二度目の恋の処方箋
カップルや親子連れでにぎわう聖夜の繁華街。人波のなか、ぐうぜん彼の姿を見つけた。
「確か今日は当直だから会えないって……」
病院に向かう途中だろうか。声をかけようとしたそのとき、うつくしい女性が寄り添うように彼に身を寄せた。
「ぁ……」
彼女は彼と腕を組み、もう片方の手で幼い少年の手を握っている。少年の聡明そうな顔だちが目に飛び込んできた瞬間、侑希斗(ゆきと)はその場にくずおれてしまいそうになった。
あれから五年。しあわせそうな親子連れとすれ違うたびに、いまだに苦しくて叫び出しそうになる。
「いい加減、忘れたい……」
眼鏡を外してボディバッグにしまうと、侑希斗はこの町唯一のゲイバーへと向かった。
クリスマスイブなんて、きっと誰もいないはず。――そんな侑希斗の予想は外れ、店内はとても混雑していた。どうやらクリスマスパーティの最中のようだ。
「いらっしゃい。もしかして、はじめて?」
カウンターに立つ店員さんが、やさしく声をかけてくれた。
「ええ、あの……っ」
楽しそうに盛り上がる店内。自分だけが浮いているのではないかと、不安になる。そんな侑希斗に彼は、きれいなオレンジ色のカクテルをつくってくれた。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭をさげ、グラスを口に運ぶ。オレンジジュースの味がするそれは、甘くてとても呑みやすかった。
呑み終わるころには、新しいグラスが用意されていた。緊張しているせいか、とても喉が渇いている。ひと息に呑み干すと、視界がぐらぐらと揺れはじめた。
「ねえ、きみ、ひとり?」
振り返ると、そこには髪の毛を茶色く染めた男の人が立っている。
「えっと……あの……っ」
あのひとを忘れさせてくれたら誰でもいい。
そう思ってこの店に来たはずなのに、実際に声をかけられると急に怖くなった。
(外見で人を判断しちゃダメだっていうけど、なんだかすごく遊んでいそうな人だな)
警戒する侑希斗の腕を掴み、彼は強引に店の外に連れ出そうとする。
「やめておけよ。――いやがってるだろう」
そのとき、低くて深い、誰かの声が響いた。
「うるせぇなぁ。いやがってなんかないって。なぁ、照れてるだけだよな」
茶髪に凄まれ、震えながら目を伏せる。
「本気で嫌がってるようにしか見えないけど?」
声の主はやんわりと茶髪の腕を引き剥がし、そういってくれた。
「てめぇっ……」
「文句があるなら、外に出ろ。せっかくのパーティを台無しにする気か」
静かな、けれども凄みのある声でいうと、長身の彼はゆっくりと振りかえる。
品のよさそうなスーツをきっちりとまとった黒髪の男性。眼鏡がないからぼんやりとしか顔が見えないけれど、紳士的なその身のこなしに、トクンと心音が高鳴る。
「これ以上、ここにいないほうがいい。ほら、ひとりで歩けるか?」
「ぇ、っと……あのっ……」
侑希斗の背中に手を回すと、彼は店員さんに「この子の分のお会計を」と声をかけた。
「や、あの、自分で払いますっ……」
わたわたとポケットから財布を引っ張り出すうちに、彼は支払いをすませてしまう。
「とりあえず、ここを出よう」
「あ、あのっ……お金っ……」
聞こえているのか、いないのか、彼は答えることなく、侑希斗を店の外に誘導した。
「見たところ、まだハタチそこそこってとこか。――呑み慣れていないのに、ひとりでああいう場所に行くのは危険だ」
彼の声が、雑居ビルの狭い階段に響く。深みのあるその声に、うっとりと聞き惚れてしまいそうになった。アルコールでぼんやりと緩んだ頭。気づけば、侑希斗は手を伸ばし、彼の手を掴んでいた。
「どうしてもっ……ひとりでいられなかったんです。――誰でもいいから、誰かと……一緒に過ごしたかった」
背も高いけれど、手のひらも、とても大きなひとだ。すらりと長いその指は、ぞくっとするほどつめたく、触れてはいけないものに触れてしまったような気分になる。
「――って、ごめん、なさい……。こんなこと、したら……迷惑、ですよね……」
これではまるで誘っているみたいじゃないか。あの強引な茶髪男と変わらない。そう思い、侑希斗は慌てて手をひっこめた。
「酔いがさめるまで、つきあうよ。――そんな状態で街を歩けば、さっきと同じような目に遭うのがオチだろう」
彼はそういうと、くしゃり、と侑希斗の髪を撫でた。その手のひらのやさしい感触に、かぁぁっと頬が火照る。
「夕飯は、もう食べたのか」
「――はい……」
「じゃあ、すこし散歩でもするか」
「ぁ、はい……っ」
どうしよう。名前も知らない人と散歩だなんて……。いったい、どんな会話をしたらいいんだろう。ただでさえ口下手な侑希斗は、パニック状態に陥ってしまいそうになった。
一生懸命、会話の糸口を探し出そうとしたけれど、なにを話していいのかさっぱりわからない。あわあわと慌てふためく侑希斗に、彼はやさしい眼差しを向けてくれた。
ぼんやりとした視界。焦点はいまいち合っていないけれど、街明かりの下で見る彼の顔立ちが、とても整っていることに気づく。
スーツもコートも上質そうで、侑希斗はすこしだけ、加藤のことを思い出した。
かっこよくて、背が高くて、誰にも明かすことは出来なかったけれど、自慢の『彼氏』だった。
けれどもそんなふうに思っていたのは侑希斗だけで――向こうは最初から、遊びのつもりだったのだ。
「無理に話さなくていい。話すの、苦手なんだろう?」
「どうしてそれを……っ」
「見りゃわかるよ。オレも、そんなに口数の多いほうじゃないんだ。べらべら喋るやつより、口下手なくらいのほうが、いっしょにいて心地いい」
中途半端に巻かれた侑希斗のマフラーをやさしく結び直し、彼はそういってくれた。
駅前の繁華街を離れ、彼が向かった先。それは城へと続く、お堀端だった。
昔ながらの城下町。都心から遠く離れたこの町の、唯一の観光スポットだ。
「あ、あのっ……」
「なに」
「お城、好きなんですか?」
「ああ、割とな。ここ、天守閣は復元で味気ないけど、城の周りの景観は悪くないよな」
「俺も……好きです。なんか、お堀をカモが泳いでるのとか、眺めてると癒されるっていうか……」
いってしまってから、はっと我にかえる。こんな話をされたって退屈だろう。なにかもっと気の利いた話題を探さなくてはならない。
「しばらく見ていようか」
「えっ……」
城へと続く橋の手前で立ち止まり、彼は水面に浮かぶカモを指さした。
今年も残すところあとわずか。
暖冬といわれているけれど、立ち止まるとやはり少し寒い。ぶるりと身を震わせた侑希斗に、彼は自分のコートをかけてくれた。
「や、悪いですって……」
慌てて断ろうとして、大きなそのコートにゆるりと包まれてしまう。
肌触りのよい布地越しにやんわりと抱きしめられ、かあぁっと頬が火照った。
「寒さに強いんだ。この程度の寒さじゃコートなんかなくたってすこしも気にならない」
身体に響くその声に、蕩けてしまいそうになる。
(どうしよう。こんなすてきなひと……)
どう考えたって、自分には不釣りあいだ。そう思った瞬間、つめたいなにかが、侑希斗の頬に触れた。
(ぁ……そういうこと、か……)
天にも舞い上がりそうな気分から一転、ストンと腑に落ちる。
頬に触れたつめたいもの。それは、彼の薬指にひかる指輪だ。
はじめての相手だった加藤も、とてもすてきな人だった。こんな人が自分を好いてくれるなんてと嬉しかったけれど……あの夜、彼が妻帯者だということを知ってしまった。
(この人も、家族がいるから……)
だからこんなにすてきなのに、地味でなんの魅力もない自分に声をかけてくれたのだ。
(俺、騙しやすそうに見えるのかな……)
それでもいい。ひと晩限りの夢でもいい。加藤以外の誰かに抱かれたら、このつらくて苦しい記憶を、すこし薄められる気がした。
「――帰りたく、ないんです……」
勇気を振り絞り、彼の手にそっと自分の手を重ねあわせる。
すこし驚いたような顔をして、彼は申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめん――オレには……」
「わかって……ます。それでもいい。今夜だけで……いいんです。明日になったら、全部、忘れます……だからっ」
震える声で告げると、彼の手が、ためらいがちに侑希斗の手を握りしめた。
「後悔、しないか?」
「――しません。お願いですから……っ」
俺を、抱いてください。
どうしても言葉にできなくて、侑希斗は無言のまま、彼の冷たい手のひらをギュッと握りかえした。
連れていかれたのは、ラブホテルやビジネスホテルではなく、タクシーで十五分ほど離れた場所にある老舗のリゾートホテルだった。とある温泉街。天皇陛下が宿泊されることでも知られる、有名なホテルだ。
「わ、えっと、こ、こんな格好で……っ」
よれよれのワークパンツにミリタリーコートを着た侑希斗は、どう考えても場違いだ。
「大丈夫。ドレスコードなんてないし、ツインの部屋だから、男同士でも堂々としていれば問題ない」
どうやらすでに部屋をとってあるようだ。
(紳士的に見えて、最初からそのつもりだったんだ……)
そう思うと、なぜだかすこし胸が痛んだ。
案内されたのは、最上階のスイートルームだった。
「すごい……」
広々としたリビングに、落ち着いた雰囲気の調度類。間接照明に照らされた寝室には、大きなベッドがふたつ並んでいる。
「あ、あのっ……」
ふわりと抱きしめられ、くちづけられる。
「んっ――……」
すこしアルコールの匂いがして、彼も酒に酔っているのだということがわかった。
大きな手のひらにやさしく頬を包みこまれ、くちづけられる。
(なんか……すっごく上手だ……)
比較対象が一人しかいないけれど、彼のキスは侑希斗の知るキスとは全然ちがうキスだった。熱い舌に絡めとられ、ゆるく吸い上げられてゆく。けっして乱暴なんかじゃないのに、身体のなかも脳みそも、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたみたいに、なにもかもわからなくなった。
「ぁっ……ん、はぁっ……」
夢中になってその背中に抱きすがると、たくましい腕に囚われ、軽々と抱きあげられてしまう。
「ゃ、や、め……っ」
侑希斗だって、決して華奢なほうじゃない。平均身長をすこし下回るけれど、ごく一般的な体躯の成人男性だ。
「いちいち反応が愛らしいな。こんなに感じやすくて……最後までもつのか」
耳元で囁かれ、ぞわっと背筋が震える。
「ぁ、あのっ……」
「どうした?」
「えっと……シャ、シャワーを……」
「あとで、いくらでも浴びさせてやるよ」
優しくベッドに横たえられ、ふたたびくちづけられる。
「ぁっ……ゃ、も……っ」
なにもかも蕩かされてしまいそうな熱いキスだ。我を忘れてそのキスに溺れてしまう。
気づけば服を脱がされ、一糸まとわぬ姿で抱きしめられていた。
「ぁ……の、やっぱり……っ――ごめんなさいっ……」
臀部につめたい指輪が触れた瞬間、侑希斗は彼の身体を突き飛ばしていた。
ぼろぼろと涙が溢れ、止まらなくなる。
「――すまない。すっかり自制心を失ってしまって」
申し訳なさそうに謝られ、侑希斗はふるふると首を振った。
「ちがっ……悪く、ない、です。あなたは……悪く、ない……ごめんなさい、あんまり、経験なくて、それで……あのっ……」
泣きじゃくる侑希斗をやんわりと抱きしめると、彼はその頬をやさしく拭ってくれた。
「謝らないでくれ。きみこそ、なにも悪くない」
「ごめんなさい、俺……っ」
「別々のベッドで寝ようか。それとも、オレは帰ったほうがいいか?」
尋ねられ、侑希斗はとっさに彼の手を掴む。
「できることなら……このままそばに……なんて、ごめん、なさい……いや、ですよね。あの、俺――」
帰ります、といいかけたそのとき、ギュッときつく抱きしめられた。
「朝まで、こうしていよう。――きみさえいやでなければ、このまま眠りたいんだ」
甘くて深い彼の声が、じんわりと身体に響く。
こんなにも豪華な部屋。宿泊費もとても高いだろう。それなのになにもできないなんて、きっと残念な気持ちになるに違いない。
「ごめん、なさ……」
「謝らないでくれ。いいから、このまま眠ろう」
申し訳ない気持ちでいっぱいなのに。
彼の腕のなかはとても心地が良くて、侑希斗はその胸に泣き腫らした頬をくっつけるようにして眠ってしまった。
目覚めると、ベッドのなかに一人ぼっちだった。
「夢……見たのかな」
そう思い周囲を見渡すと、そこは見慣れた自分の部屋とはかけ離れた空間だった。ゆったりとしたつくりの寝室に寝心地のよい大きなベッドがふたつ並び、窓の外には見慣れない景色が広がっている。
「ん……ここは……」
微かに痛む頭。ベッドサイドのメモパッドに、老舗リゾートホテルの名が記されている。そしてその脇に、きれいな字でつづられたメッセージが残されていた。
『昨夜はありがとう。どうしても外せない仕事があって、先に帰ります。チェックアウトは済ませておいたから、ゆっくりしていくといい。少ないけれど、朝食代と帰りの交通費の足しにしてください。送ってあげられなくて、ごめん。よかったらまた連絡ください』
携帯の電話番号が記されたメモ紙の下に、一万円札が二枚置かれている。
「これで朝食って……」
援助交際(サポ)かなにかだと思われたのだろうか。
たしかに若く見られがちではあるが、侑希斗はれっきとした社会人、二十九歳だ。
「あぁ、きょう、遅番でよかった……」
二日酔いの気だるい身体をひきずり、シャワールームへと向かう。
「ぁ……」
洗面所の鏡に目をやると、首筋にくっきりと紅いしるしが残っていた。
(あのひとのキス……凄かったなぁ……)
昨夜のキスを思い出し、かぁあっと頬が火照る。
薬指にひかる指輪。――ダメだ、もう二度と既婚者なんかに惚れちゃいけない。
侑希斗はパン、と頬を張り、熱いシャワーに打たれた。
「おはようございまーす」
職場に顔を出すと、挨拶もそこそこに厨房の女性スタッフたちに詰め寄られた。
「ちょっとアンタ、またとんでもないクズ野菜、掴まされてるわよ」
「えっ……どれですか」
作業台の上に置かれた萎びた白菜の山を前に、侑希斗はちいさくため息を吐く。
「業者の方に、もう一度いっておきます」
ついこのあいだも、質の悪いほうれん草を大量に納品されたばかりだ。
「塩田さんのときは、こんなこと一度もなかったのよ。アンタが気弱で舐められてるから、こういうことになるんでしょ」
自分の母親より年上のパート調理師に厳しく叱咤され、侑希斗は深々と頭をさげる。
「――申し訳ありません、気をつけます」
「気をつけますじゃないわよ。大体アンタねぇ。あのバイトの栄養士もどうにかなさい。敬語も使えない、派手なつけ爪して厨房に来る、ありえないわ。あんなのクビになさい」
「僕の指導不足です。――今後は気をつけさせますので、どうかお許しください」
「お許しくださいじゃないわよ。まったく。ほら、昼食、間に合わなくなっちゃうわよ」
上司であるベテラン管理栄養士、塩田が退職して以降、侑希斗ひとりでこの病院の献立を作成し、現場を管理している。
病床数90の私立病院。決して数が多いほうではないが、ひとりで管理するのは骨が折れる。特に現場の調理員を統率する能力が、侑希斗には著しく欠けているのだ。
「ほら、アンタ、邪魔。ぼやっとしてるくらいなら、向こういってなさい」
「いえ、頑張ります。こちらは僕がやりますから、佐藤さんはあちらを」
この病院には職員向けの食堂があり、入院患者の昼食とともに彼らの昼食も作らなくてはならないため、厨房内は戦場と化す。
ベテラン調理員たちにどやされながら、ひたすら格闘する日々だ。
「ほら、検食しなさい」
「あ、はいっ」
できあがった食事の最終確認をするのは、管理栄養士である侑希斗の重要な仕事だ。彼女たちにせっつかれながら、一般患者向けの通常食と、減塩、低たんぱく食など疾患に合わせた特別食の献立を次々と試食する。
「おっけーです。配膳、おねがいしますっ」
「あいよ、配膳、行くよ!」
食事の詰まったコンテナを送り出し、次々と食堂にやってくる医療スタッフに昼食を提供する。
すべてが終わるころには、きょうも午後三時を廻っていた。
「さて、夕飯の準備に取りかかるかね」
「――はい」
終わったそばから夕飯の準備がはじまり、怒涛のような時間がつづいてゆく。
「やった、終わった……」
夕飯の片づけをすべて済ませると、侑希斗はぐったりとその場にへたり込んだ。
「はいよ、お疲れさん」
調理師長の文恵につめたいお茶を差し出され、ぺこりと頭を下げる。外は真冬だが、厨房内は真夏のような暑さなのだ。
「ありがとうございます」
「アンタもばかねぇ。現場に立つの、やめりゃいいのに」
上司の塩田がいたころ、メインの献立作成や発注業務、患者への栄養指導は彼女が担当しており、侑希斗は主に厨房の管理だけを任されていた。彼女が退職した今、侑希斗はいままでどおり現場の管理をしながら、彼女から引き継いだそれらの業務をこなしているのだ。
「そうはいっても、忙しい時間帯は猫の手だって必要ですよね。あいかわらずギリギリの人数しか配置させていただけていませんし」
控えめに答えると、呆れたような顔でため息を吐かれる。
「だからって無理して身体壊しても知らないわよ」
「だいじょぶです。こう見えて身体だけは、頑丈ですから」
ぎこちなく微笑むと、不機嫌そうな顔をした調理師の佐々木が駆けこんできた。
「ちょっと、文恵さん。高崎先生、また検食いらないとかいってるんだけど」
当直の医師には、患者と同じものを夕飯として食べてもらうことになっている。理事長の命令で、医師による検食が義務付けられているのだ。
「食べてもらわないと困るのよ。サインと所感書いてもらって、理事長に提出しないと」
どうやらその高崎という医師は、いつも検食を残すのだそうだ。
「――わかりました。僕が行ってきます。当直室ですよね?」
彼女から検食のトレイを受け取り、当直室へと向かう。
扉をノックすると「はい」とすこし不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「あの、検食をお持ちしました。開けてもよろしいですか」
「いらない、といったはずだが」
「いえ、いらないでは困るんです。当直の先生には検食を食べていただく決まりになっていまして……開けますよ?」
半ば強引に扉を開けた侑希斗は、ベッドに腰かける男の姿に驚き、トレイを落としてしまいそうになった。
(うそだ……彼は、昨晩の……っ)
艶やかな黒髪に、精悍な顔立ち。昨夜の行為を思い出し、かぁっと頬が火照る。
「あ、あのっ……」
慌てふためく侑希斗とは対照的に、彼はまったく動じている気配がない。
(あれ……もしかして、気づいてない?)
眼鏡をしているから、別人に見えているのだろうか。それとも、遊びで寝た相手のことなど、翌朝にはきれいさっぱり忘れてしまうのだろうか。
なんの反応も示さない彼に、侑希斗はショックを隠せなかった。
「どうして検食を食べてくださらないんですか」
そのことが気になりながらも、気を取り直し、本題を切り出す。
男は昨夜とはうってかわって冷たい声音で、こういい放った。
「どうしてって、うまくないから食べない。それ以外に理由はないよ。最初から、検食はいらないといってあったはずだ」
「そういうわけにはいきません。当直の先生には検食を食べ、所感を記していただく。それが当院の決まりですから」
ふだん高価なものばかり食べて、舌が肥えているのだろうか。腹立たしさを感じながら、侑希斗はこうつけ加えた。
「僕たちは患者さんのために栄養価を考え、このような食事をつくっています。たしかに健康な方には味がうすく感じられるかもしれない。だけど、健康を第一に考えているのだから、味が多少犠牲になるのは仕方のないことなんです」
「あのな」
手元の書類から顔をあげ、男はジッと侑希斗を見据える。昨晩向けてくれたのとはまったくちがう、冷ややかな眼差しだ。
「入院患者にとって、食事ってのは一番の楽しみなんだよ。朝から晩までベッドの上で病気や怪我と戦って、ほかに楽しみなんかないんだ。お前たちの仕事は、彼らの『楽しみ』をつくりだす重要な仕事だ。健康を第一に考えるのは結構。だがな、だからといって『味』をおろそかにしていいわけじゃない。薄味だって、しっかりダシをとるとか、工夫すればいくらだって旨くなるだろう」
あまりにも正論すぎて、侑希斗は一瞬言葉につまった。
「ですが予算が……っ」
「予算が足りないこと、理事長に申告しているのか」
「――いえ……」
「オレはな、やる前から『できない』なんていうやつが、いちばん嫌いなんだ」
嫌い。昨夜は、あんなにやさしくしてくれたのに。たくさんキスしてくれたのに。
所詮は……一夜限りの、単なる火遊びだったんだ。
夜が明けたら、顔さえすっかり忘れてしまうくらい、どうでもいい行為だったんだ。
――そう思うと、無性に苦しかった。
加藤の姿と、彼の姿が重なる。気づけばトレイを押しつけ、叫んでいた。
「あなたのようなひとに、好いてもらえなくたって結構です!」
「あ、おい。ちょっと待て……」
引き留められるのもきかず、当直室を飛び出す。
「あんな店、行かなけりゃよかった!」
蕩けそうにやさしいキスと、つめたい指輪の感触。あたたかな胸に抱かれて眠ったことを思い出し、無性に胸が苦しくなる。
(目が覚めたら、結局、ひとりきりだった……)
枕元には置手紙と一万円札。加藤と同じだ。単に『わりきり』で遊べる都合のいい相手を探していただけなのだ。
ポケットのなか、たいせつにしまってあった携帯番号入りの置手紙と一万円札二枚をまとめてビリビリに引きちぎる。
ゴミ箱に捨てる瞬間、こらえきれず涙が溢れてきた。
「あいかわらず仕事、大変そうねぇ」
ほっぺたをツンとつつかれ、侑希斗はその手を振り払う。
大学時代の同級生の彩音(あやね)は、気兼ねなく仕事の愚痴をいいあえる数少ない友人だ。
スポーツ栄養学のゼミに所属していた二人は、在学中からいつも行動を共にしていた。希望どおりプロサッカーチームの管理栄養士として働く彼女と、夢破れて病院の厨房で格闘する侑希斗。立場は変わっても、こうして月に一度は居酒屋でグラスを重ねている。
「大変ね。ひとりで90食も担当してるんでしょ。しかも何種類も」
「正直しんどいよ。特食っていってさ、病状やアレルギーに合わせて、それぞれ使っちゃダメな食材とかあったりするし。なんか面倒なドクターがいて、当直の夜は患者さんに出してるのと同じものを食べてもらうことになってるんだけど、全然食べてくれないんだ」
あの男にいわれた言葉を彩音に告げると、彼女は快活な声で笑った。
目鼻立ちのハッキリした美人で、明朗な性格。きっと職場でも選手たちから大事にされているのだと思う。
(彼女みたいに華やかで明るい性格だったら、俺も希望どおりの就職ができたのかな……)
就職して七年も経つのに、いまだにそんなことを考えてしまう自分を、侑希斗はすこし情けなく思った。
「あら、正論じゃない。やだ、その先生、かっこいいわ」
「たしかに正論かもしれないけど、こっちにだって色々事情があるんだよ」
「事情があるのはわかるけどさ、患者さんによってはアンタがつくったその食事が、人生最後の食事になる可能性だってあるのよ」
たしかにそうだ。
病院を出られないまま、好きなものを食べることさえ叶わず、亡くなってゆく方もいるのだろう。
「思いっきりおいしい病院食つくって鼻を明かしてやんなさい。管理栄養士舐めんなって思い知らせてやるのよ」
「そんなの、俺に出来るかな」
「できるかな、じゃないわ。やるのよ。自分の組んだ献立をいかに残さず食べさせるか。それって数値上のアレコレ以上に、大切なことじゃない?」
どんなに完璧な献立をつくっても、残さず食べて貰えなくちゃ意味がないのよと彼女はいう。
「彩音ちゃんも、そういうので困ることある?」
「しょっちゅうよ。特に新卒の子たちなんかお子さまみたいなものだから。いかに苦手な野菜を残さず食べさせるかってのに奮闘してんのよ。『アタシはアンタの母親じゃないわよ!』って何度怒鳴りそうになったことか」
「プロのサッカー選手でも、好き嫌いなんかあるんだ」
「あるわよ。オリンピック選手だって大変みたいよ」
彼女の所属するプロダクションには、プロスポーツや世界の一線で活躍するアスリートを支える凄腕の管理栄養士が多数在籍している。
侑希斗はまばゆさを感じながら、彼女の話に興味深く耳を傾けた。
栄養価が高く、残さず食べてもらえる献立。
それはおそらく、高崎に対してだけでなく、すべての患者さんに対して心がけなくてはならないことだ。
そういえば食べ残しの量が以前より増えていると、調理師長の文恵に指摘されたことがある。もし、侑希斗のつくる献立がおいしくないせいで患者の食べ残しが増えているのだとしたら、それは大変なことだ。
「早急に考え直さなくちゃ」
決められた栄養素、分量を満たす食事を、限られた予算のなかで組み上げてゆく。前任者塩田の考案した献立をもとにしているのに、いったいなにがいけないのだろう。
「まずは食材ね。明らかにアンタのこと舐めてランクの低いものを送りつけてきてるわ」
文恵に指摘され、侑希斗は業者の変更を含め、仕入れ方法を見直すことに決めた。
「あとは調理員の士気? あのバイトの栄養士なんとかしなさいよ。アンタみたいなひよっこに指示されるのがいやだってのもいるけど、アレに指示されんのはそれ以上に腹立たしいってみんないってるのよ」
早番の栄養士はアルバイトで、時給900円。そんな値段で朝の六時から働いてくれる栄養士なんて、そうそう見つけられるものではない。
「正直いえば、彼女にいていただけるだけありがたいんです。やめられちゃったら、僕が週休ゼロで早朝から夜中までいなくちゃいけなくなるわけで」
「そうやって甘やかすからつけあがるんでしょ。ガツンといってやんなさい。アタシらにタメ口きくのは仕方ないにしても、帽子から前髪出すのとつけ爪だけはやめさせなさい!」
「――頑張ります」
できるかぎり献立を再構築し、全工程に目を光らせ、なんとか改良型の食事を完成することが出来た。
「うん、これならきっと……おいしいっていって貰える」
きょうは高崎の当直の夜だ。自信作を手に、侑希斗は彼の当直室へと向かった。
「いままでより、ずっといい」
検食をひとくち食べると、高崎はそういってくれた。
ホッと胸をなでおろした侑希斗に、けれども険しい声音で彼はこうつけ加える。
「これ、本当に患者とまったく同じものか」
「ぇっと……」
実はすこしだけ、味付けを濃くしてある。
「ほんのすこしだけ、胡椒を」
「それじゃ意味がない。次は同じものを持ってこいよ。味付けを変えてはダメだ」
冷ややかな声音でいわれ、侑希斗は唇を噛みしめてうつむいた。悔しいけれど、なにもいいかえすことができそうにない。
そっと覗き見た高崎の姿。とてもきれいに箸をつかっている。医師だし、きっと家柄もいいのだろう。
うつくしい奥さんや聡明そうな子供に囲まれ、しあわせそうに微笑む彼の姿を思い浮かべる。
――ダメだ、忘れなくちゃ……。
震える拳を握りしめ、当直室を飛び出そうとした瞬間、唐突に腕を掴まれた。
「どうして連絡してこない」
「えっ……」
「あの夜、お前はいったよな。『また逢いたい』って。あれは社交辞令か?」
「あ、あのっ……」
慌てふためく侑希斗の頬に手をやり、高崎はぐっと引き寄せる。視界が陰ったと思ったときには唇を塞がれていた。
「んっ……ぅ、はぁっ……」
全身をのっとられてしまうかのような、熱烈で扇情的なキスだ。あっというまに押し倒され、ベッドに沈みこまれる。
「ぅ、んっ……」
ここは職場で、互いに白衣を纏ったままの姿。誰かに見られたら大変なことになってしまう。
抗わなくちゃ、いけないのに。
熱い舌に絡めとられるうちに、あの夜と同じように高崎のキスに溺れてしまう。
「はぁっ……ぅ、んっ……」
静かな当直室に、唾液の粘るいやらしい音が響く。不安や背徳感以上に、あの日芽生えてしまった許されない恋情が侑希斗の心を支配してゆく。
「せ、んせ……だめっ……」
だめ、といいながらも、抗う腕から力が抜けてゆく。白衣のボタンに手をかけられたそのとき、高崎の院内PHSの着信音が鳴り響いた。
どうやら容体の急変した患者さんがいるようだ。
「すまない、ようすを見に行ってくる」
ちゅ、と侑希斗の唇に軽いキスを落とし、高崎は侑希斗の髪を撫でた。大きな手のひら。あの日、あんなにも触れられることを歓喜してしまった、つめたい手のひらだ。
「連絡、待ってるから」
再度、侑希斗にくちづけると、高崎は白衣の裾をひるがえし、患者の元へと行ってしまった。
高崎に触れられた場所が、くちづけられた唇が、ジンジンと熱を帯びている。
(どういうつもりで、連絡して来い、なんていうんだろう……)
加藤のときと同じように、『都合のいい男』にしたいと思われているのだろうか。
無性に胸がくるしくて、侑希斗はすこしだけ、泣けてしまいそうになった。
味の改良と、調理工程の徹底見直し。全力で奮闘し、残業ばかりの日々が続いている。
「あー……しんどいなぁ」
自らの力不足が原因とはいえ、週の終わりには蓄積した疲れに押し潰されそうになる。
ふらつく足取りで職員通用口を抜けると、見慣れた長躯が目に飛び込んできた。
仕立てのよさそうなロングコートを纏い、つややかな黒髪をきっちり整えた紳士的な容貌。侑希斗は視線をそらし、気づかないふりで通り過ぎようとした。
けれどもすれ違う瞬間、腕を掴まれてしまう。
「夕飯、いっしょにどうだ」
断らなくちゃいけない。そう思うのに、思いのほかやさしい声音に、ぐらりと心が揺らぐ。
『あの夜以降、どうしてもお前のことが忘れられなくて、妻とは別れることにしたんだ』
そんなふうに告げられるかもしれない――なんて馬鹿な期待をしてしまう。
(そんなの、どう考えたってありえないし、ひとの家庭を壊すなんて絶対にしちゃいけないことだ)
彼の指には以前と変わらず、シンプルな指輪がひかっている。
そもそも、あの夜の自分の行動に、そんなふうに思わせる要素があるとは、とてもではないけれど思えそうになかった。
ぐったりとうなだれながらも、その腕を振り払うことができない。
連れていかれたのは、温泉街の一角にある老舗の料亭だった。一室ずつ独立した離れで料理が提供される、知る人ぞ知る名店だ。侑希斗も名前は知っていたけれど、あまりの敷居の高さに今まで一度も足を踏み入れたことがない。
「ここの料理は、どれも薄味だが、すこぶるうまい」
どうやら侑希斗に勉強させるために、連れてきてくれたようだ。向かいの席でうまそうに日本酒に舌鼓をうつ高崎の姿に、ぽーっと見惚れてしまいそうになる。慌てて目をそらし、侑希斗は反論した。
「こういう店はプロの職人さんが精魂込めてつくってるから……おいしくて当然です」
「お前の下で働く女性たちは全員が家庭を持つ主婦だろう。職人と同じとまではいかなくても、ベテランの彼女たちが本気を出せば、今よりずっとうまいものが作れるはずだ。彼女たちだって、家族にはもっとうまいものをつくってやっているんじゃないのか」
ようは真心の問題だ、と彼はいう。
「そ、それは……っ」
たしかに調理員のなかには、流れ作業で仕事をこなしている者もいる。以前よりは改善したものの、侑希斗のことを馬鹿にして、目を離した隙に手を抜く者もいるのだ。
「いうことを、きいてくれないひとがいるんです。俺のことを馬鹿にしてるっていうか……」
「お前は全員の調理員の名前をいえるか」
「え……?」
唐突に投げかけられた言葉。質問の意図がわからず、思わず首をかしげる。
「あ、えーと……名字だけなら、全員覚えていますけれど」
「――それじゃダメだ。下の名前も、性格や仕事上の特性も、ちゃんと全員のスタッフを『個』として認識していなくてはチームプレイなんかできるわけがない」
高崎も医師になったばかりのころ、看護師になかなかいうことをきいてもらえず、苦戦した時期があるのだという。
「『いうことをきいてもらう』なんて思い上がった考え方をしているからダメだってことに気づいたんだ。医師だから上とか管理栄養士だから上、なんてことはない。スタッフ全員が一丸となって患者さんのために最善を尽くす。そのためには『看護師たち』や『調理員たち』なんて接し方をしていてはダメだ」
ひとりひとりのスタッフとしっかり向き合い、同じ目標に向かって手を取りあう。
その姿勢がなければいいチームにはなれないんだ、と高崎はいう。
「まずは彼女たちひとりひとりと、全力で向き合う。そこからはじめてみるといい」
「そんなふうに、うまくいくものでしょうか」
高崎の言葉に感心するものの、彼女たちの勝気な姿を思い出し、侑希斗は委縮してしまった。
「それでもダメならオレにいえ。『患者からまずいと苦情が殺到している』といって、様子を見に行ってやってもいい」
「やっぱりそういう苦情、あるんですか……?」
おそるおそる尋ねた侑希斗に、高崎はちいさく頷いてみせる。
「残念ながら、よく耳にするよ」
ぐったりと肩を落とす侑希斗に、高崎はいつになくやさしい眼差しを向けてくれた。
「頑張れよ。その若さで栄養部門の責任者なんて、プレッシャーも大きいと思うけどな」
「もう若く、ないですよ」
「なにをいってるんだ。まだ新卒、二十三、四ってとこだろう」
「いえ……二十九です。来年、三十ですよ」
私服で通勤しているせいか、いまだに学生に間違われることも少なくないけれど、もう『若い』といってもらえる年齢ではないのだ。
「意外と大人なんだな」
「――先生は、お幾つなんですか」
「オレか? 三十七だ」
三十七。想像よりずっと大人だ。
お子さんは幼稚園児くらいだろうか。具体的に彼の家族構成を想像してしまい、ギュッと胸が苦しくなる。
「珍しいですよね、その年齢の先生。ウチ、年寄りの先生ばかりなのに」
都心から離れているせいだろう。規模も決して大きくなく、設備もいいとは言い難い。食堂に来る看護師のうわさ話によると、教授戦で敗れた医師や、一線を退いてのんびりしたい医師が多く在籍しているらしい。
三十代後半といえば、医師としてもっとも油が乗りはじめるころだ。特に高崎のような外科医は、大きな病院でたくさんオペをして貪欲に出世を追い求めている時期ではないだろうか。
大学病院から週に一度派遣され、この病院に来ていた加藤と同じように――。
「オレは左遷組なんだ。そんなの、オレの姿を見れば察しがつくだろう」
さらっとそんなふうにいわれ、どう答えていいのかわからなくなった。
「左遷組の先生に、こんなに高価なお店に連れてきていただいて大丈夫なのでしょうか」
思わず口をついて出た言葉。失礼なことをいってしまった、と後悔したときにはすでに遅かった。
腕を掴まれ、引き寄せられる。怒られるだろうか。不安になった侑希斗の顎に手をかけると、高崎はそっとくちづけた。
「んっ……」
ねっとりとくちづけられ、身体から力が抜けてしまう。
「だ、めですっ……」
かろうじて理性を保ち逃げ出そうとすると、抵抗ごと強く抱きしめられ、耳元で囁かれた。
「こうなることがわかっていて、ついてきたんだろう?」
「ち、が……っ」
否定しながらも、それ以上、抗うことが出来なかった。
すっかり高められた身体。抱きかかえるようにして、襖の奥の部屋に連れ込まれてしまう。
「ぁ……」
そうだ。この店は料亭としてだけでなく、懐石旅館としても有名なのだ。
ふたつ並べて敷かれた布団。そのうちのひとつに侑希斗を押し倒し、彼は真剣な表情で侑希斗を見つめた。
「いやなら、しない。――お前の気持ちを聞かせて欲しいんだ」
自分を見つめるそのまっすぐな眼差しに、うっとりするくらい整ったその顔だちに、人として惹かれずにはいられない器の大きさに……心が激しく揺れ動いてしまう。
(ダメだ。ぜったいに、好きになっちゃダメ)
そう思うのに、惹かれることを止められない。
ゆっくりと瞼を閉じ、おずおずと手を伸ばす。たくましい彼の背中をそっと引き寄せ、侑希斗は唇を突き出すようにしてキスをねだった。
「侑希斗……っ」
深みのある低い声で名前を呼ばれ、それだけで心が壊れてしまいそうなほど激しく震える。
(好き。先生のことが、好き……)
はじめて出会ったあの夜から、焦がれずにはいられなかった。
「せ……んせ……」
掠れた声で呟くと、やんわりと髪を撫でられる。
「『先生』じゃない。『啓二(けいじ)』だ。ちゃんと名前で呼んで欲しい」
「けいじ……さん……?」
「ああ、そうだ」
高崎の声が、かすかに震えているように聞こえる。不思議に思いその顔を見上げると、切れ長な彼の瞳が潤んでいるのがわかった。
「啓二、さん……?」
不思議に思い首を傾げた侑希斗にくちづけ、彼は侑希斗のパーカーにするりと手を入れる。
「ぁっ……ゃ、せ……啓二、さん……」
「なめらかな肌だな。ずっと触れていたくなるよ」
熱い舌に絡めとられ、蕩かされながら服を脱がされる。高崎のたくましい身体に包まれると、それだけで達してしまいそうになった。
「ごめ……なさい……っ」
加藤と別れて以来、五年もの間、誰にも触れられていない身体。高崎によって呼び覚まされた劣情が、情けなくなるくらい侑希斗の身体を昂ぶらせた。
はしたなく天を仰ぎ、止め処なく蜜を溢れさせる侑希斗の中心に気づき、高崎はやんわりと微笑む。
「嬉しいよ、侑希斗。お前も、ちゃんとオレを求めてくれているんだな」
親指でそっと愛でるように唇を撫でられ、侑希斗はぶるりとその身を震わせた。
(どうしよう。大好き。高崎先生のことが……好き)
溢れる想いに突き動かされ、自分からその唇にくちづけてしまう。
「侑希斗っ……」
侑希斗の身体を抱きしめると、ぐっとのしかかるようにして高崎は深く甘やかなくちづけを与えてくれた。
「んっ……はぁっ……せ、んせっ……」
我を忘れてその唇にしゃぶりつくと、高崎の指が侑希斗の太腿に触れた。
「ぁ――」
つめたい指輪の感触に、ぶわりと五年前のあの夜の記憶がよみがえる。
うつくしい妻に寄り添われ、幼い子供を連れてしあわせそうに微笑む父親の姿。
その笑顔が、なぜだか加藤ではなく、高崎の姿に変わった。
「いや、だ……ほかに、相手がいる癖に。ここに、心がないくせにっ……俺を、抱くなっ!」
気づけば、叫んでいた。
その身体を押しのけ、声のかぎりに叫ぶ。
「侑希……斗?」
愛しい声で名前を呼ばれ、それでも止まらなかった。
――否、好きだからこそ、ダメだと思った。
「ごめん、なさい。やっぱり俺っ……ダメ、です。二番目でいい、なんて思えない。身体だけでいいなんて、思えませんっ……」
散乱した服をひっつかみ、あふれる涙を拭うことさえせず、部屋の外に飛び出す。
手早く衣服をまとい、侑希斗はその店を後にした。
(馬鹿みたい。俺……馬鹿みたいだ……)
男同士。どうせ付き合ったって、未来なんてない。
だったらラフに、付き合えばいい。
おいしい食事に、自分では絶対に泊まることの出来ない高価な宿。
かっこよくて、やさしくて理想的なひと。
割り切って、ひとときの夢に溺れてしまえばいい。そう思いながらも、侑希斗には遊びでつきあうなんて、出来そうもなかった。
「あんな男……好きに、ならなきゃよかった……」
苦しくてつらくて、死んでしまいそうなくらい哀しかった、はじめての恋。
同じ間違いなんか二度としたくないのに。あのとき以上の強さで、高崎に惹かれてしまう自分がいる。
「加藤先生のときだって……五年もかかったのに。いったいどうやって忘れたらいいんだよっ……こんなの、どうやって……」
夜更けの温泉街。静まり返った街に、なさけない自分の呻き声だけが響く。
白い息を弾ませながら、侑希斗はスマホのナビを頼りに、タクシーの捕まえられそうな国道までひたすら走りつづけた。
それ以来、侑希斗は高崎のことを徹底的に避けるようになった。
そして彼に教わったことを心の糧に、全力で仕事に邁進している。
彼の言葉はどれも厳しかったけれど、そのすべてが患者さんを思うがゆえのものだ。
いままで調理師長の文恵以外とはあまり深くかかわっていなかった侑希斗だけれど、彼のアドバイスに従い、いまは短期パートを含め全員の調理員としっかり向き合うようにしている。
相変わらず子ども扱いで厳しい言葉をかけられることが多いけれど、以前よりずっとよいコミュニケーションをとることができるようになった。
(高崎先生の、おかげだ……)
二度目の恋も、かなしい結末に終わってしまったけれど、彼に出会えて本当によかったと思う。
「はやく、忘れなくちゃ」
十年、二十年。何年かかったっていい。
きっと、もう二度と恋をする日は来ないと思うけれど、いつか、彼のことを忘れてしまえたらいい。
きょうは早朝パートの茜が休みだったため、侑希斗は早番勤務だ。
夕飯の配膳チェックを終えたら、帰宅することができる。
「あ、ちょっと。アンタ、帰る前にコレ!」
調理員の良子に呼びとめられ、かわいらしいラッピングに包まれたチョコレートを手渡された。きょうがバレンタインデーだということを、侑希斗はいまさらのように思い出す。
「わ、あ、ありがとうございますっ」
「ほら、アタシからも。――たまには甘いものでも食べて、ゆっくり休みなさい」
働きすぎよ、と背中を叩かれ、よろけたところに他の調理員たちからも次々とチョコレートが差し出された。
「良子さん、和江さん、由香さん、文恵さん、裕子さん……ありがとうございますっ」
ひとりひとりに深々と頭をさげ、侑希斗はチョコレートでいっぱいになったボディバッグを背負って職場を後にした。
高崎と遭遇しないよう、職員通用口ではなく、夜間窓口からこっそりと抜け出す。すると、誰かに思いきりぶつかってしまった。
「わっ……す、すみませんっ……」
ぶつかった相手は、よろめき尻もちをついている。慌てて手を差し伸べると、彼は痛そうに腰を押さえ、よろよろと立ち上がった。
「いたた……腰が……っ」
「大丈夫ですか? あの、外来受付はもう終わってしまってるんですけど、救急で診てもらいます?」
「いや……そこまで痛くないけど……ただ、ぎっくり腰の持病があってね。どこかで休ませてもらえると助かるんだけど」
この時間帯、すでに面会室も売店も閉まっている。開いている場所といえば、職員食堂くらいだ。
「あの、横になれれば、大丈夫ですか?」
職員食堂には一組だけ大きめのソファ席がある。そこで安静にしていてもらったら、もしかしたら医師や看護師にすこし様子を診てもらうことができるかもしれない。
侑希斗はそう思い、彼を職員食堂に案内することにした。
夕方以降、食堂はコーヒーやお茶を呑む休憩場所として解放されているのだ。
幸いなことに、ソファ席は空いていた。自分と同じくらいの背丈の彼をなんとかそこに誘導し、横たわらせる。
「なにか、飲み物でも入れましょうか」
「いや……いい。それより、この病院に高崎啓二って先生、いるよね」
唐突に出された高崎の名に、ドクンと心音が跳ねあがる。
「高崎先生が、なにか……」
「ここに来る前、あの先生、派手な騒動起こしてるよね。その件について、なにか知らないかな」
「僕は一介の栄養スタッフですから。医師の先生方のことは、よくわかりません」
「へえ、そのわりに彼のプライベートに関しては、よく知っているみたいだけど?」
「――っ」
不安になる侑希斗の背後で、底抜けに明るい声が響く。
「それ、わたし知ってますよー。高崎先生が大学病院にいたときの話ですよね」
「そうそう。きみ、どうして知ってるの?」
振りかえると、そこには若い看護師数名が立っていた。名札には高崎の所属する外科ではなく、内科と書かれている。
「有名ですよ、看護師のあいだでは」
彼女はすこし自慢げな表情でそう答えた。
「どんなふうに?」
「高崎先生、勤務先の大学病院の教授を内部告発したんですよね。医療過誤だって」
「ああ、その件だよ。どこまで知ってる?」
腰が痛いといっていたはずの男は、起き上がり、身を乗り出すようにしてそう尋ねた。
「亡くなったのは高崎先生のご友人で、その方の無念を晴らすために裁判を起こしたとか……でも、結局大学側に負けて、先生、医局からも追放されちゃったんですよね」
「その友人について、なにか知らない? その亡くなった患者さんって売れない役者だとかで、同級生でもないし、高崎先生とはなんの接点もなさそうだよね」
「うーん、そこまではわかんないですよ。噂で聞いただけですから」
「ちなみにあの先生、この病院ではどう? うまく馴染んでるの。ここの理事長、T大卒だよね。高崎先生はK出身でしょ」
「そうなんです。ウチでK出身ってすっごくレアですよ。みなさんT大かYですからね」
「学閥のせいで軋轢みたいなの、ないの? 理事長とうまくいってないとか」
「あー、理事長とはしょっちゅうぶつかってるみたいですね。高崎先生、とにかく慎重派なんですよ。すこしでも容体が悪いと『ようすを見ましょう』ってオペをしたがらない。この程度なら問題ないってどんなに理事長がいっても、まったく聞き入れようとしないんです」
オペ室所属の看護師の言葉に、病棟の看護師が不思議そうな顔をする。
「えー、どうして。腕に自信がないの?」
「腕は凄いらしいわよ。あたらしい非常勤の石田先生いるじゃない? T大の教授戦しくじって降りてきたひと。このあいだ初めていっしょにオペ入ったらしいんだけど、こんなところに眠らせておくのは勿体ないって、高崎先生のこと、べた褒めしてたわ」
「手先の器用な医師とか、いいわよねー。ベッドの上でも凄そう」
「こら、アンタ男の人の前でなにいってんの」
「そうよ。馬鹿なこといってんじゃないわ。高崎先生、指輪してるじゃない」
「え、でも未婚だって」
「籍入れてないだけでしょ。MRの話だと、合コンにもまったく喰いつかないって話よ」
「残念ー」
「その、彼の『お相手』についてなにか知っていたりしない?」
すっかり女子トークをはじめた彼女たちに、男はさらに質問を投げかける。
「えー……先生の女関係ですかー?」
「ちょっと。いったいなんの権限があって高崎先生のことをこそこそ探ってるんですか。あなたたちもどうしてそんな噂話を吹聴して廻るんです?」
彼らのやり取りに耐えきれず、侑希斗は思わず声を荒げた。
「大体、このひと怪しいと思いませんか。院内の情報を部外者に漏らすなんてダメですよ」
侑希斗の剣幕に気圧され、看護師たちは困惑したように口を閉ざす。
「これ以上お話することはありません。帰ってください!」
(どうしよう。自分の不注意で妙な男を院内に入れてしまった……)
悪いのは彼女たちではない。どう考えてもこの男をここに連れてきた侑希斗自身だ。
侑希斗は男の腕を掴み、病棟の外に連れ出そうとした。不服気な顔をしながらも男は従う素振りを見せたが、ひと気のない一階まで降りると、突然、侑希斗を羽交い絞めにして物陰へと連れ込んだ。
「な、なにするんですかっ……」
「アンタ、あの男の愛人だろ。とっくに証拠はあがってんだ」
男はそういうと、侑希斗に数枚の写真を差し出してきた。お堀端で抱き合う二人の姿。そして、寄り添うようにしてホテルに入る姿。隠し撮りされたと思しきそれらの写真に、さぁっと血の気が引いてゆく。
「この写真をばら撒かれたくなかったら、俺に協力するんだな。脅しじゃないぞ。もっとエグい写真も確保してんだ。あの男だけじゃない。アンタもここを解雇されちまうようなヤツだ」
「っ……なにをしろっていうんですか」
「簡単なことだよ。あの男が、なんのためにあんな裁判を起こしたのか、本当のところが知りたい」
「そんなの、看護師の方たちがいっていたじゃないですか。単に、友人の無念を晴らしたかったんでしょう」
「ばかいうな。そんなヌルい理由で、医局に追放されるような地雷を踏みに行くやつはいない。なにかがあるんだろう。裏にあるその『なにか』を知りたいんだ」
「そんなの俺にわかるわけないじゃないですか……大体、どうしてあなたは高崎先生につきまとってるんです。名乗りもしないでいきなりいうことを聞けって。いったいなんなんですか」
下卑た男の声がたまらなく不快で、侑希斗はいつになく強い口調で男を問い質した。
「医療系のネタを専門に扱うフリージャーナリストだ」
名刺を差し出し、男はそう答える。
「医療系のジャーナリスト……さっき彼女たちもいってましたけど、その裁判って八年も前の話なんでしょ。いまさらそんな昔の事件を掘り起こしてなんになるんですか」
「あの男の父親が医師会会長に就任したんだ。T大卒の会長は六十年以上ぶりだ。同業者の間で、その裏になにがあるんだって話題になってる。――それに、例の医療裁判の判決が出た直後、あの男の父親はJ党公認で国政に参戦しているんだ。見事に当選したが、そのときの対立候補がKの教授でな」
「なにがいいたいんですか」
「つまりあの男の内部告発は、選挙のための単なる茶番じゃないかって見方が、各方面で囁かれてんだよ。K大側は確かに裁判には勝ったが、世論は遺族や高崎の側に同情的だった。今回の医師会の会長選挙でも、息子の高崎啓二がなんらかの『工作』をした可能性が高い。大体、高崎の家は親類一同代々T大系だ。あの男だけがわざわざK大に進んでいること自体、なにか裏があるとしか思えない」
「だからって俺に、どうしろと?」
「クラウドのIDとパスワード、抜いて来いよ」
「クラウドのID?」
「あの男のパソコンの中身が知りたい。愛人のお前なら、それを抜くチャンスが転がってるだろうよ。できなきゃ、パソコンごと盗んできてもいい」
「そ、そんな……っ」
「一か月猶予をやる。もしできないようなら、お前たちの密会写真を流出させてもらう。ネタとしてはちいさいが、新会長の出鼻をくじくには悪くない。父親が必死になって勢力拡大に努めている最中に、息子は海外で放蕩三昧の挙句、ようやく日本に戻ってきたと思えば職場の若い同性スタッフに入れあげて仕事そっちのけで夜遊びに興じてるってな。やつの父親は元国会議員としての人脈をつかって、就任早々、深く政界に食いこむつもりでいる。どんなミソだって、つけりゃ尾ひれ背ひれでデカくなるんだ」
自分たちの姿を他人に盗撮されてしまったことだけでもショックなのに。
あまりにも衝撃的な男の話に、侑希斗はパニック状態に陥ってしまいそうになった。
「お前に拒否権はない。こんなものが露呈すりゃ、職場もクビだろうが。――ホモのつくる料理なんて、誰が食べたがるよ」
気持ち悪いんだよ、と侮辱され、突き飛ばされる。よろめいて壁に頭をぶつけた侑希斗に唾を吐きかけ、男は去っていった。
「どうしよう。とにかく先生に教えなくちゃ!」
よろよろと立ち上がり、汚れた頬を拭う。
全速力で医局に駆け込んだけれど、高崎の姿はなかった。もう外来の時間は終わっているのに、いったいどこにいるのだろう。
「あの、高崎先生は……きょうはオペですか?」
ナースステーションで看護師に尋ねると、「ちがいますよ」といわれてしまった。
「きょうはもうご帰宅されたのでしょうか」
「いえ、病室にいらっしゃると思いますよ」
時間のあるときには、担当する入院患者の部屋を回っているのだという。朝晩欠かさず、回診とは別に、すべての患者のようすを見に行くのだそうだ。
そっと病室をのぞき見ると、彼は患者さんや付き添いの家族とフランクに会話をしていた。痛みや不快感、不便に思っていることはないかどうか、親身になって耳を傾けている。
「そういえば最近ねぇ、前と比べて食事が美味しくなったのよ」
「それはよかったですね」
「ええ、おかげでねぇ、献立表を見ては、ああ、明日のメニューも食べたい、来週のメニューも食べたい、ってね。なんだかとっても励みになるのよ」
「やっぱり食事は大事よねぇ。食べないと結局、どんどん弱っていくものね」
「そうよ、ウチのおばあちゃんもほら、きょうも残さず全部食べられたわ。おかげで肌ツヤもいいのよ。以前はあんなに残してばっかりだったのにねぇ」
患者さんたちの言葉に、侑希斗は涙が溢れてしまいそうになった。
全部、高崎先生のおかげだ。
夢破れて仕方なく就いた、望まない仕事。
そんなふうに思い、日々の忙しさに追われ、流れ作業でなげやりにやっつけていたのは、ほかの誰でもない侑希斗自身だった。
自分の未熟さのせいで、患者さんの健康を害していた。
そう思うと、自らの至らなさに胸が苦しくなる。
「これからもきっと美味しい食事が食べられると思いますよ。ウチの栄養部は優秀なスタッフぞろいですからね」
「そりゃあいいねぇ、楽しみだ」
「ずっと食べ続けたい気持ちはわかりますけど、たくさん栄養つけて、もう一度お孫さんたちといっしょに暮らせるように頑張りましょうね」
大柄な身体でかがみこむようにして患者さんの目線に合わせ、やさしく語りかける高崎の姿。こらえきれず、侑希斗はギュッと胸を押さえてその場にへたり込んでしまった。
「侑希斗……? こんなところでなにをしているんだ。どこか具合でも悪いのか」
ずっと、聞きたくて、聞きたくてたまらなかった高崎の声。不意に話しかけられ、侑希斗はびくんと身体を強張らせた。
「せ、んせ……っ」
どうしよう。はやく、伝えなくちゃ。あの男のことを、教えなくちゃいけない。
気持ちばかりが急いて、うまく言葉が出てこない。
「たいへん、あのっ……このひとがっ……」
ポケットから名刺を取り出し、高崎に差し出す。高崎はそれを受け取ると、心配そうな顔で侑希斗の頬を拭った。
「ぁ……」
我慢したはずだったのに。気づけば頬を涙が伝っていた。
決して、涙もろい男なんかじゃなかったのに。
高崎に出会って、日々、心を大きく揺さぶられてばかりいる。
「ひとりで立てるか?」
抱えあげられそうになって、慌ててその腕から逃れる。ただでさえあんな写真を撮られたあとなのだ。周囲から怪しまれるようなことは、絶対にあってはならない。
「大丈夫、です。あの……っ」
「きょうはもう上がりなんだ。私服に着替えているってことは、お前も上がりだな?」
「え、えと……」
「話がある。――職員食堂で、すこし待っていてくれないか」
くしゃりと侑希斗の髪を撫でると、高崎は医局に戻ってしまった。
(どうしよう……)
いまここで逃げ出せば、あの男のことを話せなくなってしまう。
それ以前に――。
高崎に、逢いたい。高崎と、話したい。――触れてもらいたい。
絶対に望んではいけないことだ。それなのに、溢れる気持ちを抑えきれなくなる。
職員食堂に戻ると、侑希斗は遅番の調理員たちに混じって夕飯の片づけと明日の仕込みをしながら、高崎が来るのを待った。
「侑希斗」
声をかけられ顔をあげると、そこには私服に着替えた高崎の姿があった。
「あら、高崎先生、白衣を脱ぐとますます男前ねぇ」
「かっこいいわ〜。ウチの娘の婿にしたいくらい」
「馬鹿ねぇ、誰がアンタんとこの娘なんかと」
謎の会話で盛り上がる調理員に苦笑いをこぼしつつ、侑希斗はキリのいいところまで作業を終え、白衣を脱いで高崎のもとに駆け寄った。
「ごめんなさい。みなさん、あとはお願いしますっ」
「なにいってんのよ。アンタの就業時間はとっくに終わってんでしょうが」
「そうよ。たまには息抜きくらいしなさいよ。――高崎先生、この子に美味しいものでも食べさせてやってくださいよ」
「わ、ちょっとな、なにいってんですかっ」
「ええ、そうさせていただきます。みなさんお仕事中のところ申し訳ありませんね。栄養部の部長さん、ちょっとお借りしますね」
「ぶ、部長って……っ」
「部長だろ? ほら、IDにもそう書いてある」
「こ、これはっ……」
あわてふためき、侑希斗はネームタグを白衣でぐるぐる巻きにして隠した。
「社員二人しかいないのに部長とか……恥ずかしすぎます」
「人数の問題じゃない。お前は彼女たちを取りまとめて、この病院の栄養部門を一手に引き受けてるんだ。胸を張れよ、水野部長」
トン、と扉をノックするように胸を叩かれ、かあぁっと頬が火照る。
「さっきの、聞こえてただろう。患者さんたちの声。あの部屋だけじゃない。どこにいっても、最近『食事が楽しみで仕方がない』って声を聞くんだ。病院のなかってのは、とかく『しあわせ』や『よろこび』のすくない場所だからな。一日三回、食事の時間のたびにしあわせな気分になれる。身体だけじゃない。患者の心にとっても、食事はとても大きなモノなんだよ」
ありがとな、といわれ、また、胸がいっぱいになってしまう。
震える侑希斗の手をそっと握り、高崎は自分のほうに引き寄せた。つめたい手のひら。大好きな……高崎の手だ。
「お前がいやなら、なにもしない。――信じてついてきて欲しい」
「あのっ……まわりの目が……っ」
戸惑う侑希斗の手を掴んだまま、高崎は職員駐車場へと向かう。高崎の車は医師が優先的に使える病棟脇ではなく、敷地の最果てに置かれていた。
「どうして……こんな場所に」
「どうしてってオレはどこも悪くないし、まだ運動が苦になる年齢じゃない。職種にかかわらず、年配のスタッフに便利な駐車場を譲ったほうが建設的だと思わないか」
はじめて院内で会ったとき、侑希斗が高崎をつめたいと感じた理由。
それはおそらく――彼が常に真摯に、全力で仕事に向きあっているからだろう。患者さんのために一生懸命に取り組むあまり、周囲のスタッフには手厳しいように感じられるのだ。
けれども彼の言葉はいつだって正しく、自分もそうありたい、と感じさせるものばかりだ。
周囲の機嫌をうかがって、本質的な問題から逃げてばかりいた自分が、無性に恥ずかしくなる。
高崎の車は、思ったよりも普通の外観をしていた。4ドアのセダンで、ヨーロッパ車と思しき風貌だ。コンパクトだし、威圧感がないから大衆車のように感じられたけれど、助手席に座ってみると、シートの座り心地がとてもよく、内装の質感も品よく上質だった。
(見えるところより、見えないところに良質さを求めるタイプなんだな……)
これみよがしな高級外車ばかりが並んでいる医師の駐車場に若干引き気味の侑希斗は、そんなところも高崎らしくていいな、と思った。
(って……いけない。先生のいいところなんか、探しちゃダメだ。いやなとこ、嫌いなとこを見つけなくちゃ……っ)
あの夜から、呪文のように唱え続けてきた。
『絶対に、好きになんかならない』
その言葉は、どんなに頑張っても溢れる想いを止めてくれそうにない。
「静かな場所で話がしたいんだ。夕飯は、ケータリングでもいいか」
「え、ぁ、はい。あの、なんでも……というか……」
夕飯はいっしょに食べなくてもいいです、といおうとして、すこしでも長く高崎といっしょにいたいという、もう一人の自分を抑え込むことができない。
「わりとイケるんだ。タイ料理の店なんだけどな。野菜が沢山摂れるから、気に入ってる。ああ、パクチー、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です……」
食材の好みを訊ねられ答えると、高崎はその店に電話で注文を入れた。
連れていかれたのは、病院から車で十分ほどの場所にあるマンションだった。海に面した高台に建てられた低層マンションだ。
「えぇと……っ」
明らかにファミリー向けと思しき、ゆったりとしたつくりのマンション。まさか奥さんや子どもと暮らす部屋に、侑希斗を連れ帰ろうとしているのだろうか。
そんな予測は外れ、彼の部屋はマンションの最上階、ペントハウスのような場所だった。二十畳ほどの広々としたスタジオに、大きなベッドと書庫、机が置かれている。
もしかしたら、愛人を囲うための部屋なのだろうか。
(話って……お手当てを出すから愛人になれ、とか、いわれるのかな……)
断らなくちゃ。そう思うのに、心が揺らいでしまう自分がいやになる。
「オレの話の前に、さっきの名刺の男のことを詳しく聞かせてもらおうか」
高崎はコートとジャケットを脱ぎ、ネクタイをすこし緩めると侑希斗に椅子を勧めた。
この家には椅子がひとつしかないようだ。高崎は無造作に髪を掻きあげ、ベッドに腰を下ろす。その仕草が妙に男っぽくて、ドキドキと胸が高鳴ってしまった。
「ええと、あのひとは医療系のジャーナリストをしているらしくて……」
男にいわれたことを思い出しながら、侑希斗はできるかぎり忠実に伝えようとした。
一字一句間違えないよう、男から聞いた通りのことを順番に告げる。
「ごめんなさい。俺があの晩、先生を誘ったせいで、あんな写真を撮られて……」
申し訳なさに瞳を潤ませた侑希斗の髪を、高崎はわしわしと撫でる。安心させるためにしてくれているだけだとわかっていても、その手のひらの感触に、胸が締め付けられそうになった。
「安心しろ。なにも不安に思うことはない」
「でもっ……」
「どんなに叩かれたって埃は出ない。やましいことなど、なにひとつしていないからな。――ああ、お前が困るのか。親御さんに同性愛者だということがバレるとまずいのか」
「いえ、俺のことはどうでもいんんです。そんなことより、高崎先生の家庭がっ……っ」
「オレの家庭?」
「俺とのことで、先生の家庭が壊れてしまったらと思うと不安でたまらなくてっ」
感極まって大きな声を出した侑希斗を、高崎は不思議そうな顔で見つめている。幾度か目を瞬かせると、彼はやんわりと優美な笑みを浮かべた。
院内で顔を合わせるときもカッコいいけれど……やっぱりプライベートのときのほうが表情がやわらかくて、さらに魅力的だ。
(いけない。だから、惹かれちゃダメなんだって……)
現に今だって、侑希斗があの夜、彼を引き留めたせいで、あんな写真を撮影されてしまったのだ。
「心配する必要はない。ウチは両親もきょうだいも、オレの性的指向のことは知っているんだ」
「や、ご両親とかじゃなくてっ……奥さまやお子さんがっ……」
「奥さまやお子さん?」
「ええ、妙なゴシップ記事を出されては、大変なことになるのではないですか」
「ちょっと待て、侑希斗。いつオレが結婚しているなんていった?」
「えっ、してないんですか……?」
看護師たちのいうとおり、籍は入れていないのだろうか。
「するわけないだろう。日本はまだ同性婚は許可されていないぞ。それに……結婚するなら、相手はお前だ。――お前以外なんか考えられない」
「うそ、だ……。高崎さんには決まった相手がいらっしゃるんですよね。籍を入れていないにしたって、ちゃんと、心に決めたひとが……」
ちらりと指輪を見つめながら侑希斗が呟くと、高崎は指輪の嵌った指を侑希斗のほうに向けた。
「もしかしたらお前は、この指輪のことをずっと気にしていたのか」
そう尋ねられ、侑希斗は無言のままちいさく頷く。
左手の薬指にはめる指輪。特別な意味があると、誰もが思うだろう。
「確かにこの指輪を買ったときには、そういう意味合いもあった……だけどこのペアリングの片割れは……いまはそこにあるんだ」
高崎が指さすほうを見ると、写真たてがあった。その脇に小皿があり、確かにそこに指輪が置かれている。
窓際に、海を見下ろすようにして置かれた写真。ゆっくりとした足取りで歩み寄り、高崎は写真たての向きを変えた。
「八年前、医療過誤で亡くなったんだ。オレの勤めていた病院で行われたオペでな」
木製のシンプルな写真たてに、きれいな顔だちをした男性の写真が収められている。二十代半ばくらいだろうか。おだやかな笑顔と色素の薄い栗色の髪が印象的な、やさしそうなひとだ。
「すこしでもいい医師に執刀してもらいたくてな、その分野では権威といわれる、外科部長に頼みこんだんだ」
世界的な名医として知られ、スケジュールは何か月も先まで埋まっている大物だ。そのため、日程の融通をきかせることができなかったのだという。
「容体が悪化し、手術適応しているとは言い難い状態だった」
症例の少なく難易度の高いオペで、さらなる名声を得るために、外科部長は自ら執刀したいと考えたようだ。
「内科医も麻酔科医も、NGだといった。容態が安定するまで、オペは延期しろとな。それなのに、先生は彼らの言葉を聞き入れず、スケジュールを変更することなくオペを強行したんだ」
その結果、術中に容態が急変し、彼は亡くなったのだという。
「オレが殺したも同然だ。あの先生に頼まなければ、こんなことにはならなかった」
苦しげに呟く高崎を前に、侑希斗は胸が張り裂けそうになった。
こんなとき、いったいどんな言葉をかけたらいいのだろう。
口下手な自分が、心底うらめしい。
なにか、いわなくちゃ。そう思うのに、なんの言葉も出てこないのだ。
気づけば、手を延ばしていた。
手を延ばし、高崎の手のひらに触れる。つめたい手のひら。その手のひらが、微かに震えているのがわかった。
「ずっと……苦しんでこられたんですね……」
自分のせいで愛しいひとを死に追いやってしまった。そんな自責の念に、苛まれ続けてきたのだろう。
「遺族のためにも、せめて裁判の場で、真実を明らかにしてやりたかった。それなのに……すべては、闇に葬られてしまったんだ」
なにか声をかけてあげたかったけれど、どんな慰めの言葉も、薄っぺらになってしまう気がした。侑希斗は無言のまま、ぎゅっと高崎の手を握りしめる。
「あの日が命日だったんだ。オレはこいつの兄貴のところへ、謝罪に行った」
あのバーのマスターが、彼の兄なのだという。どんなに償っても、償いきれない大きな罪。高崎は慰謝料を支払いたいと申し出たが、唯一の遺族である彼の兄は、決してお金を受け取ろうとはしないのだそうた。
それでも高崎は、毎年花をたずさえ、あのバーに行くのだという。
「あの日も仕事のあと、花を届けに行ったんだよ。それで、たちの悪そうな男に絡まれているお前に出逢ったんだ」
誰もがしあわせな笑顔を浮かべるクリスマスイブに、高崎は毎年、大切なひとを失った喪失感に打ちひしがれ、ひとりきりで己の行いを懺悔するつらい夜を過ごしていたのだろうか。
「あのホテルは……はじめて二人で泊まったホテルだったんだ。まだオレも学生で、無理していい部屋取って……叱られて。――だから命日は、いつもあの部屋で、ひとりで過ごしてた」
「彼、年上だったんですか」
いつだって悠然としている高崎が叱られるところなんて想像がつかなくて、侑希斗は思わずそう尋ねてしまった。
「ああ、二個上だ。――高校に入ったばかりのころ、なんとなく勉強づくめの日々がいやになって、いつも降りる駅で、電車を降りなかったんだ。そのまま電車にゆられ続けて、終点まで来て……駅のホームで酔っ払いに絡まれているこの男に出逢ったんだよ」
「だからあの夜、俺を助けてくれたんですね」
「正直にいえば、最初のきっかけは、そうだ。――だけど身代わりにしようとか、そんな気持ちは毛頭なかった。あの夜だって酔いがさめるまでつきあって、送ってやろうと思ってた。だけど、なんだろうな――お前を見ていたら、放っておけなくなったんだ。馬鹿だな。傷ついて極限まで弱ってるのは自分のほうなのに。それなのに震える手のひらでギュッとこの手を掴まれて……オレが、そばにいてやらなくちゃいけない、なんて思っちまったんだ」
高崎の手のひらが、侑希斗の手を包みこむ。とてもつめたくて、けれども誰よりもやさしい、大好きな手のひらだ。
「恋なんて、二度としないつもりだった。そうすることが、オレに出来る唯一の償いだと思ってた。だけどあの日、お前に出逢って……たった一晩一緒に過ごしただけで、お前はオレの心のなかに入りこんでしまったんだ」
ギュッと抱きしめられ、高崎の熱に包み込まれる。
手のひらはとてもつめたいのに、その胸は驚くほど温かい。たくましい腕のなか。いとしくて、触れたくて、ずっと押さえ続けていた想いが、こらえきれず堰をきって溢れ出してしまう。
「せんせいっ……」
「先生、じゃない。――啓二、だろ?」
やんわりと咎められ、「啓二さん」と呼びなおす。好きなひとを下の名前で呼ぶなんて慣れなくて、なんだかそれだけで照れくさい気持ちになった。
「俺、二番目でもいいです。せんせ、じゃなくて、えっと、啓二さんの心のなかが彼のことでいっぱいで、その、ほんの片隅にちょこっとだけ置いてもらえるだけでもいい。――だからっ……どうか、先生の……そばに……いさせてください」
震える声で、途切れ途切れに告げた侑希斗の頬を、高崎の大きな手のひらが包みこむ。
「逆だろ。オレが、お願いする側だよ。――完全に忘れてしまうことは、できないかもしれない。だけど、オレはお前を二番目なんて思わない。というか……すでにもう、オレの心のなかはお前でいっぱいなんだ。ダメだって思うのに。誰かを好きになる資格なんてないって思うのに――止まらないんだ。お前を欲しいって気持ちが、止まらない」
高崎はそういうと、左手の薬指から指輪を外そうとした。
「だめっ……先生、ダメですっ。指輪、外しちゃダメっ……」
侑希斗の制止を聞き入れることなく、高崎は指輪を外してしまった。それを遺影の前に置き、侑希斗に向きなおる。
「好きだ、侑希斗。お前のことが、好きなんだ」
真っ直ぐ目を見つめ、告げられた言葉。侑希斗はただ黙って、こくこくと頷いた。
なにか言葉をかえしたいのに、どんな言葉もうまく出てこない。高崎を見上げて、何度も深呼吸して、必死で言葉を紡ごうとするのに、なにもいえなかった。好き過ぎて、いとし過ぎて、もう、おかしくなってしまいそうだ。
高崎の手を掴み、唇を突き出すようにしてキスをねだる。
「侑希斗……っ」
抱きしめられ、そっと唇を重ね合わせるだけのキスをされた。
何度も、何度も、いつくしむように重ねられる唇。軽やかなそのキスはくすぐったくて……けれども、とても心地がよかった。
「いやだったら、拒んでくれて構わない。こうしてお前に触れられるだけで、オレは十分しあわせなんだ」
やわやわと髪を撫でられ、侑希斗はちいさく首を振る。
「大丈夫……です。もう、怖くない。ちゃんと、先生の気持ち、わかったから。だから……大丈夫です」
途切れ途切れに答えると、高崎はやさしい眼差しで見つめてくれた。
「その『先生』って呼ぶの、直らないんだな」
「ご、ごめんなさいっ……あのっ……」
「いや、いいよ。――すこしずつでいい。ゆっくりなおしてくれたらいい。お前にとってオレが職場の同僚じゃなく、ちゃんと『恋人』になるまで、時間をかけてじっくり愛しつづけるよ」
そっと頬を撫でられ、くちづけられる。やさしくて、蕩けそうに甘いキスだ。
「侑希斗」
「――はい」
おそるおそる目を開くと、すぐそばに高崎の姿があった。触れ合うほど近い場所にある唇が、やさしく囁く。
「あいしてるよ」
真っ直ぐ向けられる言葉。たまらなくうれしくて、侑希斗は何度もうなずき、「俺もです」と答えた。
抱き寄せられ、そっとベッドに横たわらされる。
「あ、あの、シャワーは……っ」
起き上がろうとして、やんわりと引き留められた。
「あとでいくらでも浴びさせてやるよ」
「えっと……あ、そうだ。ごはん、お届けに来てしまうのでは」
「宅配ボックスに入れてもらえることになってるんだ。冷蔵機能つきのやつが、部屋の外に備え付けられてる」
「うぅ……」
「いやなら、しない。――やめるか?」
高崎の身体が離れていきそうになって、侑希斗は慌てて引き留めた。
「や、やめないでくださいっ……ただ……」
「ただ?」
「俺、たぶん、ものすごく重いです。今でさえ先生のこと過ぎすぎておかしくなりそうなのに……これ以上好きになったら、どうなっちゃうか、自分でもわかんなくて……っ」
「――侑希斗」
「は……はいっ」
どうしよう、引かれてしまっただろうか。
不安になる侑希斗を、高崎はぎゅうっと力いっぱい抱きしめた。
「幾らだっておかしくなっていい。重いのなんか、大歓迎だ。どれだけ重くたっていいから、全力でオレを愛せ」
深みのある声で囁かれ、くちづけられる。先刻までの軽いキスとはちがう、ねっとりと絡めとられるようなキスに、意識が朦朧としはじめた。
「んっ……ぁ、はぁっ……」
夢中になってその舌を求めるうちに、気づけば衣服を脱がされている。
「電気……消しませんか……」
「全部、見たいんだ。侑希斗、お前の全てが見たいんだよ」
そんなふうに囁かれ、侑希斗はちらっと窓際に置かれた写真たてを盗み見てしまった。
確か例のジャーナリストが、亡くなった彼は、売れない俳優だったといっていた。
写真だけでなく、きっと実物もとてもきれいなひとだったのだろう。彼と比べて、自分はあまりにも魅力に欠けるのではないかと不安になる。
「なにを考えている?」
「ゃ、あ、あのっ……」
慌てて高崎に向き直ると、そっと眼鏡を外された。
「俺は、お前しか見えてない。だからお前も、ちゃんと俺だけを見ていてくれ」
つめたい手のひらに頬を包みこまれ、やわやわと撫でられる。親指で唇をなぞられ、ぞわりと背筋が震えた。
唇を甘噛みされ、悶えるような快楽に包まれる。半開きになった侑希斗の口内に、そっと熱い舌が差しこまれた。
濡れた舌でなぞられると、なにもかも考えられなくなる。手を伸ばして高崎の背に縋り、もっと欲しいとその舌をねだり続けた。
「キスが好きか」
耳元で囁かれ、侑希斗は答えた。
「高崎先生のキス……すき、です……」
加藤と交わすキスは、いつだってほろ苦い味がした。かすかに残る煙草の苦味にどうしても慣れなくて、侑希斗はいつも息を止めて身体を強張らせていたのだ。
「もう、よそではするなよ」
侑希斗の顎を掴み、そっと上向かせるようにして高崎はいう。
ちいさく頷くと、ふたたび唇を重ね合された。顎に添えられていた高崎の手のひらが、侑希斗の首筋や肩を辿ってゆく。つめたかった手のひらが、段々と侑希斗の熱に温まり、肌になじみはじめた。
「ぁっ……」
その手のひらに、あの夜のような違和感はない。つめたく冷えた指輪は、いまはもう、高崎の指にははまっていないのだ。
(先生の彼氏さん、ごめんなさい。俺、先生を好きな気持ち……止められません……っ)
額に、鼻の頭に、頬に、次々とくちづけられ、どこまでも蕩かされてゆく。
触れられる場所すべてが心地よくて、声が溢れてしまうのを止められなくなる。
必死で唇を噛みしめる侑希斗に、高崎はやさしい声でいった。
「大丈夫だよ。ここ、防音、すごくしっかりしてるんだ。すこしくらい声をあげたって、まわりに聞こえたりしない」
「周りに聞こえなくても……先生に……っ」
頬を真っ赤に染めた侑希斗の耳朶に唇を押し当てるようにして、高崎は囁いた。
「聞かせてくれ。侑希斗のかわいらしく甘える声が聞きたい」
「か、かわいらしくなんてっ……」
身を捩って逃れようとして、やんわりと引き留められる。
「かわいいよ、侑希斗。いとしくて、いとしくて……オレの方こそおかしくなりそうだ」
ぐっとのしかかるようにしてくちづけられた。高崎のその重みにさえ感じてしまい、侑希斗は己の浅ましさに頬を染める。
「ぁ、あのっ……」
侑希斗にとって、いつもセックスは忍耐だった。じっと痛みに耐えて頑張れば、終わったあと、やさしく抱きしめてもらえる。
それなのに高崎の行為は、やさしくて、どこまでも甘やかされて、ぐずぐずに蕩かされてしまうみたいで……とても怖いのだ。そんなふうに甘やかされることがうれしくてたまらない自分は、ダメな生き物なのではないかと不安になる。
このままじゃ本当に高崎のことが好き過ぎて、依存して、高崎なしでは生きられなくなってしまう。
それはとても怖くて、でも、たまらなくしあわせなことだと思う。
心も身体も、全部で高崎のことを好きになって、思いきり溺れて、きっとそれでも高崎は、いいといってくれる。
溺れる侑希斗を、ちゃんと丸ごと受け容れてくれる。
そんなふうに思えることが、うれしくてたまらなかった。
「先生……」
「どうした?」
やさしい瞳で見つめられ、侑希斗は自分から、ちゅ、と高崎の唇にくちづけた。
「――すき」
キスの狭間に告げ、もう一度唇を重ね合わせる。
何度もくちづけ「すき」と告げつづける侑希斗の頬を、高崎はやさしく撫でながらそのぎこちないキスを受け続けてくれた。
くちづけあううちに、段々とキスの主導権は高崎に戻ってゆく。唇を重ね合わせるだけの軽やかなキスが、いつのまにかいやらしい水音をたてる濃密なキスに変わっていた。
「侑希斗……っ、あいしてるよ」
「せ、んせ……」
高崎の左手に、自分の右手を重ね合わせる。指を絡めあってきつく繋ぎ合っても、今日はつめたい指輪の感触がない。
「侑希斗」
やさしく腰回りをなぞっていた手のひらが、侑希斗の太腿のつけ根に触れる。
「ぁっ……」
高崎のその指が、ぬるっと侑希斗の肌の上をすべった。
「ぁ、ご、ごめん……なさ……っ」
先端から溢れ出した蜜が、侑希斗の内腿までぐっしょりと濡らしてしまっている。溢れ出る気持ちをそのまま見透かされてしまったみたいで、恥ずかしくてたまらなくなった。
真っ赤に頬を染めてうつむいた侑希斗に、高崎はやさしくくちづける。
「謝る必要ない。――うれしいよ。心も身体も、オレを受け容れる準備ができてるってことだろ?」
囁かれ、あまりの恥ずかしさに侑希斗は手のひらで自分の顔を覆い隠した。
「ダメだよ、侑希斗。全部見せてほしいと、いっただろう?」
やさしく咎められ、その手を退けられる。
「うぅ……っ」
「ほら、こんなに溢れてる。オレのことを、それだけたくさん愛してくれてるってことだよな」
たくましい高崎の昂ぶりが、侑希斗の濡れた内腿をなぞった。
「ぁっ……ん、ぅ……」
溢れ出した蜜を残さず掬い取るように、太腿のつけ根や、侑希斗自身に、高崎は己の先端を擦りつける。
「んあぁっ……ぁ、ぁ、ゃめ、せ、んせっ……」
ぶるっと侑希斗の身体が震え、先端から熱い迸りが溢れ出した。
「ぁ、ぁ、ぁ――っ」
勢いよく飛び散ったそれが、高崎の肌を、侑希斗の肌を濡らしてゆく。
「ご、ごめ……なさ、ぁ、ぁ、あぁっ……」
侑希斗が達してもなお、高崎はその昂ぶりを侑希斗に擦りつけつづける。飛び散った白濁を掬い取るように擦られ、侑希斗のソレがふたたび形を取り戻した。
「侑希斗、あいしてるよ」
くちづけられ、互いのモノを擦り合わせるようにして高められてゆく。あっというまに天を仰いだソレは、高崎の熱に煽られ、ふたたびいやらしい蜜をあふれさせはじめた。
「ぁっ……ぁ、ぁ、せ、んせ、ゃ……っ」
滴り落ちた蜜が、侑希斗の太腿を濡らしてゆく。それを指先で掬い取ると、高崎は侑希斗の窄まりへと塗りこめた。
「んぁっ……ゃ、だ、めっ……指、汚れちゃ……っ」
濡れた指先が侑希斗の蕾をとらえる。長いあいだ誰にも触れられることなく硬く閉ざしたそこを、高崎はやさしく弧を描くようになぞった。
「ぁっ……ぁ、せ、んせっ……」
甘やかなキスに蕩かされながら、ゆっくり、じっくりとそこを解されてゆく。
「ぁっ……ぁっ……も、ぃいっ……から……っ」
おねがいだから、はやく挿れて。
そう懇願しそうになるくらい、高崎は丹念に侑希斗のそこを愛しつづけてくれた。
「んはぁっ……せ、んせ、も……っ」
「もう、なに?」
はやく挿れてほしい、なんて……口が裂けてもいえそうにない。
「せ、んせっ……もっと、そばに……はやく、そばに……っ」
それが精いっぱいだった。高崎の背に爪をたて、もどかしさに喘ぐように侑希斗は彼のキスを求める。
「こんな姿をほかの男にも晒していたのかと思うと、気が狂いそうになるよ」
首筋に歯を宛がわれ、すこし強めに甘噛みされた。
「ぁっ……!」
所有のしるしを残すかのように噛みつかれ、きつく吸い上げられる。
「ごめ……っ、なさっ……もう、しな……先生以外と……しな……っ」
「当然だ。よそでできるような余力なんか、残させない。誰にも触れさせたりしない。――侑希斗、お前は俺だけのものだ」
指を引き抜かれ、思わず声が溢れた。
「んあぁっ……!」
すっかり高崎の指のかたちに拡がったそこに、高崎は熱く昂ぶった己の分身をそっと擦りつける。
「ぁ――」
先端で擦られただけ。それだけの刺激で、身体中の細胞が歓喜に打ち震えてしまった。
「せ、んせっ……」
「侑希斗」
じっくりと解されたそこが高崎の先端を捉える。指とは比べ物にならないくらい熱く滾ったソレの感触に、ぞわっと肌が粟立った。
「ぁ、ぁ、ぁ、ん――」
ゆっくりと割り入られるその感覚に、侑希斗は喉を反らして身悶える。
「侑希斗――」
名前を呼んでくれるその声までも、蕩けそうに熱く火照っているように感じられた。
「せ、んせ……キス……キス……したい、です……」
唇を突き出すようにしてねだると、高崎はうれしそうに口元を綻ばせた。
「侑希斗は……本当にキスが好きだな」
「ちが……好きなのは……キス、じゃなくて……」
啓二さん。と、震える声で告げた瞬間、貪るようなキスを繰り出された。
「んっ……ぁ、ぁっ……ゃ、ぁ、ぁ、あぁっ……!」
くちづけながら、ゆっくりと、ゆっくりとなかを押し広げられてゆく。
驚くほどたくましい高崎の分身。けれども不思議なことに、痛みはなかった。
身体のなか全部を埋め尽くされてしまうのではないかと錯覚するくらい、とてつもない圧迫感だ。
「どうして……痛く、ない、のかな……」
思わずつぶやいた侑希斗に、高崎はくちづける。
「ちゃんと、侑希斗の心がオレを受け容れてくれているからだろ」
ちゅ、ちゅ、と何度も唇や頬にくちづけられながら、やわやわと髪を撫でられる。
その指の動きが心地よくて、侑希斗は目を閉じたまま、手さぐりに高崎の唇を探し出し、自分から何度もキスをしかえした。
「ダメだ。愛らしすぎて……自制心が吹っ飛びそうだよ」
唇を甘噛みされ、侑希斗は不思議に思い彼を見つめる。
「最初くらい、じっくり愛してやりたかったんだがな」
高崎はそういうと、覆いかぶさるようにして侑希斗に深くくちづけた。
「ぁっ……ん、ぅ、はぁっ……ぅ」
グッと挿入が深くなって、高崎の全てが侑希斗のなかに埋めこまれる。
「侑希斗っ……痛く、ないか?」
やさしく囁かれ、侑希斗はちいさく頷いた。
「せ、んせ……キス……」
「あぁ、キス、しよう。侑希斗、あいしてるよ、侑希斗……っ」
唇が離れるたびに、あいしてる、と囁かれる。名前を呼ばれ、くちづけられて、数えきれないくらい沢山、愛を囁かれた。
大切にされているのだ。
過去に、どんなに大切な人がいたとしても、いま、自分に向けられている愛情はちゃんと本物だ。心から、そう思うことができる。
そのことがうれしくて、たまらなくうれしくて、気づけば頬を涙が伝っていた。
「ゆき……と?」
心配そうに見つめられ、侑希斗はふるふると首を振る。
痛い、わけじゃない。哀しい、わけじゃない。うれしくて泣いているのだと伝えたかった。
言葉で伝える代わりに、侑希斗はキスをせがんだ。高崎の背に腕をまわし、唇を突き出すようにしてキスをせがむ。
「せんせ……もっと……そばに……っ」
掠れた侑希斗の声に、高崎の低い呻き声が重なる。
グッと深く突き立てられ、侑希斗は思わず甘えた声で啼いてしまった。
「あぁっ……ん、ぅ……」
ミシリ、と大きくベッドが軋む。最奥まで貫いたそこで、高崎はさらに擦りつけるように腰を遣った。
「はぁっ……ゃ、せ、んせ、ぃ、お、くまではいっちゃ……っ」
「侑希斗っ……!」
しばらく奥を突かれたあと、唐突に引き抜かれ、ふたたび素早く埋めこまれる。いままでのゆったりした突き上げから一転、あまりにも激しいその動きに、侑希斗は声を押し殺すことさえ忘れて泣きじゃくった。
「ゃ、せ、んせっ……ぁ、ぁ、あぁっ……」
ギシギシとベッドの軋む音と、肉を打つ音。激しく揺さぶりながらも、高崎は侑希斗にくちづけることを忘れない。
「ぁっ……ん、ぅ、ぅ、んぁっ……っ」
あまりにも激しい突き上げに何度も唇が離れて、そのたびに侑希斗は高崎の唇を求め、彼もそれに応えてくれる。
深く、深く、貫かれているのに。それだけじゃなくて、唇も手のひらも、身体の全部で繋がっていたかった。
「せ、んせっ……好き。好き、ですっ……せんせっ……」
ずっと押さえ続けていた気持ち。一気に溢れ出したそれは、もう、どんなことをしても止まらなかった。
身体のなかを高崎でいっぱいに埋め尽くされるたびに、心まで彼の愛で満たされてゆく。
「せ、んせ、ゃ、も、イく、イっちゃっ……っ」
「ああ、侑希斗。いいよ、イこう。いっしょに……」
ズンッと最奥まで貫かれ、脳天まで突き抜けるような快楽が走った。頭のなかが真っ白になって、なにもかも考えられなくなる。
汗ばんだ高崎の肌。その肌が擦れる感触にさえ感じてしまい、必死で彼に抱きすがる。
「ぁっ……ぁ、んぁっ……せ、んせっ……ぁ、だめっ……イく、イっちゃっ……」
これ以上、深い場所なんてないと思ったのに。高崎は侑希斗の膝を掴むと、グッと倒しこむようにしてさらに深く埋めこんできた。
「あぁああっ……! ゃ、せ、んせ、あ、あぁっ……んあぁああっ……!」
「侑希斗、あいしてるよ、侑希斗っ」
唇を重ね合わせてなんとかキスをしようとするのに、どんなに頑張っても激しく突き上げられ、うまくくちづけられない。
もどかしくて、くるしくて、けれどもそれを上回る快楽に覆い尽くされ、無我夢中で高崎の熱を求めつづける。
「だ、め、も、せんせっ……ほんとにっ……ぁ、んぁ、ぁっ、んあぁああっーーーっ」
勢いよくしぶいたその瞬間、ずぶりと最奥まで埋めこまれた。白濁を溢れさせるその身体を、ひときわ激しく貫かれる。
「ゃ、も、だめっ……せ、んせ、しんじゃっ……!」
達した直後の身体をめちゃくちゃに揺さぶられ、我を忘れて泣きじゃくった。手足をばたつかせて暴れる侑希斗を抱きしめ、高崎がありえないくらい深い場所まで貫き、動きを止める。
「侑希斗――っ」
侑希斗の最奥で、高崎の熱が爆ぜる。熱くしぶいたその迸りに、侑希斗のなかが満たされてゆく。
「ぁ――」
あたたかなその感触に、こらえきれず大粒の涙が溢れた。うれしくて、しあわせで、もう、止まらなかった。
「侑希斗……?」
心配そうに見つめる高崎に、侑希斗は泣き顔のまま微笑んだ。
「先生に……啓二さんに、逢えて、よかった……いっぱい、頑張るから……おれ、頑張るから……いつか……啓二さんのつらいの、すこしでも……」
癒せますように。
最後まで言葉に出していうことは、できなかった。けれど、すこしはなにか、伝わったのかもしれない。高崎は繋がったままギュッと侑希斗を抱きしめ、何度も、何度もくちづけてくれた。
くちづけあって、抱きしめあって、結局、もう一度繋がった。何度抱きあっても足らなくて、二人は意識を失うまで、互いの熱を求めあい続けた。
目覚めると、温かな腕のなかだった。
いつだって目覚めると一人きりだった侑希斗にとって、それははじめての経験だ。
「おはよ……ござい、ます……」
寝起きの顔を見られるのが照れくさくて、高崎の胸に頬をくっつけたままつぶやく。
「ああ、おはよう」
やさしく侑希斗の髪を撫でると、高崎は「身体、つらくないか」と気遣ってくれた。
「だいじょぶ……です」
侑希斗の手を握りしめる高崎のその指に、かすかに指輪の跡が残っている。そこだけ白いその肌に、侑希斗はそっと触れた。
「気になるか」
「いえ、平気です。というか……つけてもいいですよ? 指輪」
「つけるわけないだろう。――つけるとしたら、次はお前の名を刻んだペアリングだよ」
ちゅ、と頬にくちづけられ、くすぐったさに身を捩る。
「あのっ……でも、本当に大丈夫でしょうか。例のジャーナリストの件……」
不安になる侑希斗の髪を、高崎はくしゃりと撫でる。
「昨日もいったけど、オレは家族に性的指向をオープンにしているし、理事長だってそのことは知っている。まあ、患者やスタッフのなかには偏見のある人間もいるかもしれないが……その程度のことで離れてゆくのなら、それはオレの医師としての日頃の行いが悪かったってことだ」
日々、全力で患者にもスタッフにも接している。それでも手のひらを返されるようなら、所詮、自分に人徳がなかったということでしかないよ、と高崎はいう。
「でも……意外ですね。理事長、そういうのうるさそうなのに」
「お前、理事長のこと、頭のかたいケチな守銭奴だと思ってるだろ」
「えっ……いえ、そんなふうには……っ」
図星をさされ、慌てふためく侑希斗に高崎はやんわりと笑ってみせる。
「あのひとは、なかなかの人徳者だぞ。オレが同性の恋人のために大学を相手取って裁判を起こしたことも、そのせいで医局から追放されたことも、すべてわかっていてオレを雇い入れてくれた」
「そ、それは……」
いい人材を、安く買いたたけるという打算からきているのではないだろうか。
思わず零した侑希斗の鼻を、高崎はむいっと摘み上げる。
「理事長は確かに守銭奴だ。だけどな、医師としても経営者としても素晴らしい人だよ。あの人が金にこだわるのは理由があるんだ」
診療報酬制度の度重なる改定により、収益は下がる一方だ。特に中規模私立病院は、どこも苦境に立たされている。
「市民病院が郊外に移転しただろ。そのせいで年寄り連中は、具合が悪くても病院に行かずに我慢してるんだ」
市街地にあり、通いやすいウチのような病院は、彼らのためにも絶対に存続し続けなくてはならないのだ、と理事長は考えてるようだ。
「限られた予算のなかでいい病院を作ろうと奮闘してる。たとえば法律上、管理栄養士の配備が義務付けられているのは300床以上の病院だ。本来ウチは必要ない。それなのに管理栄養士を常駐させてるってことは、それだけ、患者の健康を真剣に考えてるってことだよ」
確かにそうだ。献立作成業務は、外注だってできる。そもそも調理業務自体、外注で安く済ませている病院が大半なのだ。
「そういう素晴らしい人のもとで働いてるってこと、わかっておいたほうがいい」
理事長のことなんて、まわりの誰もが悪くいっている。食堂で、厨房で、彼をよくいっているところなんて聞いたことがない。
物事の本質をとらえることなく……その場の愚痴に終始してしまうからだ。自分自身もいままで、そうやって過ごしてきた。
「なんか――ほんと……高崎先生といると、自分の未熟さが心底嫌になります」
ぐったりとうなだれる侑希斗の頬を、高崎の手のひらが包みこむ。
「なにいってんだ。侑希斗はオレより八つも年下だろう。八年後には、きっと今のオレなんかよりずっとイイ男になってるよ」
「な、なれませんよっ……俺なんかっ……」
反論しかけた侑希斗の唇を、高崎はやんわりとつまみあげる。
「なれるさ。オレが育てるからな。心も身体も、オレがじっくりと育ててやる。過去の哀しい恋なんか全部、忘れちまうくらいにな」
「どうしてそれを……っ」
過去の話なんて、いままで一度もしたことがないはずだ。それなのに……なぜ、気づかれてしまっているのだろう。
「お前、泣くんだよ。きょうもそうだった。オレがベッドから出ようとすると『いかないで』ってせつなげに泣くんだ。はじめて出会ったあの日、お前のそんなようすに、すっかりヤられちまったんだよ」
「なっ……」
恥ずかしさに頬を染めた侑希斗を、高崎はやんわりと抱きしめる。
「オレは絶対に、お前に寂しい思いをさせたりしない。だから侑希斗――いっしょに生きよう」
付き合おう、ではなく、いっしょに生きよう。
高崎らしい愛の言葉に、胸が熱くなる。
「はい――いっしょに、生きたいです」
聖夜に見つけた、二度目の恋。
できることなら最後の恋にできるよう、たいせつに、たいせつに育てていきたい。
そんなふうに思いながら、侑希斗はいとしい恋人にくちづけた。
【完】