゆく。

 窒息しそうなくらい強く吸い上げて、奥深くまで求めてしまう。

「――ぁっ」

 だめだ。イっちゃいそう……。

 笹島の大きな背中に抱きすがり、その身を震わせた瞬間、ガラリと引き戸が開いた。

「ん……っ」

 慌てて彼の背中から手を離し、体勢を立て直そうとする。けれどもすっかり蕩けてしまった身体は、ちっともいうことをきいてくれなかった。

 情けなくその場に頽れそうになった晴真の身体を、笹島の逞しい腕が抱きとめる。

「おやおや、すっかりお気に入りのようですね。――真昼間からお盛んなこと」

 ちいさく笑みを浮かべ、早野がいう。

 またもやキスしているところを見られてしまった。

 真っ赤になって俯いた晴真に、早野はぐっと顔を近づける。

 梅雨の合間の晴れ日。ここ数日、夏のような暑さが続いているというのに、彼はサマージャケットをさらりと着こなし、汗ひとつ浮かべることなく涼やかな顔をしている。

 透き通るように白いその肌に、なぜだか負けたような気分になった。

「まだ珈琲、呑ませてもらえていないんですか」

 耳元で囁かれ、かぁっと頬が火照る。

 子ども扱いされているみたいで、なんだか悔しかった。

「舌で味蕾(みらい)を開発してあげるなんて、あなたらしいですね、笹島さん」

 笹島の顔をのぞき込むようにして、早野はいう。

「みらい?」

「そう。味に蕾と書いて、みらい。舌や口蓋にある、味を感じるための器官のことですよ」

 やんわりと微笑み、早野は説明してくれた。

 人間の味覚のなかでも育つのにいちばん時間のかかる『苦み』を味わう力。

 胃を荒らさせることなく苦みを感知する味蕾を育てるために、笹島は晴真にキスをするのだ、と早野はいう。

 いわれてみればキスをされるのはいつも店内で、珈琲を呑んだ直後だった。それ以外の場所でキスされたことは一度もない。

「そうなんですか……?」

 ――単なるセクハラだとばかり思っていたのに。自分の身体を気遣ってくれていたのだろうか。

 見上げると、かぁっと笹島の頬が赤くなるのがわかった。

 そんなふうになる笹島を見るのははじめてだから、なんだかとても不思議な感じだ。

「うるせぇよ、貴様、なにしにきやがった。コンビニの仕事の件なら絶対にやらないと何度もいっているだろうが」

 笹島は不快げに顔をゆがめ、早野に食って掛かる。

「もう一度じっくり考えなおしてくださいよ。先方はあなたでなくては意味がないといっているのです」

 コンビニの珈琲に、人気のシアトル系カフェと戦えるブランド力をつける。そのために笹島の存在は欠かせないのだという。

「いい加減、あきらめろ。大量消費型の業務用珈琲と自家焙煎屋の珈琲はまったくの別物だ。そんなものに協力する焙煎士がいるとしたら、それこそ商業主義の権化みたいな阿呆だけだ」

「職人肌なのはわかりますが、まとまったお金があれば新たな設備投資も事業拡大もできる。よいチャンスだと思いませんか」

「思わねぇな。――養うべき女房子供がいるわけでもなし。うまい珈琲を淹れられて自分の食い扶持さえ稼げればなんの文句もない。これ以上、手を広げる気はないんだ」

 とっとと帰れ、と笹島は彼を押し退ける。

 どんなに邪険にされても、早野はくじけないらしい。

「諦めませんから」

 にっこり微笑み、彼は帰っていった。

「晴真、塩撒け、塩」

 よほどスマイルカフェの仕事を引き受けるのが嫌なのだろう。笹島は真顔で晴真に命じた。

「はい!」

 彼の気が済むなら、と思い、晴真は戸口に盛大に塩を撒いた。



 さすがはプロだ。あんなにも不機嫌そうにしていたのに、午後の営業がはじまると同時に、笹島はいつも通りにこやかなマスターの顔になった。

 お客さんが珈琲店に求めるもの。もちろん珈琲の美味しさはいちばん大切な要素だけれど、この店に通う人たちの姿を見ていると、それだけではないことがよくわかる。

 珈琲は嗜好品だ。呑まなくても決して死ぬことはないし、むしろ呑みすぎは笹島のいうとおり身体に害を及ぼす可能性がある。

 それでも誰もが珈琲を求めてやまないのは、おそらく、珈琲には心を満たしてくれる特別な力があるからだろう。それは子供や甘党の女性にとってのケーキやチョコレートのように、大人の心をやさしく満たしてくれる。

 だから味だけではなく、雰囲気も大切なのだ。

 古い日本家屋を改修してつくりあげた日当たりのよいシンプルな空間。ナチュラルな色味の白い壁に温かみのある木目の調度類。心地よい音量で良質な音楽が流れ、出しゃばりすぎず、それでいて親しみやすく細やかな笹島の接客。それらすべての要素が、お客さんにとって幸せな時間を作りあげているのだろう。

「――ありがとうございました!」

 最後のお客さんを送り出すと、笹島はネクタイを緩め、素の顔に戻る。仕事中にこやかなぶん、よけいにそっけなく感じる素の姿。けれども、その姿を自然とねぎらいたくなってしまう自分がいる。

 営業時間中、あんなに素晴らしい接客をしているのだから、それ以外は気を抜いてたいだろうなぁ。――そんなふうに思ってしまうのだ。

「さすがに今日は疲れたな……」

 定休日明けの月曜日。普段なら体力の有り余っているはずの週のあたまだけれど、昨日は大磯港で行われたフリーマーケットに参加したため、朝から夕方まで働き詰めだった。

「夕飯、軽いものにしますか。麺類とか」

 居候させてもらっている以上、家事で貢献するくらいのことはしなくてはいけない。いつのまにか夕飯は晴真が作るようになっていた。

「いや、久々に……あれが食いたいな」

 笹島が食べたがったのは、珍しく甘いもの。ホットケーキだった。

 祖母が考案し、祖父が作りつづけていた『ビターズエンド』の看板メニューであるそれは、甘さ控えめ、有塩バターのコクと塩気で味わうシンプルな昔ながらのホットケーキだ。

 フライパンの上でぷつぷつと気泡の浮かぶクリーム色の生地を眺めながら、いまは亡き祖母に焼いてもらったときのことや祖父に作り方を教わったときのことが頭をよぎる。

「そうそう、これだ。マスターのホットケーキ」

 ほとんど甘いものを食べないのに、笹島もこのホットケーキだけは大好きだった。

 こんがりときつね色に焼きあがったそれを皿にのせると、彼は嬉しそうに歓声をあげる。その姿がなんだかすこし可愛らしくて、思わずクスリと笑ってしまいそうになった。

 ひとくち頬ばると、彼はしあわせそうに目を細める。そんな笹島を眺めながら、晴真もフォークを口元に運んだ。

 表面はさっくり、なかはふんわり。口いっぱいにやさしい甘みが広がってゆく。

「うまいな。――完全にマスターの味だ」

 そんなふうに褒められ、なんだか照れくさくなる。

 笹島の疲れがすこしでもこの甘みで癒えてくれたらいいな、と晴真は思った。

「久々に会いたいな。マスター、いつ帰ってくるんだ」

 病床に伏していることは絶対に明かしてはならないといわれているため、晴真は笹島に祖父は旅行中だと嘘をついている。

「ええと……まだ帰国の予定がたってないみたいです」

「長いな。どこに行ってるんだっけ?」

 どうしよう。怪しまれているのだろうか。暴れまわる心臓、必死で抑え込み、嘘を重ねる。

「ハワイ島のコナです。向こうで昔の友人が農園をしているみたいで……」

「ああ、コナか。あそこは日系人、多いもんな。なんて農園だ」

 ダメだ。これ以上突っ込まれたら嘘を吐きとおせなくなる。

 気が動転した晴真は手を滑らせ、オレンジジュースの入ったグラスを床に落としてしまった。

 ガシャンとガラスの割れる音が響き、甘酸っぱいオレンジの香りが辺り一面に広がる。

「わ、すみませんっ……」

 しゃがみこみ、慌てて破片を拾おうとした晴真の腕を、笹島が掴む。

「お前はそのままじっとしていろ。――いいな、動くなよ」

 破片で怪我をしたら危ないと思ってくれているのだろうか。笹島はそう命じると、雑巾とバケツを取りにいき、手際よく片づけをはじめた。

「ごめんなさい」

「あやまらなくていい。――だけどお前はこういうことが多すぎる。もうすこし気をつけて……」

 破片を拾い集め、丁寧に床を拭っていた笹島の背中に手を廻す。言葉を封じ込めるようにして口づけると、やんわりと引き剥がされそうになった。

 それでも諦めず、ぎゅっとしがみつくようにして唇を重ね合わせる。

 嘘がバレないようにするための口封じ。

 そんなふうにいいきかせてみるけれど、それだけじゃないのは明らかだった。

 ドクン、ドクンと高鳴る心臓。いまにも壊れてしまいそうに胸が痛くて、うまく呼吸ができなくなる。

 苦しくて……だけど蕩けてしまいそうで、いつもは苦みのつよい笹島の舌がホットケーキを食べていたせいですこし甘い。

 珈琲のほろ苦さと、甘じょっぱいホットケーキの味。もっと欲しくて深く舌を絡める。

「んっ……ぅ」

 身体の奥のほうが、どろりと蕩けるのがわかった。体温がじんわりあがって、下腹に血が集まってゆく。

 毎日何度もキスを交わしあっているから、はじめてされたときのように、あっという間に達してしまったりはしない。だけど笹島の熱い舌に絡めとられると、それだけで意識が遠のきそうになってしまう。

 晴真がこの家で暮らすようになって以来、笹島は一度も誰かを家に泊めたことがない。もしかしたら晴真の知らないところでシているのかもしれないけれど、すくなくともこの店のなかでは、ちゃんと自制してくれているみたいだ。

 どうしてこんなに惹かれるのか、自分でもわからない。

 わからないけど、こんなキスを、できることなら他の誰にもして欲しくない。

 笹島の唇が離れていきそうになって、そのたびに彼の背中に縋って引き留める。

 すっかり脱力した晴真の身体をその腕にしっかりと抱きとめ、笹島は口づけてくれた。



 どれくらいそうしていただろうか。すっかり珈琲の味もホットケーキの味もなくなって、舌先が痺れるくらいにキスをしつづけたあと、ようやく二人は唇を離した。

「――今のがモンテアレグロ農園のブルボンアマレロだ。わかるか?」

 すこし照れくさそうな顔で、笹島がいう。

「ええと……すみません。ホットケーキの味に負けて、よくわかりませんでした」

 こんなことをいったら呆れられるだろうか。

 ぎゅっと拳を握りしめ、不安になりながら、晴真はこう付け加える。

「もういちど、教えてください」

 照れくさくて、顔をあげることができなかった。

 笹島は「ああ」と頷くと、すっかり冷めてしまった珈琲を口に含み、ふたたび晴真に口づけてくれた。



 七月に入ると、笹島はすこしずつ珈琲を呑ませてくれるようになった。

 呑ませてくれるといってもコーヒーカップになみなみと注いで自由に呑ませてくれるわけではない。

 カッピングと呼ばれる珈琲を鑑定するときの手法を踏み、その匂いを嗅ぎ、抽出し、スプーンにすくった珈琲液をほんのわずかに口に含んで、その香りと味を記憶してゆくのだ。

 毎日八種類。焙煎の度合いや鮮度の違いも含め、ひたすら身体に叩き込んでゆく。

 匂いを嗅ぐたび、味わうたびにノートに詳しく感想を記入するよういわれている。そうすることで過去の所感を見返すことができ、だんだんと自分の感覚が成長してゆくことを実感することができるのだという。

「味覚や嗅覚は体調によっても変わる。そういう意味でも、必ず毎日記録し続ける必要があるんだ」

 笹島自身も、いまでも毎日欠かさず記録をつけているようだ。その日焙煎した豆の味を、気温や湿度、焙煎時の温度や時間など、事細かにノートに書きこんでいる。

「もし二週間で八種類すべての豆の違いを覚えることが出来たら、お前の店に豆を卸してやってもいい」

 焙煎の技術は一年や二年では決して身につけることができない。

 自分で煎ることができるようになるまで笹島の豆を使い、営業することを許してくれるのだという。

「ありがとうございますっ!」

「そのかわり、ドリップは俺がいいというまで絶対にするなよ。ネルの扱い方は追々教えてやるから、最初のうちはプレスのみで行くんだ」

 フレンチプレスと呼ばれる器具をつかったプレス方式の抽出ならば、湯温や時間さえ守れば素人でもそれなりの珈琲を淹れることができるのだという。

 笹島は豆の味を教えるのと同時に、プレスをつかった抽出方法も徹底的に教えてくれた。

 呑む量を増やしてはいけないといわれているし、勉強のために大切な豆を浪費するわけにもいかない。晴真は毎日決まった量の豆を挽き、その香りと味を必死で身体に刻み込み続けた。



 珈琲を呑ませてもらえるようになってからも、笹島はキスをし続けてくれている。

「なんの味かわかるか」

 珈琲を呑んだ直後に口づけ、豆の名前を当てさせるのだ。

「うーん……わかんないです。もう一度、していただけませんか」

 クイズ形式にしてくれているから、以前と違ってそんなふうにねだりやすい。

「仕方ねぇなぁ……」

 呆れたような顔をしながらも、彼は晴真に口づけてくれる。

 最初のうちは震えるばかりでまともに味わうことなんかできなかった笹島のキス。いまでもやっぱり胸が壊れそうに高鳴ってしまうけれど、すこしだけ落ち着いて味わうことができるようになった。

 すこしざらついた熱い舌の感触。指先に感じる艶やかな黒髪のしっとりした感触。そして……シャツ越しに伝わってくる力強い鼓動。

 いつからだろう。笹島の鼓動が、自分と同じように激しく高鳴るようになった。

 熱く火照った逞しい胸。その心臓部分にさりげなく手のひらを重ね合わせる。

 ――もしかして、すこしは欲情してくれているのだろうか。

 晴真の下腹に触れるそこが、ズボン越しにもわかるくらいに熱く昂ぶっている。

「ぁ……んっ……」

 カウンターに押し倒されるようにして、深く、求められる。

 高鳴る心臓、昂ぶりつづける身体。

 もう一度、あともう一回だけ、と、晴真は唇が腫れ上がるまで何度もキスを求め続けた。



 七月二週目の日曜日。晴真は休業日の店内で八つのちいさなカップと対峙することになった。

「いま現在、この店で使っている豆はこの八種類だ。グアテマラはエル・インヘルト農園のパカマラ種。それからこっちはホンジュラスの……」

 笹島は豆の説明をするとき、産地だけではなく必ずその豆を作っている農園の名と品種を告げる。

 誰がどんな方法で作ったか、ということが豆の味を決める一番の要素だというのだ。

 最初のうちはちっとも覚えられなかった農園の名前や品種。いまではそらでいうことができるようになった。

 笹島に教えられたとおりの方法で豆を挽く。祖父はアンティークなミルを使っていたけれど、笹島がつかっているのはセラミック製のミルだ。見栄えは味気ないけれど、分解してすべてのパーツを丸洗いできるところが気に入っているのだという。

 ミルの刃にわずかに残る微粉が、珈琲に濁りをもたらす。笹島はいくつものミルを豆によって使い分け、毎日すべてのミルを洗浄しているのだ。

 セラミックの刃が豆に当たる感触は、思いのほか柔らかい。テーブルのうえには8つのミル。それぞれ挽きあがった粉の香りを嗅ぎ、ちがいを確かめてゆく。

 ほろ苦いだけだと感じていた珈琲の香り。いまではそのほろ苦さのなかに甘さや爽やかさを感じ、珈琲豆が『果実』であることを強く実感することができる。

 第一印象で、まずはその香りから品種を推定してみる。その結果をノートに書き記したら、つぎはカップに湯を注ぎ、たちのぼる香りを確かめる。

 挽きたての豆から香る匂いと、湯を注いだときに香る匂いは決して同じではない。酸味をつよく感じた豆が芳醇なまろやかさを感じさせるようになったり、苦みを強く感じていた豆がすっきりと爽やかな香りを漂わせたりする。

 さらに不思議なことに、湯温によってもその香りは微妙に変化するのだ。

「どうだ、わかるか」

 笹島ならば、香りだけですべての豆を言い当てることができるのだろう。けれども晴真にはまだその自信はない。

「ティスティングします」

 じっくりと香りを確認したあと、いよいよ実際に口に含む。

 笹島の焙煎する豆は、えぐみがなく、炭火をつかっているにもかかわらず炭の香りがしない。どの豆もすっきりと澄んでいて、それでいて蕩けるようなまろやかさと深み、上品な色気を備えているのだ。

 珈琲がこんなにも魅力的な飲みものであるということを、晴真は彼の珈琲を呑むまで知らなかった。

 香りで選んだ豆の名前をいったん頭のなかから消し去り、今度は味で選んでゆく。

 判定結果をノートに書き記してみると、八つのうち四つが、粉の段階の香り、抽出後の香り、味から感じた印象、三つの工程すべてで一致した。

「この四つは……確実だ」

 残るは半分。そのうち二つは、三工程中、二つが合致しているから、その豆である可能性が高い。

「厄介なのは……この二つか」

 三工程すべて、別の豆の名を記してしまった豆が二つもある。

 自信のあるものから確定してゆき、最後にその二つが残ってしまった。

「どうした。――ギブアップか」

 すでにテストを開始して、二時間以上が経過している。すっかり冷めてしまった珈琲。香りも先ほどまでの鮮烈さは感じられない。

「いえ、絶対にあてて見せます!」

 そう宣言したものの、香りを嗅ぐたびにどちらも同じように感じられて困惑してしまいそうになる。

 マスカット、グレープフルーツ、ピーチ、ローストアーモンド、ヘーゼルナッツ、バニラ、トースト……。笹島はいつも、わかりやすいように具体的に他のものの香りに例え、豆の香りの特徴を教えてくれていた。

 残る二つのカップは、どちらも晴真がイマイチ判別をつけられないナッツ系の香りのする豆だ。

 油分が多くこっくりとしているため、さわやかな酸味を好む晴真にとって味で判断を下すのも難しい。

「もう一度、口に含んでみろ。冷えた状態のほうが、その豆本来の味がわかりやすい」

 笹島に促され、再びスプーンを口に運ぶ。

 どっしりとしたコクのある味わい。それでいて舌触りはよく、アフターテイストは苦みよりも甘みをつよく感じさせる。

「ぁ……」

 どちらも同じような飲み口だけれど、最後に残る余韻に違いが感じられた。

「こっちのほうが、より甘い。チョコレートのような感じがします」

 そうだ。深煎りの豆なのに女性客に人気があるから、不思議に感じて笹島にその理由を尋ねたことがあるのだ。

「わかったみたいだな」

 笹島はちいさく微笑み、カウンターの椅子に腰をおろす。晴真は頷き、ノートにすべての結果を書き記した。



「これでお願いします!」

 記入し終えたノートを差し出すと、笹島は見る前から結果が分かっているといわんばかりの顔でちらりと眺め、

「約束通り、お前の店に豆を卸してやる」

 といってくれた。

 一年のうちでいちばん観光客の多い夏休みに入る前に、できれば店を開けたかった。

「よかった……なんとか間に合った」

 その場にへたり込んだ晴真の頭を、笹島はわしわしと撫でてくれた。

「あの……対価は払わなくていいんですか」

 居候するのにも対価としてキスを求められた。豆を卸してもらうのにも、なにか対価を払わなくてはならないのではないだろうか。

「別にそんなものは必要ない」

 さらりとそんなふうにいわれ、肩透かしをくらったような気分になる。

「そうですか……」

 俯きかけた晴真の顎に、笹島が手をかける。

「なんだ、身体でも求められると思ったか」

「ち、ちがっ……」

 真っ赤になって否定すると、顎を掴んで上向かされた。

「ガキのくせに、なにを色気づいているんだ」

 ぐっと顔を寄せるようにして囁かれる。

 唇が触れてしまうくらい近くに笹島の顔があって、かぁっと頬が火照ってゆく。

「だからガキじゃないって……」

 発しかけた言葉を、親指の腹で塞がれた。唇に押し当てるようにして、ゆっくりと辿られてゆく。

 ただ、指で触れられているだけ。だというのに、ぞわりと得体の知れない快楽が駆け抜け、身体から力が抜けていってしまう。

 コンクリート造りの床にへたり込んだまま、ふらりと倒れかけたそのとき、逞しい笹島の腕に抱きとめられた。

「どうされたい――そんなにされたいなら、自分でいえよ」

 熱く湿った吐息が耳元に吹きかかる。それだけで溺れてしまいそうになって、晴真は自分を抱く笹島の腕に指先を食い込ませた。

「どうって……べつに……」

 ジンジンと顔が火照り続ける。心臓が暴れて、うまく呼吸ができない。

 いっそこのまま、有無をいわさず押し倒してくれればいいのに。笹島は決してそんなことはしてくれない。

「なにも、しなくていいのか」

 ずるい、と思う。

 いわせようとしているのだ。自分の口で……ねだらせようとしている。

「あの……さっき呑んでいた珈琲の味、教えていただけませんか」

 決死の覚悟で発した言葉。笹島はにやりと笑うと、

「そんなに欲しけりゃ自分で呑めよ」

 といった。

「う……」

 そんなふうにいわれてしまっては、返す言葉がない。

 だからといって……キスしてください、なんて自分からいえる筈がなかった。

「特にして欲しいことがないなら、なにもしない。――片づけでもするか」

 立ち上がろうとする笹島の腕をぎゅっと引き寄せる。

「なんだ」

 じっと見つめられ、一気に頭に血がのぼった。かぁっと耳まで熱くなって、なにがなんだかわからなくなる。

「――ス……」

「す?」

「――キス、し、たいです……っ」

 震える声でそう叫ぶと、そっと手のひらで頬を包まれた。

「したけりゃしろよ」

「え……」

 予想外の言葉に、パニック状態に陥りそうになる。

「ほら」

 唇を突き出すようにして、笹島が顔を寄せてくる。

 自分からキスしろというのだろうか。

 今まで幾度となく交わしてきたキス。けれどもいつだって笹島がリードしてくれていて、晴真はされるがままだった。

 女の子相手のときは晴真自身がリードしていたけれど、笹島を前にすると、どう頑張っても自分から仕掛けるなんてできそうになかった。

「なんだ、しなくていいのか」

 離れていこうとする笹島を、慌てて引き留める。

「しますっ! しますから……目、閉じてください」

 浅黒い肌に精悍なまなざし。この目で見つめられていたら、顔を近づけることすらできそうにない。

 笹島はちいさく微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。

 定休日のせいか、無精ひげがまばらに散り、髪も洗いざらしのまま、無造作におろしている。けれどもその野性的で男くさいさまが余計に艶っぽくて、見ているだけでトロンと身体の奥のほうが蕩けてしまいそうになった。

 しばらく見惚れたあと、ふと、我に返る。あまり待たせると気が変わって、「やっぱりさせてやらない」といわれてしまうかもしれない。

 慌ててキスをしようとして、緊張しすぎてうまく動けなくなる。

 何度も深呼吸して、ぎゅっと拳を握りしめて、ようやく唇を近づけると、「遅い」と笹島が目を開いてしまった。

「ご、ごめんなさい……」

 ぐっと腕を掴まれ、引き寄せられる。

「罰として、目を瞑るのはやめだ。お前も瞑らずにキスしろよ」

「そ、そんなっ……」

 射るような瞳で見つめられ、余計に身動きが取れなくなる。

「ほら」

 せかすように腕を引かれ、晴真は震えながら笹島の唇に自分の唇を重ね合わせた。

 ほんとうはもっと、大人なキスがしたかった。早野が彼にしたみたいに、色っぽいキス。

 けれどもそんなキスが出来るはずもなくて、ただ唇を押し付けるだけの拙いキスになってしまう。

 短いキスを繰り返すうちに、身体が自然と疼きはじめる。

 互いの舌を絡めあうような濃厚なキスがしたいのに、笹島はただじっと晴真のキスを受け続けるだけで、自分からはなにもしてくれない。

「笹島さん……」

 じれったさに身をよじり、その背中に手を廻す。

「なんだ」

 じっと晴真を見つめたまま、笹島は問う。

「笹島さんも……してくださいよ」

「なにを」

「なにをって……キスに決まってるじゃないですか」

 笹島の手のひらが、晴真の頬に触れる。頬の表面をすべらせるようにゆっくりと撫でられ、くすぐったさに思わず目を細めた。

「だからシたいならシろっていってるだろう。ほら、来いよ」

 唇を半開きにして笹島は誘う。

 晴真はこらえきれず、その唇に自分の唇を押し当てた。

 舌を伸ばすと、熱くてやわらかな口内に触れる。おそるおそるなかに割り入り、彼の舌に自分の舌を重ね合わせる。

「ぁっ……!」

 ざらついた舌の感触をダイレクトに感じた瞬間、じわりと己の先端に蜜が滲むのがわかった。

 身体のなかに生まれた熱が、もっと欲しいと貪欲な劣情を滲ませる。晴真は膝立ちになって、床の上に腰を下ろした笹島の舌をそっと吸いあげた。

 微かに感じる珈琲の苦み。その味を確かめるように辿ってゆく。

 いったん灯った炎は、あっという間に全身を蝕んでゆく。気づけば晴真は笹島の身体にのしかかるようにして、その舌を求めていた。

「このエロガキ。――どこでこんないやらしいキス、覚えてきた」

 耳元で囁かれ、かぁっと頬が火照る。

「そんなの……笹島さんのエロがうつったに決まってるじゃないですかっ」

 毎日何度も交し合ったキス。すっかり笹島のキスなしではいられない身体になってしまった。

 唇が離れるのが惜しくて、何度も、何度も重ね合わせる。

 舌を絡めあううちに、笹島の熱が晴真の下腹のあたりで育ってゆくのがわかった。

「んぅ……はぅ……っ」

 足りない。

 もっと、もっと深く欲しい。

 舌先や舌の腹だけじゃなく、全部。付け根まで全部で繋がって、それでもまだ足りない。

「笹島さっ……」

 彼がリードしてくれるキスは、もっと気持ちいい。頭も身体も、全部が痺れて蕩けてしまうくらい気持ちいいのだ。

「おねがい、します。いつもの……シて…くださ……っ」

 ――欲しい。笹島さんのキスが欲しい。

 全部を溶かしてぐちゃぐちゃにしてしまうような、触れられるはずのない身体の内側までも蹂躙されるようなキスを交わしあいたい。

「してやってもいいが、俺だって相当キてんだ。いま、俺の好きにさせたら、途中じゃ止まんねぇぞ」

 引き寄せられ、ぐっと顎を掴まれる。互いの熱が重なりあって、笹島のそこが逞しく猛っているのがわかった。

「――止まらなくて、いい、です」

 消え入りそうな声で発した言葉。言い終わるが否か、食らいつくようなキスをされた。

「ふぁっ……ん、ぅ……っ」

 窒息しそうに激しいキス。あっという間に膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。抱きとめられ、口づけられたまま店の奥にある笹島の自室に連れ込まれた。



 西日に照らされたその部屋は洋間に改装されており、フローリングの床に大きなベッドが置かれているだけのシンプルな空間だ。

 見たこともないくらいに巨大なベッド。押し倒され、硬めのマットレスに心地よく身体が沈み込む。

 頬に触れる枕カバーから、かすかに笹島の匂いがする。その匂いに酔う間もなく喰らいつくようなキスをされ、下腹に猛った熱を押し当てられた。

「はぁっ…んぅっ……」

 ズボンの布越しに感じたその逞しい熱に、貫かれるところを想像して身体がわななく。

「舌を出せよ、晴真。ほら、もっと口を開くんだ」

 顎を掴み、上向かされるようにして命じられる。命じられるがまま口を開くと、ざらついた熱い舌で絡めとられ、窒息するほど激しく口内を執拗に犯された。

「んーーーーッ!」

 ネクタイすら緩めず、互いの身体はストイックなワイシャツと黒いズボンに覆われたままだ。それなのにまるで裸で抱き合っているみたいに、全身の隅々まで神経が過敏になってしまう。

「ぁっ……やめっ……」

 シャツの擦れる感触さえ、晴真の身体を欲深い快楽の色に染め上げてゆく。

 手足をばたつかせ、シーツをぐちゃぐちゃに掻き混ぜるみたいにして晴真は激しく身悶えた。

「キスだけでこんなになっちまうんじゃ、先が思いやられるな。――ここを触られたら、どうなちまうんだ」

 耳元で囁き、笹島は晴真のワイシャツの上に手のひらを滑らせた。

 肉付きの薄い身体。平坦な胸板のある一点に触れられた瞬間、ビクンと身体が跳ねあがった。

 ほかの部分と比べて、すこし皮膚のうすい場所。敏感なその場所を、シャツの上から摘み上げられる。

「ぁっ……ん、笹島さっ……」

 自分でも呆れるくらい、情けない声が漏れた。ぐわりと大きく視界がゆがみ、じっとしていることが出来なくなる。

 ピンと足先が伸び、無意識にシーツを蹴り上げる。

「だ、め、そこ、や、ささしまさ、やめっ……ッ」

 じわり、と先端が潤むのがわかる。

 とろりと溢れ出したそれが、晴真の下着のなかを濡らしてゆく。

 パンパンに張り詰めたズボン。苦しくて、堪らなくつらいのに……身体が、笹島を拒絶してくれない。

「ここ、そんなに感じるのか?」

 耳朶を軽く甘噛みするようにして囁かれた。指先でこねくり回されたそこは、すっかりカタチを持ちはじめている。

 ――いやだ。こんなとこ……男が感じていい場所じゃないのに……。

 笹島に出会うまで、まさか自分が同性とこんなことをするようになるとは想像もしていなかった。

 それなのにいま、笹島に触れられるたびにその身は震え、底なしの快楽に溺れていってしまう。

「ほら、こんなに硬くなってる。いやらしいな。ほんのすこし弄られただけで、こんなに勃起させちまうなんて」

 すっかり膨れ上がった胸の尖りをツンと引っ張りあげるようにして笹島はいう。

「んぁっ……やめっ……」

 そんなに乱暴にしたらダメ。

 頭ではそう思うのに、はしなく身体は反応し、晴真の中心は、タガが外れてしまったかのように止め処なく蜜を溢れさせつづけている。

「どうされたい。なあ、晴真。どうされたいんだ」

 じっと見つめられ、蕩けそうに深みのある声で問い詰められる。

「ぅ……いまの、まま。――いまの、ままでいい、です……」

 与えられる刺激に極限まで昂ぶった身体。自分の中のみだらな獣が、目を覚ますのがわかる。

 女の子を前にしたって、こんな気持ちにはならなかった。自分でも自分の身体が、どうなってしまったのかわからない。

 怖い。どうにかされてしまったのだ。

 笹島のせいで、おかしくされてしまった。

 不安で堪らないのに……目の前にいるこの男に、触れて欲しくてたまらない。

 気づけばワイシャツのボタンに手をかけていた。無意識のうちにネクタイを解き、ボタンを外しはじめた晴真の手のひらを、笹島が掴む。

「誰が脱いでいいといった」

「ダメ、なんですか?」

 声が震えた。笹島の目が、真っ直ぐ自分を見つめている。その視線の強さに、眩暈を起こしてしまいそうだ。

「なぜ、脱ごうとする。――じかに触れて欲しいから、か?」

 耳元で囁かれ、かぁっと頬が火照る。自分のいやらしさを責められているみたいで、いたたまれなかった。

「ちがっ……この部屋、暑いからっ」

 照れくさ紛れに発した言葉。笹島は晴真の頬に手をかけると、耳朶に触れるほど唇を近づけ、全身を震わせるような低い声で囁いた。

「そんなに暑けりゃ、全部脱がせてやる」

 びくりと身を縮ませた晴真の上に馬乗りになると、笹島は一気にシャツやズボンを剥ぎ取ってしまう。下着まで一緒にずりおろされ、あっという間に一糸まとわぬ姿にされてしまった。

「ちょっと待ってください、誰もここまで脱がせてほしいなんていってな……っ」

 慌てふためき、シーツに潜り込もうとして力強い腕にぐっと抑え込まれる。

「脱ぎたいといったのはお前だろう。いまさら、なにを恥ずかしがる必要がある」 

 笹島はまだネクタイひとつ緩めていないのに、自分だけがすべてを晒した姿。そのことが恥ずかしくて、晴真は、いますぐ消えてしまいたい気持ちになった。

「俺だけ裸とか、恥ずかしいに決まってんじゃないですかっ。笹島さんも脱いでくれないと……ズルいですっ」

 かろうじて股間をタオルケットの端で隠しながらそう叫ぶと、笹島はにやりと笑った。

「俺が脱いだら、もう後戻りはできなくなるぞ」

「そ、そんなの……最初からわかってますっ」

 晴真がそういい終るや否や、笹島は手早く服を脱ぎ捨てた。

 シックなモノトーンの仕事着の下から現れたのは、逞しく鍛え抜かれた褐色の肉体。同じ男として自分の身体が情けなく思えるくらいに、雄々しい魅力にあふれた身体だ。

 そしてその中心は、思わず目を覆いたくなるくらいに逞しくそそり立っている。

 ――あれで、貫かれるのだ。

 想像しただけで、おかしくなってしまいそうだ。

 唐突に覆いかぶさられ、がっつくようなキスをされる。

「こんなにいやらしく勃起させて。――ガキのくせに、けしからん身体だ」

 キュッと胸の尖りを摘み上げ、笹島はねっとりと晴真の首筋を舐る。

「ふぁっ……ぅ、んっ……」

 こんな場所まで感じてしまうなんて……。

 ずくりと体内を駆け巡る快楽に、己のはしたなさを心から呪った。

 頭ではそんなふうに思うのに、身体はいうことを訊いてくれない。すっかり猛った中心からは、止め処なく蜜が溢れ続けている。

 鈴口から溢れ出したそれは茎を伝い、晴真のささやかな茂みを濡らし、内腿を伝って嚢の裏側までじっとりと濡らしている。

「はしたない身体だ。晴真、お前はどこまで濡らせば気が済むんだ」

 ずるい、と思う。

 普段は晴真の名前などほとんど口にしないくせに。こうしてベッドを共にしたいま、笹島は執拗に晴真の名を呼び続ける。

 そうすることで晴真がより極限まで追い詰められることに、おそらく気づいているのだろう。

 笹島の武骨な指が、晴真の濡れそぼった内腿を辿ってゆく。

 手の甲がかすかに竿に触れて、ビクンとひときわ大きく身体が跳ねた。

 内腿を優しくなぞられながら、口づけられる。ぴったりと重なった肌。逞しいその胸に抱かれる感触に、それだけで意識が遠退きそうになる。

 すごく、熱い。

 こんなふうに裸で肌を重ねるのははじめてだから、ほかのひとの身体がどうなのかはわからない。笹島の身体は晴真が想像していたよりもずっと熱く、その肌はおどろくほど滑らかだった。

 触れ合ったそばから、蕩けてしまいそうな錯覚に陥る。

 まるで焼きたてのホットケーキのうえで蕩けるバターのように、晴真の身体も、意識もとろとろに蕩かされてしまう。

 もっと乱暴にされるかと思ったのに、笹島は服を脱いだあとも、決して早急に晴真を貫くことはなかった。

 裸のまま晴真の身体を抱きしめ、髪や身体の隅々に優しい愛撫を与え、何度も、何度も口づけてくれた。

 頭のてっぺんからつま先まで、全身くまなく触れられ、口づけを与えられる。

「や、め、そんなとこ……きたなっ……!」

 一度は素通りしてくれたから安心していたのに、笹島は晴真の足の指を一本ずつ丹念に舐ったあと、再び上に戻り、晴真の先端にちいさなキスを落とした。

「汚い? お前の身体に汚い場所などあるわけがないだろう」

 真顔でいわれ、耳までジンと火照ってゆく。

「で、でもっ……そんなに汚れて……っ」

 すっかり濡れそぼったそこが、ぼんやりとしたフロアライトの光を浴びていやらしく光っている。

 いったいどれくらい時がたったのだろうか。夕焼けだった空はすっかり濃紺に染まり、夜の闇に包まれている。

 挿れられる前から何度も絶頂を与えられ、そのたびに意識を失い、揺さぶられて引き戻された。晴真の身体もシーツもすっかり白濁にまみれ、それでも笹島は晴真を解放してはくれない。

「汚れてなんかいない。晴真。――お前の身体はいやになるくらい、どこもかしこもきれいだよ」

 熱い舌でねっとりと舐めあげられ、それだけで達してしまいそうになる。

「ひゃぅっ……ん、はぁっ……」

 大きく肩で息をしたその瞬間、ずくり、となにかが晴真のなかに入り込んできた。

「ぁ、ささしまさ、や、ちょっとまってっ……!」

 手足をばたつかせて暴れる晴真を、笹島はやんわりと抱き留める。そして耳朶に口づけながら囁いた。

「大丈夫だ、晴真。お前が欲しいというまで、絶対にしない。安心しろ。こうして指で可愛がるだけだよ」

 ずずっと入り込んできた指先。

 たった数ミリのその侵入で、何者かに身体を乗っ取られてしまったような錯覚に陥る。ボーっと意識が拡散してゆくのに、触れられているそこは不思議なくらいに過敏で、ほんのすこし動かされただけで、電流が駆け抜けるような鮮烈な衝撃が走る。

「や、だ、笹島さん、それ、だめっ。おかしくなる、おかしくなるからっ……!」

 ほんのすこし指を埋め、晴真が嫌がるとすぐに抜き、笹島はあやすように甘やかなキスを与えてくれる。

「あふっ……ん、ぁ、んぅっ……」

 優しいキスに溺れていると、掻き混ぜるように髪を撫でられ、頬ずりされ、「晴真」と蕩けそうな声で名前を呼ばれた。

 朦朧とする意識のなか、晴真も笹島の名を呼ぶ。

 呼んで、唇を突き出すようにしてキスをねだって、その背中に手を回し、ぴったりと身体を重ね合わせる。 

 汗ばんだ肌。なぜだかその湿った感触が、とても心地よく感じられた。

 口づけるうちに、笹島の呼吸が荒く乱れてゆくのがわかる。欲情しているのは自分だけじゃないんだって思うと、なんだかとても嬉しかった。

 肌も、舌も、唾液も、全部が熱く火照っているのがわかる。

 舌先が痺れるほど交わしあったキス。今までだってたくさん口づけあってきたけれど、今までのキスを全部足しても足りないくらい、今日のキスはたまらなく官能的だ。

「ささしまさ、もう、だめ、また……イッちゃ……んぅっ……!」

 自分のなかに、笹島がいる。

 ほんの数ミリしか受け入れられなかったはずの彼の指が、いつの間にか根元まで入りこんでくるようになった。

 なかをぐるりと抉るように刺激され、ヒクンと身体が跳ねあがる。

「ああ、イけ。晴真、我慢しなくていいんだ。好きなだけ乱れるといい」

 軽く鼻の頭を噛まれ、ちいさく首をふる。

「ヤだ、笹島さんも……笹島さんも、いっしょに、イこ」

 無意識のうちに笹島の腰を掴み、自分のほうに手繰り寄せる。

 笹島はくしゃりと晴真の髪を撫で、

「いいのか?」

 と囁いた。

「ん――」

 照れくさくなって、目を背けたまま、ちいさく頷く。すると、笹島は今までにないくらいやさしく、甘やかなキスをしてくれた。

「晴真」

 あいしてるよ。

 笹島がいうはずのない、言葉。

 都合のいい空耳が、聞こえた気がした。

 そんな言葉を望んでしまう自分が、ちょっと信じられない。

 不思議なことに、とても静かだった。

 もっと怖くてたまらないと思ったのに、荒れ狂う暴風がやんだあとの凪いだ海みたいに、おだやかな静寂が訪れる。

 笹島の熱を、感じる。熱く猛ったモノが、晴真のそこに触れている。

「晴真」

 もういちど、耳元で囁くように名前を呼ばれた。

 いよいよなんだって思うと、やっぱりすこしだけ不安になってきた。

 晴真は手さぐりに笹島の手のひらを探し出し、ぎゅっと握りしめる。笹島はそれに答えるようにそっと握り返すと、晴真の手のひらを引き寄せ、その甲にちいさく口づけてくれた。

「晴真」

 二度目の口づけを手の甲に感じたその瞬間、ぬらりと割り入られる感覚に苛まれた。

 痛みは、なかった。

 だけど……熱い。

 焼けただれてしまいそうなくらいに、熱い。

「んっ―――――」

 ギュッと笹島の手を握る手に、力を籠める。

 頬を、ひと筋の涙が伝った。

 かなしいわけじゃない。それなのになぜか、涙が溢れてくる。

 痛いのとも違う。なにか。からだの内側から、開かされてゆく感じ。心もからだも開かされて、全部、自分の全部が……彼のものになる。

「痛く、ないか?」

 囁く笹島の声が、熱に潤んでいる。

 心なしか呼吸も、さっきより乱れているように感じられた。

「ん、へいき……ささしまさ、いい、よ、そんなに加減しなくて、だいじょぶ。だから、もっと……」

 自分のからだのなかに、自分以外の存在を受け容れる。

 今までに味わったことのない未知の感覚に、からだの奥のほうから得体の知れない快楽が湧き起こってくる。

「はぁっ……ん、ささしまさ、いいから、もっと、そばに……あぁっ……ッ!」

 ずくり、と進まれた瞬間、脳天まで激しい快楽が突き抜けた。

 一気に突き抜けたそれは、あっという間に晴真を高みへと放り投げてしまう。

「あぁっ……ぃ、イっちゃっ……あぁ、イクッ、んーーーーッ!」

 びゅるり、と達した瞬間、なにもかも吹き飛んで、白い光に包まれた。

 最後に感じたのは、頬に触れるあたたかな笹島の手のひら。

 晴真は汗ばんだ彼の胸に抱かれたまま、意識を手放してしまった。





 目覚めると、笹島の腕のなかだった。

 さんざん汚したシーツも、白濁まみれの晴真の身体も、どうやらすっかり清められているようだ。

「うわっ、ごめんなさい、俺、途中で……ッ」

 昨夜の記憶が一気に蘇る。

 思いのほかやさしい愛撫で何度も蕩かされ、最奥まで挿入された途端、意識を失ってしまったのだ。

 あのあと、笹島はいったいどうしたのだろう。

 数えきれないほど絶頂を迎えた晴真とは対照的に、彼はまだ一度も気持ちよくなっていないはずだ。

「気にするな。はじめてなんだろう?――身体は大丈夫か」

 やさしく髪を撫でられ、かぁっと頬が火照る。

「ん、でも……笹島さんは……」

 自分ばっかりよくしてもらって、なにも返せていない。そのことを申し訳なく思った晴真の頬を、笹島の大きな手のひらが包み込む。

「申し訳ないなんて、思う必要はない」

「だけどっ……」

 毎朝、彼は五感をリセットするために海に入ることを日課にしている。

 営業前のひととき。珈琲の匂いから完全に解放され、汐の香りに包まれるのは、彼にとってとても大切な儀式のようなものだ。

 自分のせいで、その重要な日課すら邪魔してしまった。

 申し訳なくてどうしていいのかわからなくなった晴真の頬に、笹島はやさしく口づけてくれた。

「なにも最初からすべてを求めたりしない。珈琲といっしょだ。すこしずつ、俺の味を覚えてくれればいい」

 深みのある声に包まれ、とろんと意識が蕩けてしまいそうになる。

 だいすきな、笹島の声。

 囁かれただけで、じわりと先端に蜜が滲む。

「笹島さ……」

 きゅうっと胸が苦しくなって、ジンジンと頬が火照るのがわかる。

 すぐそばに笹島の顔がある。それだけで……どうにかなってしまいそうだ。

「お前はほかの男を知らないのだろう?――たっぷり時間をかけて俺の味を教え込み、自分から腰を振って求めずにはいられない身体にしてやる」

 ねっとりと下唇を舐められ、堪えきれずその舌に自分の舌を重ね合わせる。

「――いやらしいな。少し前まで、唇をあわせるだけで震えていやがったのに」

 からかうようにいわれ、それでも止まらなかった。舌を伸ばし、深く、笹島の熱を求める。

 意識が飛びかけたそのとき、スマートフォンの着信音が響いた。

「お前のスマホか?」

「ん、ごめんなさい。マナーモードにするの忘れてました」

 誰からだろう、こんな時間に。

 時計を見ると、まだ朝の六時前だ。こんな時間にかかってくる電話。祖父の姿が頭を過り、唐突に不安に襲われる。

 慌てふためき、床に転がったズボンのポケットからスマートフォンを引っ張り出す。すると液晶画面には、祖父の入院する病院の名が表示されていた。スワイプして耳に当てると、切羽詰った看護師さんの声が聞こえてくる。

「どうしよう、じいちゃんが……じいちゃんがっ……」

 頭の中がまっしろになって、目の前に笹島がいるのも忘れ、泣き崩れてしまう。

「――おい、晴真。どうした。マスター、旅行にいってんじゃなかったのか。まさか現地でなにかあったのかっ」

 晴真からスマホをひったくり、笹島は唸り声をあげる。

「茅ヶ崎中央総合病院……おい、晴真。これどういうことだ」

「ごめ、なさい、おれ、嘘、吐いて、ごめん、なさ……っ」

 しゃくりあげながら泣き続ける晴真に、笹島はシャツを投げつけた。

「いいからさっさと服を着ろ! ここにマスターがいるんだな。いくぞ、晴真、立つんだ」

 抱きかかえるようにして立ち上がらされ、服を着せられる。着終ると、引きずるようにして外に連れ出された。

「乗れ!」

 バイクのヘルメットを被せられ、跨るよう命じられる。

 笹島を具現化したみたいな、武骨なアメリカン。晴真は混乱状態のまま笹島の後ろに跨り、その背中にしがみついた。



「マスターの病気のこと、どうして黙っていたんだ」

 主のいない病室。笹島に問い質され、晴真はなにも答えることができなかった。

 大量に吐血し、容体が急変した祖父は手術室に運ばれたまま、いまだに戻ってこない。

「――すみません」

 いまさらなにをいっても、言い訳にしかならない。晴真はただひたすら頭を下げることしかできなかった。

「お袋さんには連絡したのか」

「いえ……」

 離婚後、父も母も別の相手と所帯をもっている。どちらも相手は初婚で、親族にはバツイチであることを明かしていないようだ。

 自分の存在は、両親にとって『なかったこと』にされている。

 いまさらそんな相手に、連絡しようとは思えなかった。

「じいちゃん、あのひとには連絡しなくていいっていってました」

「そんな言葉を真に受ける馬鹿があるか!」

「だけど……っ」

 子供じみていると思われるかもしれない。だけどそうしなくては、自分の存在が惨めに思えて耐えられないのだ。

「だいたいお前、こんな状況下でなにが弟子入りだ。もっとちゃんと、そばについていてやらなくちゃダメじゃないか」

 叱り飛ばされ、なにも言い返せなくなる。

 祖父が、ここにはいさせてくれないのだ。

『お前にはやるべきことがあるだろう』と、付き添うことを許してくれない。

 学校に行け、こんな場所で遊んでいる暇があるならバイトでもして社会勉強をしてこい、とうるさくいいつづけるのだ。

「じいちゃんが……ここにはいちゃダメだっていうから」

 自分自身にいいきかせるみたいに、声に出してみる。

 ほんとうはわかっているのだ。

 ただ、怖いだけだ。弱り続けて行く祖父を見ているのが、怖いだけ。

 膝から力が抜けてゆく。崩れ落ちそうになった晴真を、笹島のたくましい腕が抱きとめる。

「見て……らんないんだよ。ここにいてベッドに横たわるじいちゃんを見てたら……不安でたまらなくなる。ガッコで勉強してたら、政にぃんとこで修業してたら、やせ細ったじいちゃんの姿、忘れてられる」

 声が震えた。目頭が熱くなって、指先まで震えはじめる。

 敬語なんてつかう余裕もなくて、それどころか笹島のことを『政にぃ』なんて呼んでしまって……ダメだって思うけど、とまらない。

「明日になったら元気になってるかもしれないって、思う。癌なんか医師(せんせい)が治してくれるって。馬鹿みたいだって思うかもしれないけど、そう思わなくちゃやっていられないんだ。――だってじいちゃんがいなくなったら俺は、今度こそひとりぼっちになっちまうんだよ。誰も、いなくなっちまうんだ……ッ」

 ――ひどい孫だ、と思う。

 じいちゃんに生きていてほしいのは、じいちゃんのためじゃなく、自分自身のためなのだ。

 一人きりになりたくない。

 これ以上、寂しい思いをしたくない。

 だからじいちゃんに生きていてほしい。あの店がなくなって欲しくない。

 サイテーだ。

 だからこそ、胃の全摘はしたくないという祖父を説得し、無理やりに近い形で手術を受けさせたのだ。

 それなのに予後は芳しくなく、祖父は日に日に弱っていってしまう。

 大きな手のひらが、晴真の頬を包みこむ。そっと目のきわを拭われ、自分が泣いているのだということに気づいた。

「誰だってそうだ。俺もそうだった。――誰もお前を責めたりはしない。辛いのはわかるよ。だけどいま、最優先すべきなのはマスターの気持ちだ。口では連絡するなっていったって、血を分けた娘なんだ。会いたくないわけがないだろう」

 今すぐ連絡しろ、といって笹島は彼のスマホを差し出してくる。

「公衆電話でかけてきます」

 晴真はそう告げて、濡れた頬を拭いながら一階の売店脇にある公衆電話まで向かった。



 世のなか、物語のようにはうまくできていないと思う。

 驚くほどはやく減ってゆくテレフォンカード。何枚ものカードを浪費して、晴真はただ絶望だけを味わわされる羽目になった。

『ごめんなさいね、いま、娘が大変な時期で……日本に行くわけにはいかないの』

 久し振りに聞く母の声は受話器越しのせいか、なんだか見ず知らずのひとの声のように感じられた。

 再婚後、海の向こう側の遠いまちで暮らしている母。彼女の暮らすバーミンガムは、現在真夜中だ。

 きっと遠く離れているから、声もおかしく聞こえるんだ。

 そんなふうに思ったあと、晴真は自分が母の声だと思っていた声が、果たしてほんとうに実際の母の声なのかどうか、自信が持てなくなってしまった。

 写真のなかの母は、すこしだけ祖母に似ている。だから優しかった祖母の声を、母の声と勘違いしているのかもしれない。



 病室に戻ると、笹島が窓際に佇み、眼下に広がる海を眺めていた。

 海沿いに立つ病院。病室から海が見えることだけが救いだと、祖父はいつもいっている。

「どうだった?」

 尋ねられ、晴真は母にいわれたままの言葉を伝えた。

「えっと……じいちゃんと母さんは昔から色々と折り合いが悪くて……向こうだけが一方的に悪いわけじゃないっていうか……」

 この期に及んで母を庇ってしまう自分が、なんだかすこし哀しい。

 なにもかも放り出して駆けつけてくれるのではないかと期待していた。そんな自分が、無性に滑稽に思えた。

「――そうか」

 笹島はそういうと、晴真の髪をくしゃりと撫でた。

「ならば余計に、お前がしっかりしなくちゃいけないな」

「――はい」

 頷くと、明日からは絶対に店には来るなよ、といわれた。

「どうしてですかっ」

「どうしても、だ。いっただろう。マスターにはお前が必要だ。口では来るな、といったってな、どう考えたってお前にいて欲しいに決まってる」

「だけど店は……」

 ようやくあの店を開けられると思ったのに、これではまたふりだしに戻ってしまう。

「そんなものはいつだって再開できるだろう。いいな。ウチに来ても二度と店には入れない。――いい加減、判れよ。お前の居場所は『店』じゃない。マスターのいる場所、それがお前の居場所だ」

 笹島はそういうと、軽く晴真の額をデコピンした。

「んなことより、入院費用は大丈夫なのか」

 痛いところを突かれ、ビクンと身体がこわばる。

「そ、それは……」

 正直にいうと、あまり余裕がない。

 度重なる手術に、化学療法。高額療養費制度があるとはいえ、その制度ではまかなわれないものも沢山ある。長期の療養。決して負担は軽くはない。

「困ったときは遠慮なくいえ。マスターには世話になってんだ」

 晴真の髪をくしゃくしゃと撫で、笹島は病室を出て行こうとする。

「どこに行くんですか」

「どこって店に帰るんだよ。――あのひとのことだ。弱ってるところなんか見せたくないって思ってるんだろう」

 長い付き合いだからわかるんだよ、と言い残し、笹島は出て行ってしまった。



 手術室から祖父が出てきたのは、それから一時間ほど経ったころだった。まだ麻酔がきいているのか、話しかけてもまともな答えは帰ってこない。

 またもやひとまわりちいさくなってしまったかのようなその姿に、胸が張り裂けそうになる。涙腺が緩みかけたそのとき、

『お前がしっかりしなくてどうするんだよ』と、笹島の声が聞こえた気がした。





 術後七日目の診察で、今後の治療方針について決断してほしいと医師からいわれた。

 緩和ケア病棟のある病院に転院するか、在宅で看護するか選べというのだ。

 これ以上手の施しようがないということだろうか。覚悟はしていたけれど、実際に突きつけられると、言葉すら出てこなくなった。

 ここ数日は祖父の容体もずいぶん安定してきて、

「お前がチョロチョロしていると気が休まらない」

 と憎まれ口まで叩くようになった。

 祖父にはまだ医師からいわれたことは話してない。急に態度を変えると怪しまれると思い、晴真は今までどおり接することにした。

「学校でもどこでも好きなところへ行ってこい!」

 祖父に怒鳴られ、ベッドわきのパイプ椅子から立ち上がる。安っぽいパイプ椅子のビニールシートに自分の尻のかたちがくっきりと残っている。だけどそれはすこしずつ元に戻って、何事もなかったかのようにフラットになる。

 祖父の身体もこの椅子と同じように元通りになってくれたらいいのにな、と晴真は思った。

「わかったよ、笹島さんとこ行ってくる。――じいちゃんが退院するまでにめちゃくちゃうまい珈琲淹れられるようになってびっくりさせてやるから。楽しみにしておいてよ」

 できるだけ自然な笑顔をつくり、病室を後にする。

 泣きたい気持ちを必死で堪え、笹島の店に行くと険しい顔で追い払われた。

「なにをしに来た。二度と店には入れないといっただろうが。いますぐ病院に戻れ!」

「ちょっと待ってください。どうしてですかっ……」

 締め出され、何度呼びかけても相手にしてもらえない。

 諦めきれず、何度も扉を叩いたけれど、どんなに頼んでも中に入れてもらうことはできなかった。



 翌日以降も毎日通い続けたけれど、笹島の態度は変わらなかった。

 どんなに頼んでも、叫んでも、絶対に扉を開けてくれない。

「どうしたんです。喧嘩でもしたんですか?」

 いつもどおり締め出され、店の前で途方に暮れていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 振り返ると、真夏だというのに麻のジャケットを纏い、涼やかな顔をした早野が立っている。

「僕でよかったら話を聞きますよ」

 やわらかな笑顔を向けられ、晴真はその場に崩れ落ちてしまいそうになった。



 彼を伴い、自宅兼祖父の店のある茅ヶ崎まで戻る。

「いつ来てもよい店ですね。外の喧騒が嘘のようだ」

 飴色に焼けた一枚板のカウンターに、壁一面アンティークなレコードジャケットが並ぶ店内。カウンター席に腰かけた早野にせがまれ、珈琲を淹れる。

 覚えたてのフレンチプレスで淹れた珈琲。ひとくち含むと、彼はちいさく微笑んだ。

「政之の焙煎した豆ですね」

「わかるんですか?」

 笹島が豆を卸しているフレンチレストランからこっそり分けていただいたものだ。

 彼の焙煎した豆の味を忘れてしまわないように、毎日少量ずつ必ず呑むようにしている。

「関東エリアの自家焙煎の店は、ほぼ全店、網羅していますからね」

 フードコンサルタントの中でも、彼は喫茶を専門に扱っているようだ。珈琲に造詣が深そうだと思い、晴真は訊ねてみることにした。

「この豆、泣いてますか?」

「え?」

 不思議そうな顔で早野が首を傾げる。

「下手な淹れ方をすると『豆が泣く』って、笹島さんにいわれました」

 保存の仕方、挽き方、淹れ方、湯の温度、ドリップの時間。ほんのすこしでも変われば、豆の風味は変わってしまう。だから下手なやつには卸したくないのだ、と笹島はいつもいっている。

「どうでしょうねぇ。――僕は好きですよ。飾り気のない、まっさらな味がする。豆本来の味がそのまま表れている。まあ、欲をいえばもう少し色気があったほうが珈琲としての深みはあるでしょうけど。たまにはこういうのもいいもんですよ」

 そんなふうにいわれ、なんだか照れくさくなる。

 早野はじっと晴真を見つめると、口元だけで微笑んでみせた。

「どうして政之がきみを店から締め出したか、わかりますか」

 いきなり核心に迫られ、ギュッと胸が苦しくなる。

「わかりません。――嘘を、ついていたからでしょうか。あるいは……」

 目の前で子供のように泣き崩れてしまった。あんなふうに弱さを露呈してしまったから、つきあいきれないと思われてしまったのだろうか。

 店に入れてもらえないだけでなく、あれ以来、どんなに電話をしてもメールをしても返事はない。

「正直にいうとね、他人さまの恋なんか応援してやるもんかって思います。ましてやきみは恋敵(ライバル)だ。だけど……美味しいコーヒーのお礼に、ひとつだけ教えてあげます。――彼はきみの身体を心配しているんだと思いますよ。きみのおじいさん、胃がんなんでしょう?」

「ええ、そうです……」

 早野はちいさく頷くと、珈琲をひとくち飲んだ後、こう続けた。

「胃がんは癌の中でも、家族性の癌だといわれています。同じような食生活を辿ることがリスクファクターであると考えられているんですよ」

「家族性の癌……?」

「そう。つまりきみは普通のひとより胃がんになりやすい傾向にあるんです。おじいさんと同じ食生活をしていれば、同じように胃がんになる可能性が高い」

 笹島がとつぜん晴真を突き放したのは、祖父の病が発覚したあの日からだ。

 あれ以来、店に近づくことを禁じ、会話すらかわそうとしてくれない。

「まさか、笹島さんはそのことを心配して……」

 昔と違って、現代では珈琲を呑むことと胃がんに罹ることには直接的な因果関係はないといわれているのだそうだ。

「ただし珈琲に含まれるカフェインが胃に負担をかけることは事実ですし、ブラックのまま大量に摂取すれば胃を荒らす大きな原因となる。――多いんですよ。珈琲に携わる人間で、胃のトラブルを抱えているひと。真剣に向き合えば向き合うほど、胃に負担はかかりますからね。ましてや生まれつき胃の弱い体質の人ならなおさらだ」

 慢性的な胃潰瘍や胃炎が長期間つづくことにより、胃がんにかかる可能性も格段にあがるのだという。

「祖父のことがあるから……笹島さんは、僕の胃が弱いと思ったんですね」

 膝から力が抜けてゆく。思わず手にしていたソーサーを落としてしまいそうになって、慌てて流し台の上に避難させる。

「まあ、それだけじゃないと思いますけどね。きみの肌を見ればわかる。珈琲だけじゃない。お酒やたばこや香辛料。そういった刺激物を摂ることなく、いままで生きてきたんじゃないですか。きっと大久保さんはきみをとても大切に育ててきた。そういったことが現れるんですよ。肌や、色々なものにね。だからこそ政之はきみを珈琲から遠ざけたかった。――大久保さんの病のことを知り、その気持ちがさらに強まったんじゃないですか」

 指先の震えがひときわ大きくなった。いまにも崩れ落ちてしまいそうになって、とっさにカウンターに手をつく。

「愛されてますねぇ。腹立たしいくらいに」

 にっこり微笑み、早野はいう。

 残りの珈琲を呑み干すと、彼はカウンターに千円札を一枚置き、「ごちそうさまでした」といって立ち上がった。

「あ、いや、ちょっと待ってください。まだ勉強中の身ですからっ。お代なんて頂けませんよ!」

 急いで追いかけようとした晴真に、早野はやんわりと微笑んでみせる。

「いったでしょう。いい珈琲だったって。――こんなにおいしい珈琲、ただ呑みするわけにはいきませんよ」

 そう言い残し、彼は店を出て行ってしまった。



 ガスの元栓をしめ、急いで店を飛び出す。このまま笹島のところに直行したいのは山々だけれど、きょうは先月分の入院費の支払期日だ。

 病院に立ち寄り精算をお願いすると、受付の女性に不思議そうな顔をされた。

「大久保さま、ですね。――今月の支払はもうお済みですよ」

「そんなバカな。僕、まだ一円も支払っていませんよ」

 身を乗り出すようにしてそう告げると、扉の向こうから年配の男性事務員が顔を出した。

「ああ、大久保さんの支払いなら、このあいだ、店の従業員だという方が来て済ませていきましたよ」

「えっ……」

 従業員。ありえない。笹島が辞めたあと、あの店はずっと祖父がひとりで切り盛りしてきたのだ。

「もしかしてそれって……背の高い、日に焼けた男ですか」

「背は高かったですねぇ。がっしりしていてまっくろに日に焼けていて、喫茶店の従業員というよりは俳優さんかと思うような華やかな雰囲気のひとでしたよ」

 ――間違いない、笹島さんだ。

「教えてくださってありがとうございます!」

 晴真はぺこりと頭を下げ、病院の外に飛び出した。

 建物の外に出た瞬間、眩暈がするようなまばゆい太陽の光にさらされる。

 肌を焼く強烈な日差し。エントランス前に停まっていたシャトルバスに駆け込み、茅ヶ崎駅へと向かう。

 うだるような暑さのなか、階段を駆け上がって改札を抜ける。 

 たったの九分なのに、東海道線に乗っている時間が異常に長く感じられた。

 いますぐ走り出したいのに、どんなに焦っても電車の速度がかわることはない。じれじれした気持ちで車窓を眺め、やっとのことで大磯駅にたどり着く。

 ホームに降り立つと、耳鳴りのような蝉の声に包まれた。たったの二駅しか離れていないのに、どこか遠い田舎の町にやってきたみたいだ。

 改札を抜け、お屋敷街へと続く坂を駆け上がる。照りつける七月の太陽。全身から滝のように汗が噴き出してくる。

 こんなにも本気で走るのは、一体いつ以来だろう。暴れまわる心臓、ふらつく足元。何度も転びそうになって、それでも止まれなかった。

 全速力で店の門を潜り、中に転がり込む。店内はちょうど午後の営業の真っ只中で、笹島に思いきり睨みつけられた。

「客として来ました。グアテマラくださいっ」

 ひるむことなくカウンター席に腰かけると、

「ガキに出す珈琲はない!」

 と冷たくあしらわれた。

「ガキじゃない。もう二十三です」

「年なんざ関係ない。そういうお前の言動がガキくさいっていってんだ」

 そっけなくいわれ、それでも引き下がれない。

「なに言い争ってんだい。マスターこそ若い子相手に大人げない」

 隣に座る白髪頭のオジサン、常連の田中が応戦してくれた。

「ですよねー。訊いてくださいよ、田中さん。マスターったら僕のじいちゃんが胃がんだからって理由で、僕をこの店から追い出そうとするんですよ」

「なっ……晴真、お前っ……」

「あら、晴真くんとこのおじいちゃん、胃がんなの? 大変ねぇ」

 奥の席に座る常連のご婦人、水野が身を乗り出すようにして心配そうな顔を向ける。

「ええ、だから『お前も胃がんになる可能性が高いから、珈琲の仕事はするな』って。ひどくないですか。いきなりクビにされて追い出されちゃったんですよ」

「それは酷いわねぇ。マスター、本当なの?」

「違いますよ。こら、晴真。なに馬鹿なこといってんだっ」

「馬鹿なこと? なにが馬鹿なことなんですか。だって事実ですよね。ほかに理由があるならいってくださいよ」

「あのなぁ、晴真」

 呆れたようにため息を吐く笹島と彼を睨みつける晴真のあいだに、白髪頭の田中が割って入る。

「マスター、そりゃあおじいさんのことがあって心配なのはわかるけど、いくらなんでもそれだけでクビにしちゃあ可愛そうじゃないかい。この子、いまどきの若い子にしては珍しいくらい一生懸命やっていたじゃないか」

「――いえ、それだけじゃなくて……」

 反論しかけ、笹島はすこし困ったような顔で言葉を呑み込む。

「とりあえず、晴真。その話は閉店後にゆっくり聞く。――お前は洗濯物でも取りこんでこい」

 よかった。作戦成功だ。

 お客さまに迷惑をかけること、店内環境を乱されることを笹島は絶対によしとはしない。

 常連さんたちのおかげで、なんとか追い出されずに話を聞いてもらうことができそうだ。

「いいな、取り込むのが終わったら畳んで、庭の草むしりとガラス拭き。閉店まで店には戻ってくるな」

「――はい!」

 久々に仕事を命じられ、嬉しくて思わず笑みが零れる。

 カウンター席の田中と水野が、笹島に気づかれないよう、こっそりと笑顔を向けてきてくれた。



 閉店後、笹島は晴真に夕飯を食べさせてくれた。

 労働に対する対価だろうか。最初にこの店に居座り始めたころと同様、不機嫌そうな顔のままナポリタンを突き出してくる。

 この店にはフードメニューはないけれど、祖父の店はランチもやっていたから、笹島もひととおりの喫茶店メニューを作ることができる。

 祖母の考案したレトロなナポリタン。すこし硬さの残るピーマンと玉ねぎ、甘酸っぱいケチャップの味に懐かしさがこみあげてくる。

「それ食べ終わったら帰れよ」

「いやですっ」

 即答すると、ぐいっと後頭部を押しのけられた。

「帰れっていってるだろうが」

「帰りません。立て替えてくれた入院費だって返さなくちゃいけないし、それに……こんなに大事にされて、心配してもらって、帰れるわけがないじゃないですかっ。笹島さんのこと、嫌いになれるわけがない」

 涙腺が緩んでしまいそうになった。

 つめたいようで、誰よりも優しい笹島の気遣い。ありがたいけれど、だからといってこのまま離ればなれになるなんて嫌だ。

 珈琲を仕事にすることを諦めるなんて、いまさら絶対に出来そうにないのだ。

「ばーか、そんなのじゃない。一度抱いたらどうでもよくなったんだよ。ガキの身体なんか抱いたってちっとも楽しくない。だからお前なんかお払い箱だ」

 なにを勘違いしてるんだって、笹島はつめたく言い放つ。

「うそだっ。あんなにやさしくしてくれた。今だってきっと、笹島さんは俺のこと……っ」

 自信なんて、欠片もない。

 だけどそれでも引き下がれない。ほんのわずかでも可能性があるのなら、諦めたくないのだ。

 笹島の背中に手を回し、唇を重ね合わせる。自分から仕掛ける、二度目のキス。

 前回同様、膝がガクガクと震えた。だけど引き下がることなんかできなくて、ぐっと踏ん張って口づけつづける。

 頑なだった笹島の唇が、すこしずつ柔らかく潤みはじめる。温かく火照ったそれを食むようにして口内に押し入ると、晴真の下腹に触れる笹島の熱が硬く猛っているのがわかった。

「ほら、こんなに……大きくなってる」

 そっとそこに触れると、ぐっと肩を押さえるようにして引き剥がされた。

「――黙れ。とっとと帰れ」

「帰らない!」

 どんなに拒まれても引き下がれない。このまま終わりにしてしまうなんて、絶対に嫌だ。

「しつこい! いい加減にしろ」

 かすかに珈琲の匂いの漂う笹島の胸。逞しいその胸に抱き縋るようにして叫びかえす。

「胃がんになる可能性が高くたって構わない。長生きなんかしたって意味がないんだっ。珈琲も笹島さんもない生活を送って長生きするより、あの店を守って、珈琲を淹れて、笹島さんと一緒に生きて早死にするほうがいい!」

「馬鹿いうな」

 呆れたようにため息を吐かれ、それでも止まらない。

「馬鹿なんかいってない。いったじゃないか。笹島さん、いったよ。『命を削る覚悟のない人間に、珈琲を淹れる資格なんかない』って。俺、あるよ。命を削ってでも、おいしい珈琲を淹れられるようになりたい。笹島さんと一緒にいたいんだッ」

 ぎゅうぎゅうに抱き縋ったまま声の限りに叫ぶと、突然抱きあげるようにしてカウンターの上に押し倒された。

「これだけ忠告してやってもまだわからないって、お前はいったいどこまで馬鹿なんだ」

 顎を掴まれ、ぐっと向き直らされる。触れるか触れないかのところまで近づけられた唇。口づけられたときのことを思い出し、ギュッと胸が痛む。

「どこまででも。なんといわれたって、もう無理ですよ。珈琲のことも、笹島さんのことも、好きになっちゃったんだ。いまさら、諦めるなんてできるわけがない」

 言い終わるや否や、喰らいつくようなキスをされた。

 窒息しそうになって、めいっぱい口を開いて、だけど開けば開くほど奥深い場所に笹島の舌が入り込んでくる。

「んっ……!」

 遠のきはじめる意識。気づけば抱えあげられ、笹島の部屋に連れ込まれていた。

 二人分の体重を受け止め、巨大なベッドが軋む。笹島のキスはちっとも止まなくて、あまりの激しさに意識が朦朧としてしまいそうになった。

 頬を包み込む、笹島の手のひら。手のひらからも微かに珈琲の匂いがする。かさついた指先でそっと晴真の下唇をなぞると、笹島は晴真の首筋にねっとりとキスを落とした。

「ぁっ……!」

 熱く火照った唇で口づけ、濡れた舌でなぞられる。ぞわっと肌が粟立って、じっとしていられなくなった。

 シーツを掴んで身悶えると、やんわりと引き剥がされ、その手を彼の背中に導かれる。

 唾液の粘る水音がいやらしく響く。敏感な場所を執拗に舐られながら、同時に唇を弄ぶように指先で刺激される。

「んっ……はぅっ……笹島さ……ぁっ!」

 唇の内側が、こんなにも感じる場所だったなんて。親指の腹でねっとりとなぞられるうちに、とめどなく唾液があふれ出してしまう。

「や、め、そんな、汚れちゃ……んっ……」

 このままでは笹島の指を汚してしまう。そう思うのに、一旦あふれ出した唾液は止まることを知らず、晴真の意思とは裏腹に溢れ続けてしまう。

 唇のうえを辿っていた笹島の指が、ぬぷり、とさらに深い場所まで入り込んでゆく。

「んーーーっ!」

 柔らかな舌の上に指の腹を押し当てられ、晴真は思わず泣きだしそうな声で喘いだ。

「まったく。呆れるくらいにいやらしい身体だ。――お前はどこもかしこも濡れやすいんだな」

 首筋に唇を宛がったまま囁かれる。熱い吐息が吹きかかり、ゾクゾクと身体が震えた。

「ごめ、なさ、ん、ぁ、はぅっ……」

 舌の腹を蹂躙していた彼の指が、さらに晴真の敏感な場所に入り込んでゆく。舌の裏側の薄い粘膜に触れられ、涙腺がじわりと緩んだ。

 苦しい、わけじゃない。痛い、わけじゃない。得体の知れないなにかに、身体を乗っ取られてしまったみたいだ。

 はじめて笹島と肌を重ねた夜、教え込まれたその感覚が、ぶわりと全身を駆け抜けてゆく。

「馬鹿な男だよ、お前は。せっかくこんなにも穢れを知らない澄んだ肌をしていやがるのに。珈琲なんか常飲すれば、あっという間に肌質が変わっちまうぞ」

 ちゅぷり、と音をたてて晴真の首筋を吸いあげ、笹島はいう。晴真はじっと笹島を見上げ、こう尋ねた。

「――変わったら……俺のこと、きらいになっちゃいますか」

 なにかよくないことをいってしまっただろうか。笹島は動きをとめ、呆れたような顔で晴真の目を覗き込んだ。

 そしてため息交じりに、こう零す。

「お前……俺なんかの、どこがいいんだ」

「どこって……そんなの、突然聞かれても困ります」

 照れくさくなって目を伏せると、笹島は晴真の顎を掴み、ぐっと上向かせた。

「酒も煙草も、珈琲も覚えたてのガキはとりつかれたようにのめりこみがちだ。――セッ■クスも同じだ。目新しい快楽に溺れて、勘違いしているだけじゃねぇのか」

「違いますっ。別に笹島さんがはじめてじゃないし、それに……俺が惹かれてるのは、そんな部分じゃない」

 前半部分は、正直にいうと嘘だ。だけどなんだか子ども扱いされているのが悔しくて、見栄を張ってしまった。

 震える声で反論した晴真の頬に、笹島は手をかける。

「ほぉ、じゃあなにに惹かれてるっていうんだ。いってみろよ」

「なにって……うまくいえないけど。珈琲に対する姿勢とか、口では厳しいことばっかりいうのに誰よりも優しいところとか、それに……」

 笹島の好きなところなんて、挙げはじめたらキリがない。

 祖父との思い出を大切にしてくれているところ。晴真の身体を気遣ってくれているところ。自分自身に対してはとことん厳しく、お客さんに対してはどこまでも誠意を尽くすところや、子供やお年寄りには無条件に優しいところ。意外と礼儀正しくて義理堅いところ。

 たくさんあり過ぎて、いくつ挙げても止まらなかった。

「ええと、それから、箸の持ち方がきれいで最後の一粒まで残さずに食べるところや、モノを大切にするところ、それに……」

 ひたすら好きな部分を挙げつづける晴真に、笹島は呆れた顔を向ける。

「お前は生徒のいいところを一生懸命褒めようとする小学校の先生か」

「な、なにがっ」

 なにか間違ったことをいっただろうか。

 確かにちょっと先生が通知表に書き込む文章みたいになってしまっているけれど、だって仕方がない。笹島のそういうところが、晴真は好きなのだ。

「それならセッ■クスなんかする必要ないな。お前が惹かれているのは、俺の『性的な部分』ではないわけだ」

「そ、そんなことないっ。そういうところにも……惹かれてるからっ」

 おなじ男として悔しくなるくらいに整った顔だちや、じっと見るのを戸惑ってしまうくらいに艶っぽい眼差し。鍛え抜かれた体躯に、大きな手のひら。抱きしめてくれるその肌の熱さや、しっとりとした質感。笹島のすべてに惹かれているのだ。

 だけどそんなこと、いえるはずがなかった。言葉に出していえるはずがない。

 照れくささに、かぁっと頬が火照る。晴真は目を伏せたまま尋ねた。

「笹島さんは……俺のこと、好きじゃないのに抱いたの?」

 きっと笹島なら、できるのだと思う。

 あんなにたくさんの人たちとベッドを共にしていたのだ。愛情なんかなくたって、肌を重ねることなど容易いだろう。

「んな顔、するな。――好きでもないのに遊び慣れていないガキに手を出すわけがないだろう」

 やんわりと大きな手のひらで頬を包み込まれ、チュッと額に口づけられる。

「お前、元々は異性愛者なんだろう? ――俺といっしょにいれば、なくすものは大きいぞ」

 頬を撫でる笹島の指の感触が、とても気持ちいい。思わず目を細めながら、晴真は尋ねた。

「それって……ずっと一緒にいてくれるってこと?」

 やわやわと頬を撫でながら、ぐっと唇を近づけられる。

「お前みたいな『箱入り』。それくらいの覚悟がなけりゃ、手ぇだせねぇよ」

 触れるか触れないかのところで囁かれた言葉。晴真は唇を突き出すようにして、自分から口づけた。その瞬間、ギュッと抱きすくめるようにしてシーツに埋められる。

 宛がわれた笹島の熱が、ズボン越しにも猛っているのがわかった。口づけられながら、シャツのボタンを外されてゆく。優しくあやすようなキスに、意識も、身体も蕩けはじめてゆく。

 露わになった肌。素肌の重なりあう感触に、それだけで心臓が張り裂けそうになる。

 胸も胴体も、足も、とにかく全部をくっつけていたくて、その熱い肌に自分から身体をすり寄せる。

「いやらしいな。――そんな仕草、どこで覚えたんだ」

 耳朶をかるく甘噛みされ、ちいさく首を振る。

「ちがっ……覚えた、とかじゃなくて……ただ、笹島さんのそばにいきたいからっ」

 二人を遮るものが何もなくなって、それでも足りなかった。

 もっとそばに。

 もっとたくさん。

 全部で繋がって、笹島を感じていたい。

「そんなに欲しけりゃ、自分で求めてみろよ」

 唇を突き出すようにして、挑発される。

 晴真は笹島の頬に手をかけ、自分から唇を重ね合わせた。

 何度も、何度も、ちいさくぎこちないキスを繰り返す。

 火照った身体。もてあますように擦りつけると、

「相変わらずキスだけでトロトロになっちまうんだな」

 と、耳朶をしゃぶられた。

「んっ……だって、笹島さんのキスがエロいからっ……ぁっ……」

 耳殻に軽く歯を立てられ、その感触にさえゾクゾクしてしまう。

 触れられる場所、口づけられる場所すべてが、蕩けてなくなってしまいそうだ。

「はしたないな。こんなにして……ほら、自分で触ってみろよ」

 手首を掴まれ、自分の内腿に導かれる。鈴口からあふれ出した蜜が茎を伝い、じっとりと内腿まで濡らしてしまっていた。

「ごめんなさい……」

 消え入りそうな声でいうと、やさしく頬ずりされた。

「謝る必要はない。感じてるんだろう? 俺の愛撫に、欲情している証(あかし)だ」

 そんなふうに囁かれ、かぁっと頬が火照る。真っ赤になって俯くと、ぐっと顎を掴まれた。

「舌、出せよ。ほら、目を開けたままキスをするんだ」

 命じられるがまま、そっと舌を出す。目を合わせるのは恥ずかしくて、自然と視線を外してしまう。

「ダメだ、晴真。こっちを向くんだ。ちゃんと俺を見ていろ」

 おそるおそる視線を笹島に戻すと、じっと見据えられ、熱い舌で絡めとられた。

「んっ……」

 裸のまま交わすキス。唇だけじゃなくて、からだ全部で繋がっているみたいだ。

 笹島の熱が当たるのがわかる。互いの先端が擦れあって、ぬちゅりといやらしい音をたてた。

 偶然当たっただけかと思ったけれど、たぶん、そうじゃないんだと思う。何度も、何度も、笹島のそれが晴真のそこを擦り上げてゆく。

「ぁふっ……ん、だめ、笹島さ、それ以上シたらっ……んーーーーッ!」

 互いの熱が重なりあい、擦れあう。淫靡なその状況だけで、おかしくなってしまいそうだ。

 おまけに笹島のそこはとても熱く、擦られるたびに、晴真の身体をいままで味わったこともないような激しい快楽が突き抜けてゆく。

「んぁっ、ん、ん、だめっ、イく、イッちゃっ……あぁっ……!」

 びゅるりとあふれ出した白濁。笹島はそれを手のひらで受け止めると、晴真の身体に塗り込めた。

「ぁ、ゃ、ぅ、んっ……」

 達したばかりの敏感な身体が、笹島の指に翻弄されて跳ねあがる。

「こんなにたくさん出して。おまえは本当にいやらしいな。ほら……こっちまでヒクヒクしてるよ」

 白濁で濡れた指で、尻たぶを押し広げられる。

 あの夜、笹島の熱で貫かれた場所。与えられた強烈な快楽を思い出し、ぶるりと身体が震えた。

「いえよ、晴真。どうされたい」

 ぐっと顎を掴むようにして、顔を上向かされる。自分に対し、まっすぐ向けられた視線。照れくさくなって晴真はギュッと目を瞑った。

「黙っていたらわからない。ほら、どうして欲しいんだ」

 すぐそばに、笹島の熱を感じる。

 ――はやく、貫いてください。

 そんなこと、いえるはずもなくて、晴真は震える声でキスをせがんだ。

「キスだけでいいのか?」

 ゾクゾクするくらい低い声で囁くと、笹島は晴真に口づけてくれた。

 相変わらず笹島の舌はやわらかくて、熱くて、まるで独立した生き物のように晴真の口内をくまなく犯してゆく。

「ひぅっ……ん、ぁ、あぁっ……」

 達したばかりだというのに、あっという間にまた、形を取り戻してしまう。はしたなくそそり立った晴真の先端から、とめどなくいやらしい蜜が溢れ続ける。

「こんなに勃起させて。――どこまでも淫乱な身体だな」

 キュッと胸の尖りを摘みあげられ、思わず悲鳴をあげてしまう。

 笹島と出会うまで、誰にも触れられたことのなかった場所。あの夜、笹島に抱かれるうちに、すっかり性感帯に変えられてしまった。

「ここ、そんなに感じるのか?」

 右胸をねっとりと舌先で舐めあげられながら、左の乳首を指先で転がすように弄ばれる。あっというまに呼吸が乱れ、自然と腰が揺れはじめてしまう。

 そのことに気づいたのだろう。笹島は晴真の胸の尖りを舐めながら、その窄まりに手を伸ばした。

「ぁ、ん、ぅ……やっ……だめ、そこ、きたな、あぁっ……!」

 ぬらりと冷たい指先が、晴真のなかに入り込んでくる。抗おうとして、反論をキスで封じ込められた。

「んっ……ぅっ……」

 口づけられるうちに、身体から力が抜けてゆく。不思議なことに、すこしでも苦しさを感じると笹島は指の動きを止めてくれる。

 いったん引き抜き、窄まりのまわりをあやすようにやさしく撫でてくれるのだ。

 ぬるぬるの手のひらで足の付け根や嚢を刺激されるうちに、またもや自然と腰が揺れはじめてしまう。物欲しそうに蠢く晴真の窄まりに気づくと、笹島はふたたびその襞に指を這わせた。

「ぁ、ささしまさ、ん、ぁあっ……!」

 晴真の呼吸に合わせ、笹島はすこしずつそこを解してゆく。口づけに蕩かされ、やさしい愛撫に酔わされながら、晴真の身体はみだらに乱されてゆく。

 意識が飛んでしまいそうになったそのとき、笹島は晴真のなかに埋めていた指をゆっくりと引き抜いた。

「晴真」

 じっと見つめられ、そっと頬を撫でられる。心地よさに目を細めると、笹島の熱い昂ぶりが晴真のそこに触れた。

 ギュッと身を縮めると、やわらかな舌が口内に割り入ってきた。蕩けそうに熱い舌に絡めとられ、必死になってその熱を求める。

「ん、ぅ、はぁっ……」

 夢中で笹島の舌を求めるうちに、身体の奥の方が発火してしまいそうなほど強く熱を帯び始める。

 もどかしさに身をよじると、ぬぷり、と笹島の逞しい熱が入り込んできた。

「ん―――っ」

 待ちわびたその快楽に、堪えきれず悲鳴をあげる。笹島の背中に短い爪を食い込ませ、掻き毟るようにして晴真はその衝撃に耐えた。

 痛みは、ない。

 けれどもなにかにしがみついていないと、気がふれてしまいそうだ。

 ベッドに横たわっているのに、なぜかふわりとなにもない空間に浮いているみたいで、全神経が笹島の入り込んできたその場所に集中してしまう。

 自分の身体がまるで、そこを中心に存在しているみたいな不思議な気分だ。

 ほんのすこし動かれるだけで、頭のてっぺんからつま先まで、身体のすべてが激しく反応してしまう。

「やっ……も、おかしくなるっ……!」

 手足をばたつかせて暴れる晴真を、笹島はやんわりと抱きしめる。

「おかしくなっていいんだ。――晴真、どんなに乱れても構わない。お前のすべてを見せてくれ」

 耳元で囁かれ、もう、なにがなんだかわからなくなる。

 身体が、熱い。なかに入り込んできた笹島の熱も、押し広げられたそこも、全部が熱くて蕩けてしまいそうだ。

「痛くはないか」

 笹島は腰の動きを止めると、震え続ける晴真の身体をやさしく抱きしめ、あやすように頬や髪を撫でてくれた。

「ん、痛く、ないよ。痛くないけど……できれば……」

 はじめての夜、笹島は不安でたまらない晴真の手のひらを、ぎゅっと握りしめてくれていた。

 不思議なことにそうして貰うことで自然と震えが収まり、安心することができたのだ。

 きょうも手を握って欲しい。

 そう伝えたくて、けれども恥ずかしくて口にすることはできなかった。

 頬を染めたまま俯くと、笹島はやんわりと晴真の手を握ってくれた。

「え……」

 どうして言葉にしていないのに、わかったのだろう。不思議に思った晴真に、笹島はやわらかな笑みを向ける。

「このあいだのとき、お前、手が離れるたびに俺の手を探していただろう」

 晴真の手を口元に引き寄せると、笹島はその甲にチュッとちいさくキスを落とす。

「う……そ、そんなことっ……」

 否定しようとして、やさしく抱きしめられた。

「大切にしなくちゃダメだなって、つくづく思わされたよ。――いい加減な気持ちで抱いちゃいけない相手だって、本気で思った」

 じっと晴真を見つめ、笹島はそんなことをいう。

 じゃあ、どうして俺のことを突き放したんだよって反論しそうになって、大切に想うからこそ、全力で珈琲の仕事を諦めさせようとしてくれたんだってことに、いまさらのように気づく。

「笹島さん」

「なんだ」

 真っ直ぐ見つめられ、照れくさくてたまらなくなる。だけどそれでも言葉はあふれて、晴真は笹島の頬に自分の頬をくっつけるようにして、震える声で告げた。

「好き」

「ああ、晴真。俺もお前のことが好きだよ」

 やわやわと髪をなでられ、その感触に蕩けてしまいそうになる。脱力したその瞬間、より深い場所に笹島が入り込んできた。

「ぁっ……!」

「ほら、晴真。お前のここ、俺の全部を咥えこんでる」

 つないだ手を引き寄せられ、互いの結合部分に宛がわれる。

「やっ……」

 あまりの恥ずかしさに、おかしくなってしまいそうだ。

 自分の身体のなかに、笹島が入り込んでいる。奥深い場所まで埋め、ひとつに混ざり合っている。

「晴真」 

 繋がったまま口づけ、何度も、何度も名前を呼ばれる。やさしく髪を撫でられ、頬ずりされ、大切にされているのだと心から実感することができた。

「お前はまだ若い。いまから店をはじめたとして……店を畳むまで、きっと四十年も五十年もある」

 ただでさえ不景気な昨今。まちの珈琲店が十分な稼ぎを得続けるのは、並大抵のことではないと笹島はいう。

「お前のことを思えば、この手を離してやるのが一番だと思った。――あの人もそれを望んで、俺のもとにお前を送りこんできたのだろう」

 深みのある声に、とろんと意識が蕩ける。

 繋がった部分が熱い。熱く蕩けて、根元まで深く銜え込んでいるのに、もっと欲しいと貪欲に収縮してしまう。

「だが……もう、無理だ。お前を解放してやるなんて、出来そうにない。晴真。俺はお前を……」

 晴真を貫く笹島の熱が、むくり、とひときわ大きくなるのがわかった。苦しそうに発せられた言葉。その先の言葉を尋ねようとして喰らいつくようなキスをされる。

「んっ……!」

 両膝を抱え上げるようにして、深く埋めこまれる。すべてを呑み込んでいると思っていたのに、さらに奥深い場所までひと息に貫かれた。

「あぁっ……、笹島さっ……!」

 思わず叫び声があがる。痛い、のとは違う。苦しい、のとも違う。いままでとはまったく次元の異なる激しい快楽に、意識も身体も追いつかなくなってしまう。

 唐突に与えられた快楽に戸惑いながらも、身体はあっという間に劣情に染まってゆく。

 ギュッと笹島の手を握りしめ、唇を突き出すようにしてキスを求めながら、晴真はその熱を受け止め続けた。

「ぁっ……ん、はぅっ……だ、め、ささしまさ、イッちゃ……イキそ……んっ」

 ギシギシと軋むベッド。もう何度達したかわからなくいらにイッてしまったのに、揺さぶられるうちに、またもや高みに追いやられてゆく。

「ああ、いいよ。晴真、イけ。我慢することはない。どんなに乱れたって構わないんだ。何度だってイかせてやる……ッ」

 思いきり揺さぶられ、意識が飛んでしまいそうになる。

 焼け爛れそうに熱い笹島の昂ぶり。こみあげてくる激しい射■精感。だけどなにかが違う。イキそうなのに、なぜだかイけなくて……。

 やり場を失くした熱が、身体のなかをぐるぐると渦巻いている。達し過ぎて、もうなにも残っていないのだろうか。けれども晴真の中心は極限まで昂ぶり、いやらしい蜜を止め処なく溢れさせている。

 腰の奥の方からせり上がってくる熱が、晴真の理性を吹き飛ばしてしまう。

「や、だめっ……、笹島さんっ、んぁっ…おかしくなるっ……!」

 ぞわりと全身の毛が逆立って、なにがなんだかわからなくなる。

 繋いでいた手を離して、必死で笹島の背中に縋りついて、わけもなく涙が溢れはじめる。

「晴真、どうした。大丈夫かっ」

 慌てて腰を引こうとした笹島の身体を、全力で引き留める。

「やめないでっ、ささしまさ、もっと、もっとそばにっ……!」

 自分でもなにが起こったのかわかならい。

 晴真は無我夢中で笹島の身体に抱き縋り、その身体を両膝で挟み込むようにして引き寄せた。

 ぐっと挿入が深くなる。

 最奥まで貫かれて、それでも足りなかった。

「ささしまさ、もっと、そばに……っ」

 熱に浮かされたように呟き、晴真は笹島の舌を求める。

 唇で、舌で、汗ばんだ肌で、身体中の全てで繋がって、それでも足りない。

「晴真っ……!」

 ぐっと抱きしめられた。ベッドから身体が浮き上がるほど強く抱えあげられ、思いきり突き上げられる。

「んーーーーーーっ!」

 身体を突き破るほどの衝撃が突き抜け、びゅるりと晴真の先端から白濁が飛び散る。絶頂を迎えてもなお、晴真の体内の熱はすこしも収まることがなかった。

「ささしまさ、もっと、もっとちかくにっ……!」

 泣き叫びながら笹島を求める晴真の身体を、笹島はきつく抱きしめる。

 最奥まで埋め、さらに奥深くまで擦りつけるようにして、その楔を打ちつける。

「晴真っ……愛してる。離したくないんだ。お前を、離したくないっ……!」

 笹島の低い声音が、晴真の身体に響く。

 けれども晴真にはもう、その言葉を聞きとることも、意味を理解することも出来そうになかった。

「政にぃ、や、だめ、おかしくなるっ、や、ぁ、ん―――――ッ!」

 唐突に訪れた終焉。

 音も、ひかりも、なにもかもわからなくなって、晴真はただ笹島の背中に縋りついた。

 その瞬間、びゅるりと晴真のなかで笹島の熱が爆ぜる。止め処なく溢れ続けるそれが、晴真のなかを満たしてゆく。

 ビクン、ビクンと脈打つのがわかる。

 笹島はそれでも腰の動きを止めることなく、最後の一滴まで擦りつけるように晴真の最奥を貫き続けた。

「はぁっ……くぅ、はる、ま」

 名前を、呼ばれている。

 ぼんやりとそのことがわかって、けれども指一本動かすことができない。

 ぐったりとベッドに倒れ込んだ晴真の身体は、まるで水底に沈み込んでゆくように脱力している。

 すでに幾度目かわからない絶頂を迎え、達したばかりのそこからは、いまだ透明な蜜が溢れ続けている。

 白濁交じりのそれは、精液とも先走とも判別がつかず、達したあとも止まることなく、ひたすら溢れ続ける。

「ぁ―――――」

 果てのない絶頂。

 無限の快楽に蝕まれ、晴真の頬を涙が伝う。

「晴真」

 その涙を拭ってくれる笹島の指先にさえ、晴真の身体は過敏に反応してしまう。

「ぁっ……」

 ちいさな嬌声をあげ、ヒクンと跳ね上がった晴真の身体を、笹島はやんわりと抱きしめる。肌が触れあったとたん、ビクビクと震えはじめたその身体を、笹島はあやすように額にちいさく口づけた。

「晴真」

 名前を呼んでくれた。

 大好きなその声で、なにを語るでもなく、何度も晴真の名を呼び、抱きしめ、口づけてくれる。晴真にはそのことが、嬉しくてたまらなかった。

「あいしてるよ」

 温かな胸に抱き寄せられ、最愛のひとの声を聞きながら、晴真はまどろみに身を任せた。  







 翌日、二人は午後の営業を臨時休業にして正晴の病院に向かった。

 病室を訪れた笹島を見るなり、正晴は晴真を叱り飛ばす。

「あれほど病気のことは政之にはいうなといっただろうが!」

「申し訳ありません、マスター。私が無理やり聞き出したんですよ。晴真くんは悪くありません」

 ベッドの脇に膝をつくようにして正晴に視線の高さを合わせると、笹島は深々と頭を下げた。

「ご無沙汰しておりました」

「ふん。――なんの用だ。老いぼれの姿を憐れみに来たのか」

 ほんとうはとても嬉しいのだと思う。正晴は瞳を潤ませながら、それでも強がりの言葉を口にする。

 体中を蝕む癌細胞と抗がん剤の副作用による疼痛に苛まれながらも、精一杯虚勢をはっている。

「お迎えにあがったのです」

「なにっ?!」

「じいちゃん、帰るんだよ。退院だ。あんなに海、行きたがってただろ。医師(せんせい)、いいって。もう帰っていいっていってるよ」

 晴真の言葉に、正晴は俄かに眉根を寄せる。

「――手のほどこしようがないってことか」

 ぼそりと呟いた正晴に、晴真はなにも答えることができなかった。

「店を開けましょう。私もお手伝いします。マスター、『ビターズエンド』の営業を再開するんです」

「馬鹿をいうな。なんのためにお前のところに晴真をやったと思っている。昨今の喫茶不況はお前だって知らないわけじゃないだろう。――お前なら店を継ぐことを諦めさせてくれる。そう思ったからこそ託したんだろうが」

 吐き捨てるような声で、正晴はいう。

 大きな声を出したせいで苦しいのだろう。胸を押さえ、眉間に深くしわを浮かべている。

「わかっております。ですが……無理ですよ。マスターの血を引いてしまっていますから。『ビターエンダー』――なにがあっても己の主義主張を貫き通す者。首根っこ引っ掴んで従わせようとしたって、絶対に不可能です」

「え……店の名前って、もしかしてそこからとってるの?」

 晴真が尋ねると、祖父に代わって笹島が店名の由来を教えてくれた。

「ああ。そういうハードボイルド小説があるんだよ。『ビターズエンド〜不屈の男たち〜』主人公の探偵は珈琲が大好きで、いつもコーヒーショップでクダを巻いてるんだ」

「うそ。ビターズエンドなんていうから、『苦い別れ』みたいな意味かと思ってたのに……」

 意外だ。意外だけれど、とても祖父らしいと思う。しんみりしたほろ苦い別れより、ずっと祖父らしい。

「そんな名前を背負っているわけですから、マスターも店名通り、病なんかに屈せず頑張ってくれなくちゃ困りますよ。店は自分らで回しますが、あなたに逢いたくてあの店に来ているひとたちが大半なんですからね」

「――退院はしない。大体、お前には自分の店が、晴真には学校があるだろうが。若いモンに迷惑をかけるのは嫌だ。ここにいさせてもらえないのなら別の病院に移って……」 

「ダメです」

 やんわりと、けれども強い声音で笹島は正晴の言葉をさえぎる。

「晴真、退院の申請をしてこい。それから看護師さんに介護ベッドの業者と在宅介護に必要な用具、ケアを教えてもらうんだ」

「はい!」

「か、勝手なことをっ……!」

「無駄ですよ。血は繋がっていませんが、私はあなたの弟子です。店名どおり晴真も私も、絶対に自分の信念を曲げるようなことはしません」

 慈しむような笑みを浮かべながらも、きっぱりとした口調で笹島がいう。

 晴真はそんな二人をしばらく眺めたあと、ナースステーションに向かった。





「馬鹿モン! そんないい加減な注ぎ方をするやつがあるか!」

 良質なBGMを掻き消すように正晴の怒声が響き渡る。

 あれから三か月。

 余命三か月といわれ、退院して自宅療養をはじめた彼は、無事にその三か月間を生き抜いた。

「わざとじゃないって。ちょっと勢いよく出ちゃっただけで……」

 ドリップケトルを持ったまま、晴真は反論する。

 ネル袋のなかでは珈琲粉がふんわりとふくらみ、まろやかな香りを漂わせている。

 そのふくらみが正晴や笹島がドリップするときと違ってすこし歪なかたちなのは、おそらく湯の注ぎ方が悪いせいだろう。

「ああ、くそ。こんなどうしようもない孫に店を任せておちおち死ねるか!」

 よろめきながらカウンターの脇に設置されたリクライニングチェアから立ち上がる正晴を、さりげなく笹島が支える。

「ああ、いいよマスター。未熟なのも含め、楽しみに来てんだからさ」

 カウンター席の常連さんにそう窘められ、それでも正晴の怒りは収まらない。

「こんなもの、お客さまに出せるわけがないだろう! 政、淹れなおしだ、すぐに淹れなおせ!」

「かしこまりました。――晴真、これは俺が後で呑むから、向こうによけておけ」

 笹島の差し出したドリップポットを、なぜか晴真が受け取る前に正晴が横取りしてしまう。

「なに、ダメだよじいちゃん。珈琲呑んじゃ」

「やかましい。黙っておれ!」

 流れるような手つきで珈琲を淹れる笹島の隣で、正晴は神妙な顔つきでカップに口をつける。

「――まあ、味は……それほど悪くない」

 ぼそり、と呟いた正晴に、晴真がちいさなころからこの店に通ってくれている常連の井上がからかいの言葉を投げかける。

「なんだかんだいって、マスターはジジばかだな」

「うるさい。ほんとうに味は大丈夫なんだ! 嘘だと思うなら呑んでみろ!」

 食って掛かる正晴につられてカップに手を伸ばしかけた井上に、すかさず笹島が自分の淹れた珈琲を差し出す。

「こちらをどうぞ。――まだお客さまに出せるようなシロモノではありませんから」

「なんだい、マスターより政のほうが厳しいなぁ」

「そーなんですよ。もうホント厳しくて……」

 愚痴をこぼしかけた晴真の足をムギュッと踏みつけながら、笹島は笑顔で珈琲をサーブする。

『ウチの手伝いをするために自分の店を閉めるなんて許さんぞ!』

 と激怒する正晴を押し切り、笹島は大磯の店を閉め、この店、『ビターズエンド』を切り盛りしている。

「こうなることがわかっておったから、絶対にいうなといったんだ」

 ふて腐れた顔をしながらも、正晴の頬がすこし緩んでいるのがわかる。

 高校一年生から大学院卒業まで、笹島は九年間をこの店で過ごした。高校時代は通いだったが、大学入学後の六年間は、ほぼ住み込みで働いていた。

 詳しいことはわからないけれど、彼もまた複雑な家庭に育ったようだ。

 晴真にとってこの店がかけがえのない場所であるのと同じように、笹島もこの店と正晴をとても大切に感じてくれているようだ。

「大磯から通うのはちょっと大変だけど、こっちにはコレがあるから、ついつい足を延ばしたくなるんだよねぇ」

 そういって顔を綻ばせるのは、笹島の店の常連、白髪頭の田中だ。

 彼以外にもたくさんの笹島珈琲店のお客さんが、この店に笹島の焙煎した豆を買いがてら来店してくれる。

「ありがとうございますっ。気に入っていただけてうれしいです」

 田中が嬉しそうに頬を綻ばせて食べているもの。それは晴真の焼いたホットケーキだ。

 祖母の考案したこのメニューは、彼女が亡くなって十五年が経ったいまでも、この店の看板メニューとして愛され続けている。

「このあいだ晴真くんがガッコの日に笹島くんに焼いて貰ったんだけど、ホットケーキは晴真くんの焼いたやつのがうまいんだよなぁ」

「わー、ありがとうございます!」

 田中からそんなふうにいわれ、晴真の隣で正晴まで満更でもなさそうな笑みを浮かべる。

「よかったですねぇ、正晴さん。こんなにいい孫とお弟子さんに恵まれて」

 常連さんからそういわれると、正晴は急に不機嫌そうな顔をつくり、「フン!」と鼻を鳴らす。

 晴真は思わず笹島と顔を見合わせ、吹き出してしまいそうになった。



 営業時間終了後、店に不動産屋のひとがやってきた。大磯の店を売るための書類を持ってきたようだ。

「それではこちらの書類にご記入いただき、このリストに記したものを期日までにご用意いただけますか」

 静まりかえった店内に、笹島が書類をめくる音が響く。正晴が見たら、きっと頭の血管がブチ切れるくらいに激怒するだろう。

「ほんとうに、いいの?」

 二人きりになった店内。そう尋ねると、笹島は書類を封筒にしまい、ちいさく頷いた。

「元々、あの家を相続するのは乗り気じゃなかったんだ」

 笹島の母は妻子ある男性の子を身ごもり、女手ひとつで彼を産み育てていたのだそうだ。

 彼がそれを知ったのは、彼女が亡くなったとき。当時、彼はまだ七歳だったのだという。

 それ以降、父親だという初老の男性の元に引き取られ、本妻や二十歳ちかく年の離れた異母兄弟と共に暮らすことになったのだそうだ。

 商社勤務時代、その父親が病に倒れ、あの大磯の別邸を託すといわれたのだという。

『お前の母親はあの家から見える海が大好きだったんだ』

 そんなふうにいわれ、売り払うことも、ほかの兄弟たちに手渡すこともできなかったのだと、彼はいう。

「そんなに大切な家ならなおのこと……」

 晴真の言葉を、笹島はやんわりとさえぎった。

「死んだ人間のためにつかうより、生きている人間のためにつかったほうが、おふくろも喜ぶと思うんだ」

 完治の見込みがないとわかった今も、正晴には抗がん剤や放射線による治療を受けてもらっている。

『こんなもんに金を使う必要はない!』と、憤る正晴を説き伏せ、無理をいって受けさせているのだ。そしてその費用の全額を笹島が援助してくれている。

「ごめんなさい……」

 謝ると、むい、と頬を抓まれた。

「別にお前のためでもマスターのためでもない。俺は自分のために、あのひとに生きていて欲しいんだ」

 トン、と封筒の底でカウンターを叩くと、笹島は晴れやかな顔で微笑んだ。

 彼の笑顔はいつでも魅力的だけれど、そのなかでもとびきりの笑顔だと、晴真は思った。

 思わず言葉を失い、ぼーっと見惚れてしまう。

「むしろ踏ん切りがついてよかったよ。お客さんたちには悪いけど、やっぱりあの場所で過去に囚われながら生きるのは……あんまり気分がよくねぇからな」

 笹島は自分の家族のことを、いままで一度も口にしたことがなかった。

 もしかしたら亡くなったお父さんや養母、異母兄弟とは……あまりうまくいっていなかったのかもしれない。

 彼がいままで過ごしてきた日々を想い、晴真はすこし胸が苦しくなった。

 あの屋敷を売ったお金の一部で、笹島はこの店の近くに焙煎のための工房を構えるのだという。正晴が知ったらどれだけ怒るかわからないけれど、きっとどんなに叱られても、彼の決意が変わることはないだろう。

『珈琲に携わる仕事なんかするな』

 と、正晴や笹島からどんなにいわれても意思を曲げなかった晴真と同じように、笹島も決して信念を曲げることのない男、『ビターエンダー』なのだ。

 洗い物の手をとめ、晴真は手を伸ばしてカウンター越しに笹島の頬に触れた。

 ゆっくりと顔を近づけ、その唇に口づける。

 互いに珈琲の味の残る舌。絡めあってきつく吸い上げる。

「んっ……ぅ……」

 蕩けそうに熱い舌で絡めとられるうちに、身体の内側が熱く火照りはじめてしまう。

「――じいちゃん……まだ起きてる……かな」

 乱れた呼吸、うわずった声で晴真は尋ねた。

「どうだろう。わかんねぇけど……こんなことされたら、いまさら止まらねぇよ」

 笹島はそういうと、晴真の腕を掴んで引き寄せる。

 誘われるがままカウンターの外に出て彼の背に腕を回すと、抱きすくめられるようにしてカウンター脇のベンチボックスに押し倒された。

「ぁっ……!」

 この建物は一階が店舗で、二階が倉庫兼、居住部分になっている。正晴の暮らす和室のすぐ隣が、晴真と笹島の寝泊まりする部屋だ。

 壁の薄い古い家屋。とてもではないけれど、その部屋で行為にのぞむわけにはいかない。

 だからといって店内で抱き合うなんて、衛生的なことを考えても、倫理的なことを考えても絶対にしてはいけないことだと思う。

 最初のうちは自重していた二人だけれど、結局、こうして罪悪感に苛まれながらこの場所で求めあうようになった。

「ぁ、ちょっと待って……政之さん、まだダメ……っ」

 祖父のベッドにはコールボタンが設置してあり、いつ呼び出されるかわからない。

 たまにはじっくり求めあいたい気持ちもあるけれど、どうしたって互いに事を急いてしまう。

「ダメ、じゃねぇよ。お前が誘ってきたんだろうが」

 ズボンをずりおろされ、両膝をぐっと押し上げるようにしてベンチの上で恥ずかしい場所を晒させられた。

「ぁ――」

 熱く猛った笹島のそれが、敏感になった晴真の窄まりに触れる。

 できることならこのまま生で貫かれたいけれど、店内を汚すわけにはいかない。

「ゴム、つけないと……」

「ああ、お前がつけろよ、ほら。お前には俺がつけてやるから」

 笹島はコンド■ームのパッケージを器用に口で開けると、ひとつは自分の分身に、そしてもうひとつは晴真のうえに乗せてくれた。

「ん――」

 はしたなくそそりたった自分の分身にゴムをつけてもらうのも、逆に彼につけてあげるのも無性に照れくさい。

 耳まで真っ赤になった晴真の耳たぶを、笹島はねっとりと舐った。

「お前のその『恥じらい』が俺を暴走させるってことに、そろそろ気づけよ」

 低い声で囁かれ、ぶるりと身を震わせる。

「そ、そんなこといわれてもっ……ぁっ……!」

 コンド■ームをつけたばかりの笹島のそれが、早くも宛がわれる。使いきりタイプの粘度の高いゼリィを体内に注入され、愛撫もそこそこに割り入られた。

「ふぁっ……んぅ、ぁっ……」

 思わず声を漏らすと、「声が大きい」と窘められた。

「ん、わかってるけど……ぁっ!」 

 ずくり、とひと息に貫かれ、それだけで達してしまいそうになる。

 互いにワイシャツに黒いネクタイを締めたストイックな姿。ズボンだけをずりおろしたその姿で、はしたなく舌を絡めあう。

「んぁっ……ぁ、や、政之さっ……!」

 じわりと肌に汗がにじむ。じかに笹島の熱を感じたいのに、ワイシャツやコンド■ームに阻まれ、彼を遠く感じてしまった。

「晴真、舌、出せ、舌」

 互いに舌を突き出し、深く、深く絡めあう。

「ぁふっ……すご、んっ、奥まで入っちゃ……っ!」

 ズンッと突き上げられ、堪えきれず笹島の背中に両足を絡める。

「ヤらしいな、晴真は。そんなに奥まで欲しいのか」

 両足で挟み込むようにしてぐっと彼の身体を引き寄せると、挑発するようなまなざしで見つめられた。

「ん、欲し、もっと、ぜんぶ、政之さんの、ぜんぶ、欲しいっ……」

 どんなに奥まで貫いてもらっても、きつく抱きしめてもらっても足らない。

 裸で抱き合えないもどかしさに、心が、身体が、どこまでも笹島を求めてしまうのだ。

 舌を絡めて、手のひらを握りあって、それでも足りなくて、自分から引きよせ、一ミリでも深くと貪欲に笹島を求め続ける。

「ばか、ンなに締めたら……イッちまうだろうが」

 腰を引こうとする笹島の身体を、ぐっと引き留める。

「いいよ。いいから……イこ。俺ももう……イキそ」

 囁くと、唐突にがばりと抱きしめられた。

「く――だからどうしてお前は、そういう凶悪な顔ばかりするんだ……ッ」

 手首を掴まれ、半ば強引に笹島の背中に持っていかれる。

「いいな、しっかり掴まってろよッ」

 笹島はそういうと、繋がったまま、突然晴真の身体を抱え上げた。

「えっ、や、ちょっと待って、だめ。こんな……あぁっ……!」

 駅弁ファック、というやつだろうか。アダルト動画のなかで見たことがある。だけどあれは華奢な女の子を持ち上げるわけであって……まさか男の自分がこんなふうに抱えられてしまうとは思わなかった。

「あぁっ……!」

 戸惑う晴真の体内を、笹島の熱く猛った屹立が激しく貫く。

 突き上げられ、揺さぶられ、あっという間に高みへと追いやられた。

「だ、め、イク、イっちゃ……んっ……!」

 激しく肉のぶつかりあう音が、静まりかえった店内に響き渡る。

 ぐちゅり、ぬちゅり、と淫靡な水音が重なって、晴真の羞恥心をめちゃくちゃに破壊してゆく。

 中空に浮いた不安定な体勢。腰を逃がすことさえできず、奥深い場所を容赦なく貫かれ続ける。

「はっ……ぅ、や、笹島さ、だめ、イク、ぁ、ぁ、あ―――ッ」

 びゅるり、と達した瞬間、笹島のそれが体内で爆ぜるのがわかった。

 コンド■ームの薄い膜越しに感じる、笹島の熱。蕩けそうに熱くて……おかしくなってしまいそうだ。

 熱伝導率、当社比十倍。宣伝文句は嘘じゃないなぁ……と、ぼーっとする頭で馬鹿なことを考える。

「ふぁ……ぅ」

 脱力する晴真の身体を抱き締め、笹島はそっとベンチボックスに横たわらせてくれた。ティッシュで身体を拭き清めながら、やさしく口づけてくれる。

「ん――……ぅ、はぁっ……もぅ、だめ……」

 祖父の看病の手前、以前のように朝まで求め合うわけにはいかないから、一回の激しさが格段に増している気がする。時間が短いぶん、とてつもなく濃密さが増しているのだ。

「お前はしばらくそこで横になっていろ。閉店作業は俺がしてやる」

 わしわしと髪を撫でられ、その腕を掴む。

「いやだ。――政之さんも、すこしだけここにいてよ」

 両親の離婚に際し、父親からも母親からも「いらない」といわれてしまった晴真。

 祖父母のもとに預けられてからも、しばらくは周囲に気を遣い、誰にも我儘をいえない日々が続いた。

 そんな晴真が唯一、甘え、本音をいうことのできた相手。それが『政にぃ』だったのだ。

 目の前にいる笹島への愛情と、記憶のなかの政にぃへの郷愁がごちゃ混ぜになって、晴真は笹島の手のひらに頬を摺り寄せた。

「仕方のないやつだな。――すこしだけだぞ」

 呆れた顔をしながらも、笹島は晴真の身体を抱き締める。

「ん、ありがと。――政之さん、ごめんね、俺のせいで」

 ぎゅっとその身体に抱きすがり、そう告げる。

「なにが」

「いろいろ、ごめん」

 達した直後のボーっとした頭。敬語すらうまく使えなくて、晴真はすこし掠れた声で、こう続けた。

「向こうの店にいたら、いろんなひとと遊べたし、制限なくそういうこと出来ただろうし……それに……」

 いいかけた言葉、むいっと唇を掴んで封じ込められる。

「いっただろう。別に、お前のためでも、マスターのためでもない。俺は自分で選んでここにいる。いたいからいるんだ。いちいち謝るな」

「だけど……っ」

「しつこい。――あんまりしつこいともう一度犯すぞ」

 かぷ、と鼻の頭を甘噛みされ、思わず笑いがこみあげてくる。

「うーん、それ、全然脅し文句になってないよ。俺もしたいし」

 そんなふうに答えた晴真の額に、笹島は自分の額をくっつける。

 いつもよりすこし火照った額。心なしか吐息もまだ熱い。晴真が我を忘れて彼に夢中になったように、彼もすこしは晴真の身体に没頭してくれただろうか。

「あのな、晴真」

 笹島の声が全身に響く。

 大好きな彼の声。その声で名前を呼ばれるだけで、じんわりと胸があたたかくなる。

 たったそれだけのことで自分を幸せな気持ちにしてくれる笹島を、晴真はとても愛しいと思った。

「珈琲があって、好きな音楽がかかっていて、海が近くて、お前がいる。ここには俺に必要なものが、全部揃ってんだ」

 真顔でそんなふうにいわれ、涙腺が緩んでしまいそうになった。

「俺、珈琲や海やジャズと同列?」

「いやなのか?」

 ほっぺたを手のひらで包み込まれ、思わず目を細める。長年の水仕事のせいですこし荒れていて、節ばった大きな手のひら。触れられるたびに、満たされた気持ちになる。

「ううん、嬉しいよ。それって政之さんにとって、かけがえのないものってことだ」

 自分で口にしておいて、すこし照れくさかった。赤面した晴真の顎を、笹島はそっと上向かせる。

「ああ、そうだ。かけげのないモンだよ。――お前のいる場所が、俺の居場所だ」

 チュッとちいさなキスを落としたあと、笹島は晴真の身体をやんわりと抱きしめる。

 そして耳元に唇をくっつけるようにして、「あいしてるよ」と囁いてくれた。

 行為の最中にそんなふうに囁かれたことは今までにもあった。だけどそれ以外のとき、こんなふうに素の状態でいわれるのは今夜がはじめてだ。

「わ、いまの、空耳じゃない?」

 笹島の顔を覗き込むと、かぁっと赤くなっているのがわかった。

「う、うるさいなぁ、落ち着いたんなら俺は片づけに戻るぞ!」

「ちょっと待って、ごめん。もうすこし、もうすこしだけ……」

 慌てて引き留めると、笹島は呆れた顔をしながらも、もういちどギュッと晴真を抱きしめてくれた。

「政之さん、俺も。俺も政之さんのことが……」

 あいしてるって言葉は、どんなに頑張っても照れくさくていえなかった。

 だけど『すき』っていうだけじゃ足りなくて、晴真は笹島の身体にギュッと抱き縋って、「めちゃくちゃ好き!」と叫んだ。

 わしわしと髪を撫でられ、ほっぺたに口づけられる。くすぐったさに目を閉じると、今度は唇に笹島の吐息を感じた。

 ゆっくりと瞼をひらき、自分から唇を寄せる。

 見つめあったまま交わすキス。最初のうちは恥ずかしくてたまらなかったけれど、口づけるとき、自分を見つめる笹島の瞳があまりにも優しい色をしていることに気づいてから、晴真は彼から目を離せなくなった。

 抱きしめあったまま、何度も、何度も口づけを交わしあう。

 数えきれないくらい交し合って、もう珈琲の味なんか残っているはずがないのに、それでも笹島の舌はほんのり苦くて、彼の焙煎した極上の珈琲のように深みのあるやさしい甘さが溢れているような気がした。



 ほろにがい珈琲の香りの沁みついた店内。晴真はその甘みに酔いしれながら、いとしい笹島のキスに身を任せた。







=完=



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